魔法は解けた
僕は近くのコインパーキングに停めてあった父の車で、隣県にある実家へ帰った。帰省するのは三年ぶりくらいだろうか。実家は郊外の住宅地で、都内と比べると幾分か静かに感じる。
兄は職場の病院の近くに一人暮らしをしているため、実家にはいない。ただ大学院生の妹の愛莉が実家にいて、僕たちが帰った物音を聞きつけて出てきた。
「えっ? 鋭利兄さん!? 父さんたち、もしかして鋭利兄さんのところに行ってたの?」驚いている妹の反応を見るに、愛莉は両親が出かけた理由を知らなかったらしい。「もしかして、有利兄さんのことで鋭利兄さんを責めに行ったんじゃないでしょうね? そんなのダメよ。誰かを好きになるのって感情の問題で、他人がどうこう言えることじゃないんだから――」
「だからといって、恋愛で他人に迷惑を掛けていいわけじゃない。自分の気持ちを貫くのなら、それなりの筋を通さなくてはならないんだ」父が愛莉に答える。
「だから、あの記事は事実じゃないんだよ。僕は不倫なんかしてないんだ」
僕は今にも喧嘩を始めそうな父と愛莉の間に割って入った。二人を宥めながら、言葉を続ける。
「僕も不倫の報道には迷惑してる。だいたい、芸能人でもないのに、何でメディアに報じられなきゃならないんだ。――だけど、それはともかく兄さんが上司と険悪になったことや婚約破棄された責任は僕が取るつもりだよ。僕が発端だから」
「責任を取るってどうするつもり?」愛莉は眉をひそめる。
「兄さんの上司のところへ行って、僕からちゃんと説明する。それから婚約者さんも説得する」
「それって鋭利兄さんがすべきことじゃないと思う。それに有利兄さんの上司の家も連絡先も、知らないでしょ? どうやって説明するの?」
愛莉の言葉にそれまで黙っていた母が口を開いた。自分が知っているから、連れていくと言う。愛莉はぎょっとした顔になり、制止の言葉を口にした。けれど、母も言い出したら聞かないタイプだ。
「車を出すわ。早速、行きましょう、鋭利」
「え、あ、うん。ありがとう」
さっき帰ってきたばかりだというのにふたたび玄関を出ようとする母に、半ば気圧される形で従う。父はといえば、どうやら兄のところへ行くつもりのようだった。
「俺は有利を連れていく。有利も一緒に先方に謝れば、関係が修復できるかもしれないからな」
「無理でしょ。有利兄さんの性格からして、ぜんぶ覚悟で上司に刃向かったのよ。――兄さんたちも私も、父さんたちの道具じゃない。いくら父さんと母さんが私たちにアルファらしい生き方をさせようとしたって、私たちにも感情があるんだから」
そう言い放った妹の声に僕は背中ごしに振り返った。バチリと愛莉と視線が合う。ずっとアルファの副性を持つ者としての生き方に上手く馴染んでいるのだろうと思っていた妹は、しかし、今、ひどく懸命な目をしてこちらを見ていた。
ああ、そうか、と不意に気づく。
僕だけがアルファという副性を上手く生きられないのだと思っていた。兄や妹や世間の多くの人は、何の苦労もなく自分の副性と折り合いを付けているのだろう、と。だけど、そうじゃなかったのだと今になって理解する。
何だか不思議な気持ちのまま、僕は母を追って外へ出た。母はすでにカーポートから車を出していて、僕に「乗りなさい」と勧める。僕が助手席に座ると、母はゆっくり車を発進させた。
「――愛莉があんな風に思っていたなんて、知らなかったよ。アルファとして上手く生きてるんだろうと思ってたから」車窓を流れていく風景を眺めながら、僕は呟く。
「そりゃあ、愛莉だっていろいろあったもの。初めてできた彼氏に『アルファの女の子はかわいげがないから好みじゃない』って振られて泣きながら帰ってきたり、ね」
「え? それ、初めて聞いたよ。――っていうか、その彼氏って誰? 誰がそんなこと言ったの?」
「もう何年も前……愛莉が高校生のときのことよ。それに、もう終わったこと。母さんがその子と親御さんと話をしたし」
「そうなんだ……」
いったん抱いた怒りが、矛先を失ってしぼんでいく。車内に微妙な沈黙が満ちて気まずく思い始めたとき、母さんが口を開いた。
「愛莉を振った彼のことで、親御さんと話に行くときにね、母さん、意外だったの」
「意外? 何が?」
「母さんはオメガで、思春期のときに『いずれ結婚して子を生む道具』みたいな世間の目線を感じていたから、アルファになりたかった。でも、アルファの女の子でも『かわいげがない』って言われてしまうんだなて」
「僕は母さんが意外だよ。アルファになりたい、なんて。アルファなんて別にいいことないよ。どっちかって言うと、僕はオメガになりたかった」
「言っておくけど、オメガなんて別にいいことないわよ。出産を期待されるし、ナメられるし」
淡々と母さんが呟く。その言葉を聞きながら、僕は自分の周囲のオメガ性の人々のことを思い返した。フィクションでは、オメガは芸術的才能があったり、従属的であったり、神秘的で魅力的な存在として描かれることが多い。けれど、燐太郎さんにしろ、花梨や母さんにしろ、現実にはフィクションのオメガとは異なっていて、オメガのステレオタイプに抗いながら生きているのだった。
――なんだ、母さんだってオメガになりたい僕と同じなんじゃないか。
このところ、お馴染みになった気づきをふたたびなぞる。思春期の頃から僕が知覚していた、世界が魔界のように視える魔法は今やほとんど解けていた。




