第6話 ヴァルムドラッヘ 後編
ヴァルムドラッヘが頭を振ると、水路全体が軋んだ。
伊織は魔獣そのものではなく、赤い目の向きを追った。視線は一本目の杭から二本目へ、さらにその先へと引かれていく。黒い金属の並びは、街の方角へ続いていた。
男の言った「南門の騒ぎ」は、これのことだ。
床に転がっていた男が、這って逃げ出そうとした。ヴァルムドラッヘの頭がそちらへ動く。
「止まれ!」
「ふざけんな! 喰われる!」
男が立ち上がり、魔獣が反応した。伊織は男の襟を掴んで横へ引き倒す。巨大な顎が空を噛み、牙が石壁を削った。
「何で俺まで助けんだよ!」
「まだ話が終わってない」
「はあ!?」
「伏せてろ!」
ヴァルムドラッヘが前脚を踏み込み、床の石が砕けた。水路は狭く、逃げられる方向も少ない。
伊織は黒い杭を見た。あれが魔獣を引いているのなら、まず切るべきはそちらだ。
「アリア」
「はい」
「あの杭、壊す」
「何が起きるか分かりません」
「今より悪くなる可能性は?」
アリアはヴァルムドラッヘを見た。
「……低いと思います」
「十分だ」
伊織の右手へ黒い粒が集まり、拳銃の重みが掌に落ちた。アリアの目が、一瞬そちらへ向く。
「それが、銃……」
「説明は後だ」
伊織は一番手前の杭を撃った。金属が弾け、壁から傾く。
――カタ、カタ、カ――。
振動が途切れ、ヴァルムドラッヘが頭を振った。
「反応した」
「次だ」
二本目へ発砲すると、杭が根元から折れた。壁際へ偏っていた水流が中央へ戻り、溜まっていた泥を押し流していく。大型魔獣の前脚が、その泥に滑った。
「アリア!」
「分かっています!」
狭い水路を風が走り、ヴァルムドラッヘの頭を横から叩いた。巨体がわずかに傾いた隙に、伊織は三本目を撃ち抜く。最後の振動が止まった。
ヴァルムドラッヘが咆哮した。さっきまで杭へ向いていた赤い目が、今度ははっきりと伊織たちを捉えている。
「誘導は切れた」
「喜んでいる場合ではなさそうですね」
「ああ」
魔獣が前脚で床を掻き、突進の構えを取った。黒い犬が伊織の右側へ回り、アリアは左へ出る。三者の位置が、初めて自然に分かれた。
「正面で止められるか」
「無理です」
「即答だな」
「死にたくありません」
「俺もだ」
伊織は周囲を見回した。狭い水路と、崩された側壁。その少し手前、魔獣と伊織たちのちょうど間にあたる左の壁に、古い補修跡がある。石の色が周りと違い、目地も新しい。先ほどの衝撃で縦に細い亀裂が走り、向こう側から水が滲み出していた。
「アリア」
「はい」
「左の壁。亀裂のあるところを崩せるか」
アリアがそちらを見る。
「崩したら水が入ります」
「それでいい」
ヴァルムドラッヘが走り出した。
「クロ、右!」
黒い犬の耳が動き、迷わず右へ駆けた。魔獣の視線が一瞬だけそれを追う。
「今!」
アリアが風を叩き込み、亀裂が広がった。伊織も補修跡へ撃ち込む。一発目で石が欠け、二発目で亀裂が横へ走った。
「もう一度!」
再びアリアの風が入り、補修された壁が内側へ崩れた。向こう側に溜まっていた水と泥が一気に流れ込み、ちょうどそこへ差しかかったヴァルムドラッヘの前脚を直撃する。巨体が滑り、肩が壁にぶつかって、水路全体が揺れた。
「やった?」
「まだだ」
ヴァルムドラッヘが泥の中から前脚を立て直す。傷は負っているが、この巨体を止めるには拳銃では足りない。
伊織の頭に、別の武器が浮かんだ。近距離の狭い場所で、一発で大きな衝撃を叩き込むための道具。画面の向こうで、何度も握り、何度も撃ったものだ。
拳銃の輪郭が黒い粒へほどけ、掌から消えた。その直後、別の黒い粒が両手の間へ集まり、より長い輪郭を組み上げていく。太い銃身に、前後に離れた握り。肩へ収めた瞬間、拳銃とはまるで違う重さが身体に乗った。
重い。だが、知らない重さではなかった。
伊織は薬室を確かめた。スラッグ弾が入っている。散らすための弾ではないが、今はその方が都合がいい。
「……こっちも出るのか」
アリアが目を見開いた。
「それもジュウですか?」
「ああ」
ヴァルムドラッヘが起き上がる。伊織はショットガンを構えた。狙うのは真正面の頭ではない。泥から抜こうとしている前脚の、鱗が大きく開く関節の内側だ。
引き金を引くと、排水路に重い発砲音が響いた。ヴァルムドラッヘの前脚が沈み、巨体が再び傾く。
「効いた!」
「止まっただけだ」
アリアが左側へ走った。
「なら、もう一度止めます!」
風が魔獣の頭にぶつかった。ヴァルムドラッヘが噛みつこうと顔を向けたところへ、黒い犬が横から飛び出す。
「クロ!」
犬が吠え、魔獣の視線がそちらへ流れた。
「そのまま右!」
クロが水際を駆け、ヴァルムドラッヘがそれを追って首を伸ばす。肩の鱗が開いた。伊織はそこへ一発入れた。
巨体が大きく揺れた。それでも倒れない。
「丈夫だな」
「感心してる場合ですか!」
「してない」
ヴァルムドラッヘが暴れ、尾が壁にぶつかって石が降った。床に伏せていた男たちが悲鳴を上げる。
誘導は切れたが、魔獣はすでにこちらを敵として見ている。この状態のまま、街へ向かわせるわけにはいかなかった。
ヴァルムドラッヘが頭を下げる。また来る。
「アリア」
「はい!」
「あいつの顔を右へ向けられるか」
「一瞬なら」
「十分」
アリアが剣を交差させ、周囲の風が収束していく。
「クロ!」
黒い犬が伊織を見た。
「左へ!」
クロが駆け、ヴァルムドラッヘの赤い目がそれを追った。そこへアリアが風を解放する。頭部がさらに右へ押され、首元から顎の下までが露わになった。
伊織は踏み込み、一気に距離を詰めた。
「イオリ!」
「見えてる」
銃口を上げ、一発。
巨体の動きが止まった。ヴァルムドラッヘはなおも前へ進もうとしたが、二歩目で脚から力が抜け、頭部が石床へ落ちて水が大きく跳ねた。
伊織はすぐには銃口を下げなかった。アリアも剣を構えたまま動かず、クロは少し離れた場所から魔獣を見ている。
やがて、水の音だけが戻ってきた。
「……終わりました?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「念のためだ」
さらに数秒待っても、ヴァルムドラッヘは動かなかった。伊織はようやくショットガンを下ろした。銃身の端から黒い粒が浮かび、形がほどけていく。
アリアはそれを黙って見ていた。訊きたいことが山ほどある顔だった。
「後で」
「……はい」
黒い犬が近づいてくる。伊織はそちらを見た。
「クロ」
犬の耳が動いた。アリアも犬を見る。
「クロ?」
「呼びづらかった」
「黒いからですか?」
「ああ」
アリアは数秒黙った。
「そのままですね」
「覚えやすい」
クロはヴァルムドラッヘの匂いを嗅いでいて、二人の会話には興味がないようだった。伊織がもう一度呼ぶ。
「クロ」
今度は、顔だけこちらへ向けた。
「……嫌ではないらしい」
「そう見えるんですか?」
「たぶん」
アリアはそれ以上何も言わなかった。
「さて」
伊織は制圧した男たちに目を向けた。四人とも生きているが、一人は完全に腰が抜けている。
「続きを聞こうか」
「ま、待てよ」
先ほど笑っていた男が後ずさった。
「俺ら、本当に詳しいことは知らねえ!」
「なら、知ってることだけ話せ」
「言っただろ! 南門を騒がせろって、それだけだ!」
「誰の指示だ」
男は口を閉ざした。伊織は黙って見る。
「……支部だよ」
別の男が、小さく言った。
「黙れ!」
「もういいだろ! 俺たちまで殺されかけたんだぞ!」
「何の支部だ」
伊織が訊き、男が答えようとした、その時だった。
遠くで鐘が鳴った。全員が顔を上げる。一度、二度、三度。
アリアの表情が変わった。
「警鐘です」
「南門か?」
「違います」
伊織は振り返った。石壁の向こう、街の方角から、もう一度鐘が響いてくる。
制圧された男の一人が青ざめた。
「……嘘だろ」
「何が」
男の喉が動いた。
「もう始まってる」
静かになったはずの水路で、別の音がした。
――カタ。
伊織は顔を上げた。音は目の前の杭からではない。もっと奥、いや、石壁の向こうの別の場所から伝わってきている。
――カタ、カタ。
アリアも気づいた。二人は同時に、街の方角を見た。




