第8話 不純物の旅立ち
新宿を瓦礫の海へと変えた、あの長い夜から数日が過ぎた。
街は依然として静寂に包まれ、復興の兆しすら見えない灰色の風景が広がっている。
神楽坂魁斗は、その瓦礫の上に座り込み、己の右腕を見つめていた。
セイユの暴力を「なかったこと」にし、ソルトの浄化とせめぎ合った、あの黒いノイズ。
「……っ、クソが」
魁斗は拳を地面に叩きつけた。
セイユを倒し、街を(瓦礫にして)守った。……だが、それは冥の命がけのオトリと、大先輩であるレンの作戦、ミオの協力があったからこそ成立した、奇跡的な薄氷の勝利に過ぎない。
ソルトとの実力差を感じた魁斗
あいつは、ただ指先を向けるだけで、世界を「正解」へと書き換える。
対する自分は、デッキブラシを振り回し、無意識のバグ(エラー)を撒き散らすことしかできない。
「兄さん。君は、世界の書き損じ(エラー)だ」
ソルトの冷徹な瞳が、脳裏から離れない。
あいつはまた、来る。次は、セイユのような邪魔者はいない。
「……強く、ならなきゃ」
魁斗は立ち上がり、黒祓会の神楽坂支部(の、瓦礫の隣に建てられた仮設テント)へと向かった。
テントの中では、師匠である冥が刀の手入れをし、別事務所の大先輩であるレンが何やら複雑な数式をノートに書き殴っていた。
魁斗はテントの幕をめくり、中に入る。
二人の前で、彼は深く頭を下げた。
「……冥師匠。レン先輩。……お願いがあります」
静寂が、テントを支配した。
刀を拭う音と、レンのペンの音だけが響く。
「……何かしら、バカ斗」
冥が刀から目を離さずに言う。
「……俺を、特訓してください。……ソルトに勝つために、今の俺じゃ、全然足りないんです。……不純物の使い方も、呪力のコントロールも、何一つ……」
「……やだ」
冥は刀を鞘に納め、めんどくさそうに溜息をついた。
「あんたを特訓? 冗談じゃないわ。特級の時間は、あんたみたいなバグに割くほど安くないの。第一、私は今、この街の事後処理で忙しいのよ。めんどくさいわ」
「師匠! そこをなんとか……!」
「ダメなものはダメ。……レンに頼みなさいよ。別事務所の『論理的先輩』なら、バグの修正くらいお手の物じゃない?」
魁斗は期待を込めてレンを見た。
レンはノートを閉じ、眼镜をかけ直して、不敵に微笑んだ。
「おっと、魁斗。僕も、今は少し忙しくてね」
レンはテントの隅に置かれていた、瓦礫の中から奇跡的に無傷で回収された高級な花束を手に取った。
「新宿という舞台は崩壊したが、僕の冥への愛は、その瓦礫の下でさらに強固に再統合された。……これから僕は、冥への第999回目のプロポポーズのための、完璧な数式を構築し、実行に移さなければならない。……君の特訓に割く論理的猶予は、今の僕にはないんだ」
「……っ、求婚に忙しいって……!!」
魁斗の右腕が、苛立ちで黒いノイズを放電し始める。
「……騒がしいわね。バグが暴走するなら、ここで私が『掃除』してあげましょうか?」
冥が刀に手をかけ、冷徹な瞳で魁斗を睨む。
「……っ、くそ……!」
魁斗は拳を握りしめ、テントを飛び出そうとした。
「待ちなさい」
冥の声が、魁斗の足を止めた。
彼女はめんどくさそうに顎をしゃくり、北の方角を指差した。
「……あんたが、どうしても『バグ』を『力』に変えたいって言うなら、ここじゃないわ」
「……え?」
「恐山よ。……あそこには、私の……神楽坂家の『先代』、私のおじいさんがいるわ」
冥は刀を帯に差し、瓦礫の海を見つめた。
「アイツは、神楽坂流の異端児だった。呪力なんていう綺麗なものじゃなく、死者の怨念だの、この世の『不浄』だのを力に変える、あんた以上に質の悪い『バグ』みたいな陰陽師よ。……アイツなら、あんたのその汚い呪力の使い方も、教えてくれるんじゃない?」
「恐山……、おじいさん……?」
「ただし。あそこは、生きた人間が近づく場所じゃないわ。死者と生者の境界線。……あんたのその『不純』が、本物か、ただのエラーか。あそこで、試してきなさい」
冥はそれだけ言うと、レンの求婚を無視して、テントの奥へと消えた。
数時間後。
新宿の瓦礫の山から少し離れた、まだ辛うじて動いていた駅のホーム。
魁斗は、ボロボロのリュックサックを背負い、デッキブラシを杖代わりに立っていた。
その隣には、全身に青い炎を纏ったミオが、宙に漂っている。
「……本当に、行くの?」
ミオが、心配そうな瞳で魁斗を見つめる。
「ああ。……ここにいても、何も変わらない。……冥師匠のおじいさんってやつに、会ってくる」
魁斗は北へと続く線路を見つめた。
「恐山。……死者と生者の境界線か。……俺みたいな『バグ』には、お似合いの場所かもな」
ミオは少し躊躇した後、魁斗の肩にそっと手を置いた。
「……私も、行く」
「え? お前……」
「私も、強くなりたい。……姐姐(ミサ姉ちゃん)を消した、あの子の『正解』を、私も叩き壊したい。……一人で行かせるのは、心配だしね」
ミオはそう言って、少しだけはにかんだ。
「……そうか。じゃあ、ゴミ拾い(特訓)のパートナーとして、よろしく頼むわ」
魁斗は笑い、ミオと共に、北へと向かう電車に乗り込んだ。
新宿という瓦礫の山を残し、不純物の兄弟は、さらなる「不浄」の聖地、恐山へと旅立つ。
魁斗修行編。その幕が、今、静かに上がった。




