3
甘くなるまで、というか、二人が自分の気持ちに気がつくまでもう少しかかります、前置きが長くお待たせしてすみません。この事件さえ!落ち着けば!
ああ、失敗した。
若葉の頭にまずよぎったのはその言葉だった。
都の治安の悪さを、紅丸の制服を笠に着て軽んじていた。
買い物を無事終え、紅丸のお屋敷の門までたどり着いたことで意識がそぞろになり、背後から近づいてくる不審者に気がつかなかったのも、赤いペンキを頭から被ったことも、大声で喚きながら逃げる男相手に呆然としすぎて不審者を取り逃がしてしまったことも。
全て若葉に取って「失敗」だった。
まあ、騒ぎを聞き付けた交番のお巡りさんがすごい早さで追いかけて行ったので、すぐにあいつは捕まったのだろうけれど。あのお巡りさん金髪だったな、なんてどうでもいい考えがよぎる。
最近、仕事に慣れて気がゆるんでいたのだと自省しつつ屋敷の門をくぐった。一人暮らしでフリーターとして生計を立てていた頃は常に周りを警戒し、ピリピリして不審者どころかストーカー一人寄せ付けたことも無かったのに。道を行き交う人たちの気の毒そうな視線が突き刺さる。巻き込まれたくないのであろう近所の人たちが近づいてこないのは、有り難かった。今の若葉は愛想笑いが出来る精神状態ではない。
落ち込んだ顔で帰宅すると、まず庭を整備していたヤオが発見して泡を食って飛んできて大騒ぎし、それを聞き付けた高橋、桜木、少し遅れて智也がやってきて、冷静に素早く使用人部屋に連れてこられた状態が今である。
若葉を赤く濡らしているのが血液ではなくペンキであることを告げるとまずは一同落ち着いたようだった。高橋がざっと若葉の身体検査をしたのだが、若葉自身に体調に関する違和感を感じなかったこともあり、いまは異常無しということだが、とにかく着替えて、ペンキに有害な物質が入っていないか、皮膚や粘膜に影響がないかを医師を呼んで確かめると言われた。若葉にも異論はないためシャワー室に行こうとしていたそのときだった。
使用人部屋のドアの前で
「入るぞ」
と低い声がし、返事をする前にパッとドアが開いた。そこにいたのは、この屋敷の紅き主人。赤髪にルビーの瞳の紅丸征一郎だった。
途端に部屋の空気が引き締まる。
征一郎が入室以降だれも発言しなくなった。
どことなくバタバタしていた空気が一瞬でピンと張り詰め、感覚が無言のうちに冴えていくようだ。主人がこの状況でどういう対応を取るのかと、この場にいる使用人としては指示を仰ぐ他ない。この主人に限ってないとは思うが、若葉に対して激昂し怒鳴り散らしたり、逆に報復に向かおうとしたりするならば止めなければならないため、多少の身構えも必要となる。
征一郎は、なんの比喩でもなく全身真っ赤になった若葉を見て一瞬体の動きを止めるが、すぐに大きく二歩進み出て、遠慮など全くなく若葉の頬に手を伸ばした。驚いた若葉がなにか言うより前に、若葉の頬についたものを人差し指ですくいとると、付着した赤に触れ、指先を擦り合わせて感触を確かめる。
「征一郎様!」
高橋が控えめだが低めの声で諌めると、征一郎は赤から目を離すことなく「ああ」と応えるものの、その行動を止めるつもりは無いようで、自身の指についた赤を擦ったり伸ばしたりして確認しているようだった。
「…ペンキか」
「そのようで」
簡潔な征一郎と桜木のやり取り。短く息をついた征一郎は30センチほど下にある若葉の顔を見下ろしてきた。
若葉としては、あまりまじまじと見ないで欲しい。いつもの、時間を掛けて整えている顔でようやく御前に立てるような立場の方なのだ。こんな、「失態をおかしました」という姿を見て欲しくなくて、でも目を反らすのも何かに負ける気がして、顎を引きつつも主人の目から自身の視線を反らさずにいる。どんな表情をしたらいいのかわからないので取り敢えず無表情を取り繕ったが、圧に負けて怯えた顔になってしまっていたかもしれない。
その間、五秒ほど。
静寂のなか、若葉は改めて自身を見下ろした。
顎から、髪の束から、固まりきっていないペンキが一滴、また一滴とぽたりと滴り落ちる。
長くて黒いスカートには赤黒く大きな染みがついており、肌についたものよりリアルに血液を連想させるようだった。
タイツにも、靴にも。赤が所々に付着しているのが目に入って、若葉の胸に、何かが詰まって喉から込み上げて、叫びだしたい衝動に駈られたが、拳をぎゅっと握ってやり過ごした。
「そう、ですね。お医者様に診て頂いたあと警察署にもいかなければいけませんし、着替えて来ます。…征一郎様、皆様、お騒がせして申し訳ありません。」
握った拳を開いて、腹の前で重ねて、体を折り曲げる。ここで習った挨拶の仕方は随分板についてきた。
「…いや、謝ることではない。今後は男女関係なく、短時間でも二人以上での外出を義務付ける。桜木、高橋も、いいな。」
「「承知しました。」」
二人の声が重なったことを確認すると、征一郎は若葉の方に向き直ったようだった。下を向いたままの若葉は、次は何を言われるのだろうと身構えた。
「若葉。」
「はい。」
「これは大方、お前個人ではなく『紅丸』への攻撃だ。…謝るのはこちらだな、対策を練りきれていなくてすまなかった。…このまま、辞することも考えるだろうが、しばらく時間をくれると助かる。」
「えっ、そんなことは…!」
予想斜め上の発言を受けて、若葉はぎょっとして顔を上げた。見上げた先には、紅い瞳が少し困った気持ちを形作ってこちらを見下ろしている。
この主人は、軽率に一人で出掛けた若葉を注意するでもなく、『紅丸』の名を貶めた相手を追うことでもなく、まず若葉がこの職場を嫌になって退職しないかを危惧しているらしい。
あの『紅丸征一郎』が。
入ってまだ半年もたっていない新人の使用人に。
ぱちぱちまばたきをして、思考を纏めようとしていると、若葉が戸惑っていることを察した桜木が助け船を出してきた。
「征一郎様、まずは彼女に身なりを整える時間を与えてはいかがですか。」
「ああ、そうか。そうだな。若葉、医者に診せたあとは警察へ行くんだな?では、俺も同行しよう。今日納めなければならない仕事自体は目処がついているし、警察に知り合いがいる、話を通しておいてもいい。」
えっ、一緒にくるの、という顔をついしてしまったものの、視力が弱く、空気を察知するのがどうやら苦手らしい征一郎は気がつかなかったようだ。一人でどこか納得したように頷いて、大股で部屋をでる際に智也に出掛ける用意を言いつけていたので本気で付き添うつもりらしい。
征一郎は部屋を出ると自室に向かったようだ。対して智也は食堂へと足を向けたらしい。弁当かなにか持っていくのだろうか。
とにかく、どういう理由があろうとも主人を待たせるわけには行かないので、若葉もより急いで自室に行く必要が出てきた。
部屋に残った桜木と高橋、そしてヤオに向き直るとぺこりと頭を下げる。
「お騒がせして申し訳ありません。すぐに着替えてきます。」
「いいえ、こちらこそ一人で出掛けさせてしまってごめんなさい、わたしの落ち度です。」
高橋にそう声をかけられて、若葉はまた驚いて顔をあげることになった。高橋が謝るのを聞くのは、主人に対しても含めて初めてのように思う。ただし鉄面皮は剥がれておらず、いつもの冷静な高橋なので、妙な気分がする。
「警察からあなたが帰ってくるまでに対策を考えておきます、あなたにも意見があれば聞かせてちょうだい。」
「わかりました。」
どうやら高橋は使用人頭として責任を感じているようだ。こちらの不手際もあるのになんだか申し訳ない気もして、再度頭を下げる。何度も謝ると卑屈に見える気がして、謝罪を口にするのはやめた。
「…若葉、あのさ。」
頭を上げる若葉に遠慮がちに声をかけてきたのはヤオだった。この屋敷の者ではないのにわざわざ駆けつけてくれて、本当にいい人だなと若葉は心の端で考えていた。若葉への好意もあるのかもしれないが、きっとヤオの本質的な優しい部分が、この事態を放っておけなかったのだろう。
「ヤオくん、ごめんなさい。今日はお手伝い、出来そうにないかも。」
「そんなの!…そんなのは、いいんだ。若葉、大丈夫か?怖かったろ?警察に行くのはそんなに急がなくても…。」
「…ありがとう、大丈夫。征一郎様が同行なさるなら、お時間を無駄にするわけにはいかないし、おそらくもう犯人は捕まってるだろうから、顔見に行かないとね。」
警察への協力は都民の義務だもの。
言外にそう匂わせると、若葉は敢えて少し儚げに見えるように薄く微笑んで見せた。
笑顔を使い分けるのは最早若葉のライフワークだ。ヤオにも嘘は言っていない。利用しているわけでもない。やましいことは何もないのだ。…今は。
顔を俯けてなにかモゴモゴ言っている様子のヤオに、またね、と声をかけ、桜木と高橋に辞することを伝えると小走りで着替えを取りに自室に向かった。
怖かった?
だれが?
そんなこと、ない。
基本的に一人で生きてきたし、これからもそうだ。
わたしはつよいから、だいじょうぶ。
早足で歩きながら、ヤオが言った言葉への弁解を探していることに若葉自身は気づいていない。
一人で部屋に入った時に、膝から崩れ落ちそうになったのも、ペンキを投げかけられ、罵声を浴びせられたことも。
屋敷に入るまでの周囲からの憐れみの目も。
全部ぜんぶ、どうってことない。
洗面台で手を洗うときに、水が真っ赤に染まったことで、涙が滲んでしまったのも。
何でもない。
すべて自分の中で飲み込んで、処理しなければ。
慰めて貰っても、一銭にもなりはしないのだから。
自分に言い訳をしている最中、控えめなノック音とともに、高橋が医者の到着を知らせてきたので、震える声を騙し騙し返事をした。
*********
なんとか体に付いたペンキをシャワーで洗い落とし、医者の往診を終えると、警察に行くのだからとなるべく落ち着いた色合いをと考えたチョコレート色のワンピースを着て玄関に向かう。
そこには、紺のジャケットに白シャツ、ジーンズという、比較的ラフな出で立ちの征一郎がリアムを伴って立っていた。
「お待たせして申し訳ありません!」
「構わない、ペンキを洗い落とすのは一苦労だっただろう。」
予想よりも早かったと微笑む。私服で外出するのを見るのは初めてかもしれない。そう頭の端で考えながら小走りで駆け寄ると、隣にいるリアムが「そこじゃねぇだろ」と征一郎に突っ込み、次いで神妙な顔で声をかけてきた。
「若葉ちゃん、大変だったね。」
「リアム様も、お休みなのに来て下さったんですね、ありがとうございます。」
「いやまあ、警察にいる征一郎の知り合いは俺の知り合いでもあるし、『紅丸』がコケにされたとあれば俺も黙ってらんないからな。」
快活に笑うリアムも、Tシャツにジャケット姿。仕事着とは言えない出で立ちなので、恐らくは征一郎に呼び出されたのであろう。リアムのペンダントに下げられた指輪が光るのを目にするのも、初めてだ。夏蓮曰く、リアムは既婚者らしいのだが左手の薬指には何も嵌まっていないので、そういうことなのだろう。
「体はどう?異常なしだって?」
「はい、お医者様にもお墨付きを頂きました。」
リアムの気遣うような態度に恐縮しながら答える。女性の医師は簡単な問診と視診をし、今後気分が悪くなるなどの異常を感じたらすぐに連絡するようにと伝えると慌ただしく出ていった。バタバタしてはいたが、ダラダラせずに仕事はしっかり行う様子に若葉は好感を持って見送ったのはほんの5分前だ。
そっか、と安心した様子のリアムに、この人もいい人だなとどこか他人事のように思う。この忙しいけど優しい人と結婚したのはどんな人物だろうという考えが頭をよぎったが、その疑問を口にするのは今ではないだろうと自重した。
「じゃあ行こうか、若葉ちゃん、ほんと、体調悪くなったりしたらすぐ言ってね。」
「はい、ありがとうございます。」
いつものようににっこり笑うと、リアムからも好感の持てる笑顔が返ってくる。
この人も、笑顔を作り慣れているなと時折感じる。若葉のようになにか利益のためという訳ではなく、自分の良さをわかった上で自分を売り込む笑顔…な気がする。
自分のそれよりも奥が深そうだし、主人の腹心に「たまに笑顔が胡散臭いです」なんて言えるはずもないので、腹のなかだけに留めているが。
そんなことをかんがえながら、この場で一番身分が低い若葉が先に玄関を出て、準備していた智也から引き継いで馬車のドアを開けてから主人たち二人を振り返ると、何やら征一郎がリアムに肩をはたかれているのが見えた。幼いころからの知り合いらしいこの二人ならではの心を許した雰囲気に微笑ましく感じると同時に、羨ましいと感じたのはきっと、気のせいだろう。




