第8話 消えた轍
クロは路地の奥へ進んだ。鼻先を地面へ寄せ、数歩進んでは立ち止まる。
伊織たちはその後を追った。腰帯でつながれた四人が後ろでもつれ、そのたびに悪態をつく。
「おい、もう少しゆっくり歩け」
「子どもが消えてる」
「だからって俺らまで――」
「走ってない」
「お前の歩く速さがおかしいんだよ!」
伊織は速度を変えなかった。
クロが角を曲がった。その先は家と家の間を抜ける細い道で、荷車がやっと一台通れるほどの幅しかない。土の上には、何本もの轍が重なっていた。
アリアが足元を見下ろす。
「これでは、どれか分かりませんね」
伊織はしゃがみ込み、泥の乾き方と土の崩れ方、車輪の幅を順に見ていった。新しいものだけでも数本ある。その中に一つだけ、深く沈んだ轍が混じっていた。
「重い」
「荷物が?」
「ああ」
「子ども三人でしょうか」
「分からない」
伊織は立ち上がった。クロはもう先へ進んでいる。
「今はあいつを追う」
犬の耳が、ぴくりと動いた。アリアがその背中を目で追う。
「頼りになりますね」
「そうだな」
路地を抜けても、警鐘はまだ鳴っていた。遠くで何かが崩れる音がして、続けて人の叫び声が上がる。だが、こちらへ来る者はいない。騒ぎが東と西へ散ったせいで、その間だけが妙に静まり返っていた。
やがて道が二つに分かれた。左は西へ、右は北へ延びている。
伊織は足元を見た。先ほどの深い轍は、左へ続いていた。
「西だ」
一歩踏み出したところで、クロがついてこないことに気づいた。振り返ると、犬は右の道を向いたまま動かずにいる。
伊織は足を止めた。
「そっちか」
アリアも轍を確かめる。
「車輪の跡は西です」
「ああ」
「クロは北」
後ろから、押し殺した笑い声が漏れた。
「犬に負けてやがる」
四人のうちの一人だった。伊織は西へ続く轍を、もう一度だけ見た。
「俺が外した」
「認めんのかよ」
「外したまま進む方がまずい」
男は何も言い返さなかった。
「北だ」
伊織は向きを変え、クロの後を追った。
◇
百メートルほど進むと、道が少し開けた。使われなくなった荷捌き場らしく、壊れた木箱が壁際に積まれ、古い荷車が二台置かれている。
クロはそのうちの一台へ近づき、前輪から荷台の下、後輪へと順に嗅いでから、荷台の横で止まった。
アリアが荷台を覗き込む。
「イオリ」
床板の隙間に、赤い糸が絡んでいた。伊織が指先でつまみ上げたのは、短い一本の糸だ。それだけでは、何の証拠にもならない。
「ミナは赤い布を身につけていた」
「はい」
伊織は荷車の車輪を見た。乾ききっていない泥がこびりついている。ここへ置かれてから、まだそれほど経っていない。
路地で見た擦れた跡と、この荷車と、クロが拾った匂い。それがここで一つにつながった。
「ここで車を替えたか」
「追われることを考えて?」
「かもしれない」
言いながら、伊織は西へ延びていた深い轍を思い出した。
「西の轍も、同じ理由か」
重いものを積んだ荷車を一台、わざと西へ走らせる。車輪の跡を追ってくる者がいれば、そちらへ引っ張れる。伊織は、危うくそれを追うところだった。
アリアの声が低くなった。
「そこまで準備していたなら、魔獣の騒ぎも――」
「先に子どもだ」
「……はい」
伊織は四人を振り返った。
「ここを使ったことは」
「知らねえ」
答えたのは、先ほどから口を滑らせている男とは別の一人だった。
「そうか」
「それだけかよ」
「今はな」
伊織はクロへ向き直った。犬は荷捌き場をひと回りし、北側の出口へ進んでいた。
◇
北へ進むにつれて住宅が減り、代わりに倉庫が増えていった。石壁が続き、木戸は閉じられ、軒下には樽が積み上げられている。使われていない建物も多かった。
「この辺りは?」
「古い倉庫街です。昼でも人は多くありません」
身を隠せる場所はいくらでもあるし、荷車を止めておいても誰も気に留めない。
後ろで足音が乱れた。一人が急に止まり、腰帯でつながれた隣の男がつんのめる。
「おい!」
「悪い。石踏んだ」
伊織は振り返った。立ち止まったのは、口を滑らせたあの男だった。
「行くぞ」
それだけ言って、伊織は前を向いた。
クロが角を曲がり、すぐに足を止めた。喉の奥から、低い唸り声が漏れる。伊織も立ち止まった。
三十メートルほど先の道端に、一台の荷車が停まっていた。荷台には厚い布がかけられ、そばに男が二人いる。一人は車輪を調べ、もう一人は周囲に目を配っていた。まだ、こちらには気づいていない。
伊織は壁際へ身を寄せた。アリアが続き、伊織は四人にも手振りで身を低くさせた。
「どうします?」
アリアが声を落とした。
「荷台を確認する」
「中に子どもがいた場合、ここで戦えば危険です」
「ああ」
銃は使わない。少なくとも、荷台の中身が分かるまでは。
見えている相手は二人だけだった。正面に倉庫があり、右に細い路地が口を開け、左は壁が続いている。ほかに仲間がいるかどうかは分からない。
伊織は後ろの四人を見た。その中に一人だけ、荷車の方を見ようとしない男がいる。あの男だった。
「お前」
「何だよ」
「帯を外す」
「……は?」
伊織は、男と隣をつないでいた腰帯を解いた。アリアが小声で訊く。
「逃げたら?」
「追わない」
男が伊織を見た。
「は?」
「子どもが先だ」
「いやいやいや、ちょっと待て」
後ずさる男に、伊織は荷車を顎で示した。
「歩いていけ」
「何で俺が!」
「向こうがお前を知ってるか確かめる」
「知らなかったらどうすんだよ!」
「戻ってこい」
「簡単に言うな!」
声が大きすぎた。男は自分で気づき、慌てて口を閉じる。
伊織は少し間を置いてから言った。
「嫌なら行かなくていい」
男が伊織を見る。
「……何?」
「俺が別の方法を考える」
男は伊織と荷車を何度か見比べた。
「本当に、行かなくてもいいのか」
「ああ」
数秒の沈黙のあと、男は舌打ちした。
「行けばいいんだろ」
「本人が決めた」
アリアが何か言いかけて、やめた。
男は腰を低くしたまま歩き出した。
三歩。五歩。十歩。
男が荷車へ近づくのに合わせて、伊織も壁沿いに身を低くしたまま、十歩ぶん距離を詰めた。
荷車の横にいた男が、ようやく気づいた。
「おい」
囮の男の足が止まる。
「何してる」
「……ちょっとな」
「南は?」
「終わった」
「終わった?」
「ああ」
「他の連中は」
囮の男が、こちらを振り返った。
伊織が壁から離れた、その瞬間だった。
荷台の中から、音がした。
――ドン。
小さな音だが、内側から叩いている。クロの耳が立った。
――ドン。
「行く」
伊織は走り出した。
「アリア」
「はい!」
男たちがこちらを向いた。
「何だ――」
一人目が腰の武器へ手を伸ばす。その手首を、伊織は掴んだ。外へ捻りながら一歩踏み込み、肩を押して重心を浮かせ、足を払う。男の身体が横へ崩れた。地面へ落ちる直前に腕を引き、頭から落ちることだけは避けさせて、そのまま肩を押さえ込む。
もう一人が短剣を抜いた。その手元をアリアの風が打ち、短剣が石壁に当たって跳ねる。クロが前へ飛び出し、男の意識が一瞬そちらへ逸れた。
伊織はその隙に間合いを潰した。刃を失った腕を抱え込み、肩口へ身体を入れて腰を落とす。男の足が浮いた。襟を引いて落下の勢いを殺し、横向きに落としてそのまま伏せさせ、肘を背中側へ固める。
「動くな」
「くそ……!」
「アリア。荷台」
「はい」
伊織は男を押さえたまま周囲に目を走らせた。増援が来る気配はない。
アリアが荷台の布をめくった。
木箱。麻袋。その奥に、小さな足が見えた。
アリアが荷台へ上がる。
「三人います」
「状態は」
返事までに、ほんの一瞬の間があった。
「全員、息があります。二人は眠っています。もう一人は――」
「……お母さん」
かすかな声がした。アリアが奥へ膝をつく。
「大丈夫ですよ」
「……ミナ?」
少女が小さく頷き、その手がアリアの袖を掴んだ。
「二人は?」
「呼吸は安定しています。見える範囲では、大きな怪我もありません」
「薬か」
「分かりません」
「無理に起こすな。呼吸と怪我を見てくれ」
「はい」
伊織は押さえている男へ顔を向けた。
「誰に頼まれた」
「喋ると思うか」
「どこへ運ぶ」
男は顔を背けたまま、答えなかった。伊織もそれ以上は訊かなかった。
「アリア。三人を――」
「おい」
後ろから声がかかった。囮に出した男だった。逃げずに、荷車を見たまま立っている。
「そいつらに訊いても無駄だ。ただの運び屋だ」
「知ってるのか」
「……少しだけな」
男は吐き捨てるように続けた。
「ここで受け取って、次へ運ぶ。それだけだ」
「次は?」
男は答えなかった。伊織も促さず、ただ次の言葉を待った。
遠くで警鐘が鳴る。男が北を向いた。倉庫街の、さらに奥だ。
「支部だ」
伊織も、その先を見た。
「何の支部だ」
男の口が止まった。一拍置いて、低い声が落ちる。
「……鉄鎖団」
警鐘が、もう一度鳴った。




