第7話 動かない路地
石壁の向こうで、振動はまだ続いていた。
伊織は耳を澄ませた。目の前の黒杭は、もう動いていない。
「別口か」
アリアも石壁へ顔を向けた。
「そのようです」
「位置は?」
アリアは目を閉じ、しばらくして首を横に振った。
「正確には分かりません。ただ、この水路の先ではありません」
「街側」
「おそらく」
遠くで警鐘が鳴った。一度鳴り、間を置かずにもう一度。
ヴァルムドラッヘの死骸の横で、「もう始まってる」と口にした男が顔を伏せた。
「知ってるな」
「知らねえ」
返事が早すぎた。
「何も訊いてない」
男は口を閉じた。伊織もそれ以上は追わなかった。
「戻るぞ」
「この人たちもですか?」
「ああ」
四人の顔が揃って引きつった。
「おい、待てよ。こっちはあの化け物に殺されかけたんだぞ」
「歩けるな」
「そういう話じゃ――」
「置いていってもいい」
男はヴァルムドラッヘの死骸を見た。数秒迷ってから、のろのろと立ち上がる。
「……歩く」
「なら行くぞ」
アリアが小さく息を吐いた。
「選ばせたつもりですか?」
「選んだだろ」
「選択肢が一つしかありません」
「本人が決めた」
「そういうところです」
伊織は返さなかった。
四人の武器を集め、短剣と棍棒はまとめてアリアへ預けた。鉄槌は重すぎるので、その場に残していく。両手までは縛らなかった。足元の悪い水路で転べば、受け身も取れないからだ。代わりに男たちの腰帯を抜き、二人ずつつないだ。
「逃げるな」
「逃げねえよ」
「さっき逃げただろ」
「あれは仕方ねえだろ!」
クロが男の横を通ると、男は半歩退いた。
「そいつ、噛まねえよな?」
「知らない」
「知らねえのかよ!」
クロは振り返りもしなかった。
◇
旧排水路を出た瞬間、空気が変わった。
南門の向こうで怒鳴り声が重なっている。外壁のさらに奥、街の東寄りから、土煙が上がっていた。
「火ではありませんね」
「ああ」
炎の色はない。代わりに、人の流れが乱れていた。門の外へ逃れようとする者と、北へ駆け戻る者がぶつかり合い、その間を兵士が縫うように走っている。
「道を空けろ! 負傷者を通す!」
「東はどうなってる!」
「荷車がひっくり返った!」
「西にも出たぞ!」
「南じゃなかったのか!?」
伊織の足が止まった。
「西?」
「はい。私にも聞こえました」
南の排水路と、東と、西。騒ぎは三か所。門の前では、兵士たちが次々と別の方向へ散っていった。
「杭が他にもある」
「その可能性が高いですね」
門へ近づくと、年嵩の兵士がこちらを振り向いた。その視線が、腰帯でつながれた四人の男で止まる。
「何だ、そいつら」
「旧排水路で黒い杭を打ってた」
「杭?」
アリアが前へ出た。
「魔獣を引き寄せるためのものです」
兵士の顔色が変わった。
「待て。じゃあ、この騒ぎも?」
「断定はできません。ただ、同じものが別の場所にある可能性は高いです」
また鐘が鳴り、兵士が舌打ちした。
「くそ、人が足りねえ。悪いが、そいつらを見張る手も今はない。預かっててくれ」
「分かった。どこが一番まずい」
「東だ。荷車が道を塞いで、その向こうに小型の魔獣が二頭入ったらしい。住民は北の広場へ逃がしてる」
「東に、まだ住民は」
「いる」
伊織は門をくぐった。アリアが追いつき、横に並ぶ。
「東へ?」
「いや」
「では?」
「ギルド」
アリアが伊織の横顔を見た。
「東には兵士が向かってる」
実際、剣を持った者や弓を背負った者、ギルドの人間らしい姿が、次々と東の通りへ吸い込まれていく。
「今は情報が要る」
アリアは一度だけ東を見て、頷いた。
「分かりました」
人の流れを避けながら、伊織たちはギルドへ向かった。クロが少し前を走り、四人の男が腰帯を引かれて後ろに続く。
ほんの数時間前に歩いた通りとは、まるで様子が違っていた。店の戸を閉める男がいて、桶を抱えたまま走る女がいて、泣く子どもの手を引いた老人が北へ急いでいる。兵士に行き先を訊く商人の声が、怒鳴り声にかき消された。街全体が、何かに押されるように北へ流れていく。
その中で、伊織は逆に動いていない場所を見つけた。
大通りから一本外れた、細い路地だ。人はおらず、店は閉まり、荷物ひとつ出ていない。住民が逃げたあとなら、それだけでおかしいとは言えなかった。
伊織は通り過ぎかけた。
クロが止まった。
「クロ?」
犬は路地へ鼻先を向けたまま、数歩入っていく。伊織も後を追った。
足元に、小さな布袋が落ちていた。紐が切れて、乾いた木の実がいくつか地面へ転がっている。
アリアが袋を拾い上げた。
「子どもが持つものですね」
「よくある?」
「この辺りでは」
伊織は路地の奥を見た。逃げていった人間の足跡が重なり、その上を荷車の轍が何本も横切っている。その中に一本だけ、地面を擦ったような線が混じっていた。
「アリア」
「はい」
「ここ」
アリアがしゃがみ込む。
「……引きずった跡?」
「途中で消えてる」
擦れた跡は数メートル先で、車輪の跡に重なって見えなくなっていた。
その時、大通りから女の声が飛んだ。
「ミナ!」
一人の女が路地へ駆け込んでくる。
「ミナ! どこにいるの!」
女は伊織たちに気づいて、足を止めた。
「女の子を見ませんでしたか?」
「何歳です?」
アリアが訊いた。
「八つです。茶色い髪で、赤い布を――」
言葉が途切れた。女の目は、アリアの手にある布袋に吸い寄せられている。
「それ……」
「これですか?」
「ミナのです」
女が駆け寄った。
「どこにあったんです?」
「ここです」
「じゃあ、近くにいるはずです。ミナ! ミナ!」
「最後に見たのは」
伊織が訊くと、女は振り返った。
「さっきです。鐘が鳴って、家へ戻ろうとして……」
「一緒にいた?」
「はい。でも人が押してきて。兵士の人が北の広場へ逃げろって言うから、みんな走って……」
「そのあと?」
「気づいたら、いなくなってました」
女の息が乱れた。
「お願いです。探してください。お願いします」
「他に子どもは」
「え?」
「娘さんと一緒にいた子」
「近所の子が二人……いつも三人で遊んでいて」
「その二人は?」
女は答えられなかった。
「……分かりません」
伊織は大通りへ目を向けた。住民は北へ流れ、兵士やギルドの人間は東と西へ散っている。戦える者ほど、騒ぎの起きている場所へ向かっていた。その間にあるこの路地には、もう誰の目も届いていない。
伊織は路地へ戻った。
切れた紐。落ちた木の実。擦れた跡。車輪。
「イオリ」
アリアの声が低くなった。
「偶然だと思いますか」
「まだ分からない」
伊織は答えた。
「でも、確かめる価値はある」
背後で、男が息を呑んだ。さっき「知らねえ」と答えた男だった。
伊織が振り返ると、男は目を逸らした。
「知らねえって言ってるだろ」
伊織はまだ、何も訊いていなかった。
黙って見返すと、男はそれきり口を閉ざした。
クロはもう、路地の奥の匂いを嗅いでいる。
「アリア」
「はい」
「ギルドは後だ」
クロが一度だけ振り返った。
「子どもを探す」
伊織が歩き出した。その後ろで、警鐘がもう一度鳴った。




