第3話 トイレの花子さん除霊依頼
夕暮れ時の旧校舎は、まるで巨大な棺桶のようだった。
湿り気を帯びた空気が肺にまとわりつき、廊下の奥からはカビと古い木材、そして微かに「腐った水」の臭いが漂ってくる。
「……三番目のトイレに、出るんです。あの子が」
案内役の教師は、そこまで言うと逃げるように去っていった。
女子トイレの入り口。木製の扉に打ち付けられた真鍮の「3」という数字は、何かに侵食されたように黒く滲み、まるで涙を流しているように見えた。
「ベタだなあ。怪談の王道じゃないですか」
魁斗が緊張を紛らわせるように笑う。
「油断するな。ベタほど大衆の恐怖を吸って肥大化する。質が悪いわよ」
冥は、いつもの隊服に身を包み、冷徹な視線で奥を見据えていた。
コン、コン、コン。
魁斗が、一番奥の個室をノックする。
……コン。
一拍置いて、内側から「返事」があった。
ギィィ……と、蝶番が悲鳴を上げて扉が開く。
そこにいたのは、おかっぱ頭に赤い吊りスカートの少女。
だが、その顔には「目」も「鼻」も「口」もない。ただ真っ白な肌の上に、クレヨンで殴り書きしたような『あそぼ』という文字が浮かび上がっていた。
「うおわっ!?」
突如、魁斗の足元のタイルが黒く変色し、ボコボコと泡を吹き始めた。
固いはずの床が、底なしの「便器の中」のように粘り気のある水へと変わる。
ズブッ、と膝まで沈み込む魁斗。
その汚濁に満ちた水面から、無数の、本当に無数の子供の手が這い出してきた。
「いっしょにあそぼ」「いっしょにいこう」
重なり合う声が、足首を、太ももを掴み、奈落へと引きずり込もうとする。
直後、魁斗の視界から「床」が消失した。
扉の向こうは暗闇ではない。それは、物理法則を無視して地下へと続く、目も眩むような「深すぎる穴」。
「え……うわああああああ!!」
重力が逆転し、魁斗の身体がその縦穴へと吸い込まれる。
穴の壁面はコンクリートではない。それは、蠢く無数の髪の毛、湿ったトイレットペーパー、そして底から這い上がってくる無数の「子供の手」で埋め尽くされていた。
「こっち、おいで。いっしょに落ちよう?」
ドロリとした水音が、奈落の底から響く。
「……目障りね。空間歪曲――矯正」
空中に静止した冥が、抜刀。
一閃。
ズバァァァン!!
鋭い銀光が「穴という空間」そのものを断ち切った。
次の瞬間、世界が反転するように元のトイレへと戻り、魁斗は冷たいタイルに叩きつけられた。
「げふっ……! え、今の何!?」
「穴よ。邪魔だから埋め戻したわ」
「雑!! 命の恩人だけど説明が雑すぎる!!」
コン。
一音。それを合図に、全個室から一斉にノックが始まった。
コンコンコンコンコンコンコンコンコン!!
それはもはや音ではない。振動が「物理的な衝撃波」となり、トイレの壁を飴細工のように歪ませ、魁斗の鼓動を無理やり同期させる。
「あ、が……心臓が、破裂する……!!」
「消音領域」
冥が指を弾く。
刹那、空間から全ての振動が消滅した。
物理的な衝撃波すらも、冥の圧倒的な呪力によって「沈黙」へと強制上書きされる。
「うるさかったから消したわ。文句ある?」
ガシャァァァァァ!!!
洗面台の鏡が一斉に爆砕し、その破片が重力を無視して宙に浮いた。
数千の破片、その一つ一つに「花子」が映り込み、そして一斉に実体化して飛び出してきた。
「増えすぎだろ!!!」
数十体の花子が、爪を立て、異様な速度で突進してくる。
「全域斬滅」
冥は刀を納めたまま、右手の指だけを動かした。
空間に蜘蛛の巣のような白光の線が走る。
次の瞬間、突進していた全ての花子が、一斉にサイコロ状に「切断」され、血の一滴も出さずに塵となって消えた。
「所詮、怪談ね。語り継がれるだけの価値もない」
「強すぎるでしょこの人……! もう俺いらねえじゃん!」
だが、異常はここからだった。
「……“斬れる”って、思った?」
重なり合う少女の声。
次の瞬間、冥の刀が、触れた先から「斬れないもの」へと性質を変えられた。
鉄を切るはずの刃が、まるでおもちゃのラバーナイフのように、花子の首筋でぐにゃりと曲がる。
「……そういうことね」
冥の瞳が鋭く細まる。
花子は、観測者の認識を逆手に取り、世界の定義を「反転」させ始めたのだ。
床が水に、壁が脈打つ肉壁に、天井が巨大な穴に変貌する。
「引き込み」「ノック」「鏡」「増殖」。
これまで個別に繰り出されていた怪談が、今度は「全方位同時発動」となって襲いかかる。
「なら定義ごと焼く」
冥が本気を出す。
周囲に数百枚の呪符が展開され、光ではない「情報の焼却」が始まった。
「完全消去術式――起動」
空間が純白に塗りつぶされる。トイレという場所そのものを、この世の記録から抹消せんとする最強の殲滅。
それでも。
「私は伝説の“花子さん”だよ?」
白光の中で、少女が笑った。
「トイレの花子」という、日本で最も強固に固定された「学校怪談としての絶対存在」。その概念の壁が、冥の術式を弾き飛ばした。
(……私の術式が、上書きされた?)
冥の動きが、初めて止まった。
「あんた、誰?」
背後から、花子が魁斗の首に冷たい手を回す。
「あんた、何?」
魁斗の呼吸が止まる。脳内にノイズが走り、自分の名前さえ忘れそうになるほどの圧迫感。
「……うるせえよ」
魁斗の中で、何かが「キレた」。
「うるせえ、うるせえ、うるせえよ!! 誰だっていいだろ、俺は俺だ!!!」
魁斗は隣の掃除用具入れを蹴り開け、一本の古びたモップを掴み取った。
「待ちなさい、それは――」
「お前なんか!! 最初からいねーんだよ!!!」
バキィィィィン!!!
魁斗がモップを床に叩きつけた瞬間。
世界がガラスのように砕け散った。
強烈なデジタルノイズが走り、花子の姿がピクセル状に崩壊していく。
除霊ではない。それは、不具合を起こしたデータをゴミ箱へ捨て、「最初から存在しなかったこと」にする強制削除。
「……あ……」
花子が最後に発した声も、空気に溶けるように消えた。
気づけば、そこはただの古びたトイレだった。
タイルは汚れ、鏡は割れているが、そこには何の怨念も、怪談も残っていない。
「……勝った、のか?」
「違うわ。勝ってない」
冥が、鞘に収めた刀を握り直す。
「あんたは今、彼女を『消した』だけ。この世界というシステムから、彼女の存在を抹消したのよ」
「え……?」
冥は、呆然とする魁斗に向け、初めて少しだけ楽しそうに微笑んだ。
「……面白いわね。神の消しゴム、か」
二人が立ち去った後。
粉々に砕けた鏡の一片に、一瞬だけ。
赤いスカートではない、「真っ黒なドレス」を着た別の花子が、
魁斗の背中をじっと
見つめ
そして、笑った。




