責任を取る
母は兄の勤め先だった病院近くにやって来ると、コインパーキングに車を入れた。兄の上司は磐井さんという人で、病院に近い場所に一軒家を建てて暮らしているという。母は車の中で磐井医師に電話を掛けて、在宅かどうかを確認した。どうやら運良く先方は家にいるようだ。母は僕を伴って車を降りた。住宅街の通りを進んで、ひときわ立派な家の玄関の前で足を止める。
「ここよ。準備はいい?」
問いかけられて、僕は頷く。母はそれを見てにっこり笑った。物怖じしない態度で彼女がインターフォンを押す。と、すぐに母と同年代らしい女性の声で返事があった。おそらく声の主は磐井夫人なのだろう。
「突然、申し訳ありません。水城です。息子の鋭利のことで、謝罪に参りました」
母が来訪の目的を伝えると、夫人は戸惑った様子ながらも中へ案内してくれた。応接間に通され、お茶を出される。待つこと五分ほどで、五十代半ばくらいの恰幅のいい男性が磐井夫人とともに現れた。母は二人の姿を目にすると、すっと立ち上がって深く頭を下げる。僕もぎこちなくそれに倣った。
「この度は、うちの有利が失礼なことをして申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ水城君には大人げないことを言ってしまいました。申し訳ありません。しかし、娘との婚約解消に関しては、もはや変えることはできません」
話してみれば、磐井さんという人は道理の分かるタイプのようだ。僕は彼を説得しようとして口を開いた。
「あの……、初めてお目に掛かります。水城有利の弟の鋭利です。今回、兄が磐井さんに失礼を働くきっかけになったのは、僕がゴシップメディアに取り上げられたせいなんです」
「ああ、初めまして。弟さんがいらっしゃるとは聞いていましたよ。優しい、いい弟さんだと。鋭利さんのことを大事に思っているからこそ、水城君は私が弟さんを侮辱したと怒ったんでしょう」
磐井さんは、少なくとも今はゴシップメディアに報道された僕のことを色眼鏡で見てはいないようだった。そのことに内心、ほっとしながら僕は事情を説明する。燐太郎さんとは友人であること。番のいるオメガと浮気をしたわけではないこと。
「――とにかく、今回の報道は事実無根ですし、兄に非はありません。どうか、娘さんにも会わせていただけませんか? そして説明をさせてください」
僕がそう言ったときだった。インターフォンが部屋に鳴り響く。磐井夫人が立ち上がって、応対のために玄関へ出て行った。
おそらく、父が兄を連れてきたのだろう。そう思ったが、どうやら妙だ。玄関の方が妙に騒がしい気がする。いったいどうしたのかと気になって、僕は無礼とは知りながらも「すみません、ちょっと!」と叫んで応接間を飛び出した。玄関へ向かえば開け放された扉の向こうに父と兄の姿が見える。そればかりか、どういうわけか父の前に燐太郎さんと愛莉、それに花梨が立っていた。
「は?」
予想外の状況に僕は思わず気の抜けた声を発する。
燐太郎さんは父の前に立って深々と頭を下げ、父は燐太郎さんに掴みかかろうとし、兄と愛莉が両側からその腕を引っ張って止めている。花梨はといえば、いつでも父と燐太郎さんの間に割って入れるよう、半分くらい身を乗り出した姿勢だった。
「ちょっと、これはいったいどういう状況!?」
磐井夫人が困ったように僕を振り返る。
「みなさん、うちの前でばったり会ったようなのよ。それで言い合いになったみたいで」
「――鋭利さんを心ないゴシップメディアにさらしたのは、俺の責任です。彼は不倫も何もしていません。ですから、彼に責任を取らせるのは止めてください。どちらかといえば、弁明すべきなのは俺の方です」燐太郎さんが父に向かって訴えている。
「いや、そもそも弁明なんて必要ないよ。病院を辞めたことも婚約破棄も、ぜんぶ俺が望んだことだし、婚約者も了承したんだ。元々、彼女が望む未来と俺が望む未来は違っていたから」兄が父の腕を引きながら取りなす。
「いや、有利と磐井のお嬢さんが合意の上で婚約破棄したとしても、筋は通す必要があるだろう。有利、お前が上司に暴言を吐いたのは悪いことだった。それは謝罪しなくては」
そう言ってなおも前に進もうとする父を、愛莉が懸命に引き留めている。
「もう! どうしてそう石頭なの!?」
「ちょっと待って、待って!」僕は思わず玄関を飛び出して、皆の中心に割って入った。「父さんと兄さんはともかく、なんで他の三人はここにいるの!? なんで余所のお宅の前で揉めてるの!? みんな、迷惑を考えないと!」
その途端、辺りがしんと静まり変える。皆が今更のように近所迷惑だと思い至ったようだ。静かになった玄関前に磐井夫人が出てきて「皆さん、中で話されませんか?」と申し出てくれた。皆は気まずそうに顔を見合わせてから、磐井夫人の勧めに応じてお宅にお邪魔することになった。
あまりに大人数で応接間に戻った僕らを見て、母は驚いたように目を丸くする。が、すぐに我に返ったのか、ダイニングから追加の椅子を持ってこようとする磐井夫人を手伝いにいった。僕と兄もそれに続く。
来客の人数は、僕と母も含めれば七人。磐井夫妻も加えて計九人が座るとなると、どうかき集めても椅子が足りない。「なんだか、もう法事みたいね。うち、親戚が多いのよ」と言いながら、椅子を運ぶことを諦めて仏間を開けることにしたようだった。僕と兄は指示されるままに仏間の物入れから法事用の座布団を出し、大きな卓袱台の周りに並べていく。その間に母と磐井夫人が皆のお茶を用意した。
やがて、皆が仏間に移動して、卓袱台を囲んで着席する。
「――この度は、お騒がせしてしまい申し訳ありません」と、口火を切ったのは父だった。父は磐井氏の方を向いて深く頭を下げる。「元はいえば息子の有利が失礼なことをしたのが原因です。それでお嬢さんにもご迷惑を掛けてしまいました」
その言葉に兄がもの言いたげに身体を揺らす。兄が発言すれば、磐井さんに失礼なことを言いかねない。それを防ごうと、父に続いて僕も言葉を発した。
「磐井さんは、さっき僕が説明をしたときにご自身の発言も行き過ぎだったと言ってくださったんだよ。だから、これで誤解は解けたはず」
「――あの、もう少し説明させてください」
遠慮がちに言葉を発したのは燐太郎さんだった。磐井さんが不思議そうな顔をする。
「あなたは、水城さんのおうちの方ですか?」
「いえ、私は吉井燐太郎といいます。水城鋭利さんの友人です。鋭利さんはゴシップメディアに報道されたとき、私と不倫していることにされたんです」
燐太郎さんはそこでネットシンガー兼作曲家として活動していることや、相方のリョウスケのことを皆に説明した。リョウスケと自身はネットシンガーとして知名度があるが、メジャー歌手とは違って大手事務所に所属しないため、ゴシップメディアが狙いやすいのだということも。そうして不倫報道について、鋭利は巻き込まれただけなのだと改めて弁明した。
「水城さん一家に関する問題は、すべて私の脇の甘さから出たことです。本当に申し訳ありません」
座布団から畳に降りた燐太郎さんが、深々と頭を下げようとする。僕は慌てて彼の肩を掴み、押しとどめた。よく見れば、彼の目元にはメイクが施されている。どうやらリョウスケの引退報告配信に出演した後に、メイクを落とす間も惜しんで駆けつけてきてくれたらしいと思い至って、胸がギュッとなった。
けれど、今は自分の気持ちにかまけている暇はない。
「燐太郎さんがうちの家族のことまで責を負うのは違うでしょ。だいたい、どうして僕がここにいるって分かったの?」
「花梨さんに教えてもらったんだよ。彼女とは知り合いなんだ。花梨さんがアイドル時代に、楽曲提供したことがあったから」
そういえば、作曲家兼ネットシンガーの《クロシェット》のことを教えてくれたのは花梨ではなかったか。思わず花梨を振り返ると、アイドル時代とは打って変わってベリーショート姿の彼女は肩をすくめてみせた。
「あたしは、愛莉ちゃんから鋭利君が大変なことになってるってメッセージが来たから、燐太郎さんに連絡したのよ」
「どうして僕に何かあったからって、燐太郎さんに連絡するんだよ」
「だって、二人は恋人みたいなものでしょ」
皆が僕と燐太郎さんへ目を向ける。父が厳しい表情で口を開いた。
「鋭利、不倫は事実無根だとお前は言ったはずだが」
その言葉に答えようと、僕は声を発しかけた。と、傍らの燐太郎さんが僕の掴んでいた腕を引いて、庇うように肩を抱き寄せる。予想外の彼の行動に僕はとっさに反応することができない。
「不倫ではありません。私とリョウスケは、お互いに同意して別れることに決めました。オメガとアルファの番関係が婚姻に準ずるにしても、同意の上で別れた私たちは他人です。その上で、私は鋭利さんの恋人になれたらと思っています」
「なっ……! こんなところで、そんな――」
突然の燐太郎さんの発言に、頬がカッと熱くなる。だいたい、僕らは付き合っていないのだ。いきなり親に挨拶するかのような状況に、気まずさと燐太郎さんへの心配と決まりの悪さとで一杯いっぱいになる。しかし、僕の恥ずかしさなんかより、問題はこの場がよそのお宅だということだった。いったいどう反応していいか分からないまま、とりあえず僕は磐井さんに顔を向けて「すみません、無関係の話をしてしまって」と謝罪した。
優しい磐井夫人が苦笑とともに「今更ですよ。もうここまで聞いてしまったんですし」と応じる。夫妻の反応にいっそう気まずさを覚えながら、僕はやんわり燐太郎さんの腕を解いた。この人は恋人でもない僕のために、一人でここまで乗り込んできて僕を守ろうとしてくれるのだなと改めて思い至り、胸の奥がキュッとなる。何だか少し離れがたい気分になりながら、僕は燐太郎さんから少し離れて座り直した。
「君たちが、世間に顔向けできないようなことをする人間ではないというのは分かったよ」磐井さんがゆっくりと口を開いた。「有利君も、血の気が多いだけで悪い男じゃないというのも理解している。ただ、うちの娘が婚約解消を言い出したのは、有利君とお互いその方が最善だと考えたと聞いている。有利君は、今の病院に勤める以外に夢があるのだとか」
誰も想定していなかった事実に、皆がはっとして兄の方を見る。兄は困った顔で頭を掻いた。
「そうなんだよ。俺はずっとレールに乗って生きてきたけど、それって俺の本当にやりたいことじゃないなって気づいてさ。海外の医療困難地域に医師としてボランティアに行きたいと思って、磐井先生の娘さんと婚約解消の話をしてたんだ。正直、今回、病院を辞めたのはちょうどよかったんだ」
皆には色々、迷惑を掛けてしまったと兄は深々と頭を下げる。
磐井さんは「構わないさ」と鷹揚に頷いた。
「私たちが成人する頃は、まだ昔の価値観が根強くあって上の世代も健在で、学生時分がどうであろうと就職したら大人として振る舞うことを求められたよ。だが、今はもうそういう時代じゃない。私は水城君の好きにすればいいと思っているが……どうでしょうかね?」
と、磐井さんはうちの父に顔を向ける。父はしばらく考えこんでいたが、傍らから母が小さく肘で小突く。それから、こちらへ向き直った。
「父さんだって、あなた方を理解したくないわけじゃないのよ。ただ、私たちは古い価値観を盾に戦ったようなものだから。昔はオメガ女性はもっと結婚して子を産むのが当たり前とされていて、母さんも好きでもない相手と婚約させられそうになっていたの。それを友達だった父さんが『見初めたから』ってことにして助けてくれたの」
「今、そんな話をしなくてもいいだろう」
父は弱々しく母に反論する。が、母の勢いは止まらない。
「いいえ、ここで打ち明けてしまわないと禍根が残るだけよ。――有利と花梨ちゃんの婚約もね、もともとは花梨ちゃんのお母さんから頼まれていたの。自分たちは離婚するかもしれないから、何かあったら娘をお願いって。だから、もし花梨ちゃんが成人して二人が望まないなら婚約解消も覚悟していた」
母の打ち明け話に僕ら兄弟も花梨もびっくりして、二人を見つめることしかできない。まさか両親がそんな風に考えていたなんて。ふと高校生のとき、初めて書いた小説の冊子を踏みつけにされたときのことが脳裏に蘇る。これまでは鮮明な怒りを伴っていた記憶が、今は何だか色褪せて感じられた。ああ、あの出来事は過去になったんだ。そんな確信が降ってくる。どういうわけか、僕はもう大丈夫だと思った。過去への憎しみを原動力にしなくても、自分を嫌悪しなくても、その気になれば一人で立っていられる。どこまででも歩いていける――。




