第5話 ヴァルムドラッヘ 前編
アリアの光球が濡れた石壁を照らし、その先で黒い金属杭が、水の流れに合わせるように微かに震えていた。
「動いてるな」
「水圧だけでしょうか」
「それなら話は早い」
黒い犬が低く鼻を鳴らした。耳は奥へ向いたままだ。
伊織は立ち上がった。
「行く」
「奥へ?」
「あの音の正体くらいは見ておきたい」
アリアはすぐには動かなかった。
「私は、あまり近づきたくありません」
伊織は振り返った。アリアにしては、珍しい言い方だった。
「理由は?」
「分かりません」
アリアは黒い杭を見つめている。
「魔力は感じます。でも、それだけではない。うまく説明できませんが……嫌な感じがします」
「危険か」
「たぶん」
「なら、なおさら放置はできないな」
「そう言うと思いました」
諦めた声ではなかった。アリアは腰の剣へ手を添え、三人は水路の奥へ進んだ。
天井はすぐに低くなった。伊織は少し背を丸めて進む。足元には浅い水が流れ、古い石はところどころぬめっていて、踏む場所を選ばなければ足を取られそうだった。黒い犬は先頭には出ず、伊織から少し離れた位置を歩いている。
やがて、音が変わった。
――がん。
鈍い金属音に、人の声が続いた。
「もっと奥だ! 間隔空けんな!」
「分かってるって!」
伊織が片手を上げて足を止めると、アリアの光球がすっと小さくなった。
暗がりの先に、人影が四つあった。一人が鉄槌を振り下ろし、石壁の継ぎ目へ黒い杭を打ち込んでいる。その足元には、同じ杭が何本も束ねて置かれていた。残りの三人は粗末な革鎧姿で、腰に短剣や棍棒を下げている。
最初に気づいたのは、鉄槌を持った大男だった。
「……何だ、お前ら」
その視線が伊織からアリアへ移る。
「へえ。いい女連れてんじゃねえか」
アリアの表情から、温度が消えた。
「その杭、何に使ってる」
伊織が訊いた。
「関係ねえだろ」
「排水路の流れを変えてる」
「だから何だよ」
「依頼で確認に来た」
男たちの空気が変わり、一人が舌打ちした。
「ギルドか」
「面倒くせえな」
別の男が短剣を抜いた。
「消しときゃ分かんねえだろ」
伊織はその刃を見た。
「やめとけ」
「何が?」
「その距離で抜くのは」
「気取ってんじゃねえ!」
男が短剣を突き出しながら踏み込んでくる。
伊織は半歩だけ身体を外し、刃先を胸元の前へ抜けさせた。すれ違いざまに武器を持つ手首を押さえ、肘が伸びきらない角度へ身体ごと入り込む。男の肩が浮き、突進の勢いが行き場を失った。
「な――」
そのまま体勢を崩して壁へ押しつけると、短剣が石床へ落ちた。
すぐ横から棍棒が来る。伊織は押さえていた男を一歩前へ押し出した。
「うおっ!」
仲間を殴りかけた棍棒の男が、とっさに腕を止める。その間に伊織は懐へ入り、振り上げられた腕を押さえたまま、相手の腰が浮く方向へ身体をずらした。前へ抜けた重心に合わせて足元を払うと、男は浅い水の中へ転がった。
三人目が殴りかかってくる。伊織は腕の内側へ潜って肩を当て、軸を崩した。そのまま背後へ回り、相手の腕を身体の後ろへ畳んで膝裏を押す。男が石床へ落ちた。
「動くな」
「離せ!」
暴れる腕の角度を、少しだけ変える。
「痛っ、痛え! 折れる!」
「なら止まれ」
「分かった! 分かったから!」
残った大男の顔からは、笑いが消えていた。
「何だ、てめえ……」
「元公務員」
「意味分かんねえよ!」
鉄槌が横薙ぎに振られた。だが、この狭い水路では振り幅が足りない。
伊織は一歩踏み込んで鉄槌の内側へ入り、力が乗り切る前に肘と肩を制した。そのまま身体の向きを壁側へ変えると、大男の肩が石にぶつかり、鉄槌が手から落ちる。足を払って膝をつかせ、背後へ回って片腕を取った。
「終わりだ」
「くそ……!」
アリアは、最後まで剣を抜いていなかった。
「……本当に慣れていますね」
「仕事だった」
伊織は大男を押さえたまま、黒い杭へ視線を向けた。
「何のために打ってる」
「知らねえよ」
「誰に言われた」
「知らねえって!」
少し離れたところで、最初に倒した男が笑い出した。
「へ……へへ」
口元の血を拭いながら、肩を揺らしている。
「もう遅えよ」
伊織はそちらを見た。
「何が」
「今さら抜いたって意味ねえって言ってんだよ」
アリアの目が黒い杭へ向く。男の笑いが大きくなった。
「もう動いてる!」
直後、黒い杭が震えた。一本ではない。奥に並んだ杭が、手前から順番に細かな振動を始める。
――カタ。
――カタ、カタ。
水面へ波紋が広がっていく。アリアの顔色が変わった。
「イオリ」
「ああ」
「違います」
低い声だった。伊織が振り向くと、アリアは水路の奥を見据えたまま動かずにいた。
「これは、本当にまずい」
「何が来る」
「分かりません。ただ、この杭……何かを呼んでいます」
倒れている男が鼻で笑った。
「当たりだよ」
「何を呼んだ」
「魔獣だよ。南門が騒ぎになりゃ、それでいいんだ」
「何のために」
「知らねえ。俺らは杭を打って、合図が来るまで待てって言われただけだ」
「誰に?」
男は口を閉ざした。伊織もそれ以上は訊かなかった。
その時、水路の奥から低い音が響いた。
ごう、と空気が押し出される。
黒い犬が唸った。これまで聞いたことのない、腹の底から絞り出すような声だった。
アリアが二本の剣を抜く。
「下がってください」
床に転がっていた男が顔を上げた。
「何だ……?」
もう一度、ごう、と鳴った。石壁から細かな砂が落ち、水面が震える。さっきまで笑っていた男の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「おい」
「何だ」
「聞いてねえぞ」
「何を」
「こんな……こんなでけえのが来るなんて、聞いてねえ!」
暗闇の奥で、何かが動いた。アリアの光球が、その輪郭を一瞬だけ拾う。
次の瞬間、水路の側壁が砕けた。
「伏せろ!」
伊織は押さえていた大男を床へ引き倒した。石片が頭上を飛び、轟音とともに水が跳ね上がって、砂塵が視界を埋める。黒い犬が横へ跳び、アリアは正面へ風を放った。飛んできた破片が、二人を避けるように軌道を変えていく。
崩れた壁の向こうから、巨大な頭部がせり出してきた。
分厚い鱗に覆われた頭に、石を削る爪。顎が開くたび、並んだ牙の奥から熱い息が漏れる。赤い目だけが、異様に落ち着きなく動いていた。
「ヴァルムドラッヘ……」
アリアの声が強張った。
「知ってるのか」
「本来、ここまで北へ来る魔獣ではありません。もっと南の岩地にいるはずです」




