第3話 ダストヘイブン
門の近くまで来ると、煙の匂いに別の匂いが混じり始めた。焼いた肉と乾いた木、油、それから少し埃っぽい、人の暮らしの匂い。
伊織は歩きながら外壁を見上げた。
高さは三メートルほどで、石を積み上げただけの簡素な造りだ。ところどころ色も大きさも違う石が使われていて、継ぎ足した跡が多い。最初から完成形を目指した壁ではなく、必要になるたびに直し、足してきた。そんなふうに見えた。
「何を見ているんです?」
少し前を歩いていたアリアが振り返った。
「壁」
「……それは見れば分かります」
「よく直してるなと思って」
アリアは一度だけ外壁に目をやった。
「壊れますから」
「そうか」
会話はそこで終わった。
黒い犬は二人より少し外側を歩いている。街が近づいても距離を詰める様子はなく、ときおり鼻先を地面へ向けながら周囲を探っていた。
門には二人の男が立っていた。一人は槍を持ち、もう一人は腰に短い剣を下げている。アリアの姿を認めると、槍の男が片手を上げた。
「お帰り、アリア」
「ただいま戻りました」
男の視線が伊織へ移り、さらに黒い犬へ向かう。
「……それは?」
「荒野で見つけました」
「どっちを?」
「両方です」
槍の男は伊織と黒い犬を見比べた。
「面倒なの拾ってないか?」
「拾っていません。監視して連れてきただけです」
「似たようなもんだろ」
「違います」
伊織には違いがよく分からなかったが、口を挟むほどのことでもない。
もう一人の門番が近づいてきた。
「名前は?」
「東伊織」
「ヒガシ……イオリ? 変わった名前だな」
「そうか」
門番は少し意外そうな顔をしたが、それ以上は訊かず、伊織の腰回りへ目をやった。
「武器は?」
「今はない」
「今は?」
「説明すると長い」
門番の顔が渋くなる。
「怪しいな」
「同感です」
アリアが言い、伊織も頷いた。
「俺もそう思う」
二人の門番が黙った。アリアが伊織を見る。
「そこで同意しないでください」
「事実だろ」
門番の片方が吹き出した。槍の男はすぐに仕事の顔へ戻り、最後に黒い犬を見る。
「で、そいつは?」
「魔獣です。ただし、今のところ攻撃性はありません」
「飼ってるのか?」
「違う」
伊織が答えた。
「勝手についてきた」
槍の男は黒い犬を見て、伊織を見て、それからアリアへ向き直った。
「やっぱり面倒なの拾ってるじゃないか」
「拾っていません」
「もういい」
男は諦めたように手を振った。
「今日はただでさえ、南の水路がまた臭うって苦情が来てるんだ。これ以上面倒を増やすなよ。中で問題起こすな」
「努力する」
「お前に言ったんじゃない」
「そうか」
今度はもう一人まで笑った。
門をくぐった瞬間、音が増えた。人の声、木を叩く音、軋む車輪、どこかで金属を打つ高い響き、子どもの笑い声。荒野では風の音しか聞こえなかったぶん、急に世界の中へ放り込まれたような騒がしさだった。
道は石畳ではなく、踏み固められた土の上に、場所によって板や平たい石が敷かれている。建物も揃っていなかった。二階建ての隣に屋根の低い小屋が並び、壁材も石や木、漆喰らしきものが入り混じっている。
それでも、人はいた。荷物を運ぶ男に、店先で布を畳む女。桶を抱えて走る子どもがいて、椅子に座って何かを削っている老人がいる。誰も伊織のために立ってはいない。それぞれが、それぞれの一日を続けていた。
伊織は、知らず知らずのうちに歩く速度を落としていた。
「珍しいですか?」
アリアが言う。
「見たことのない場所だからな」
「それだけには見えませんでした」
伊織は答えず、露店の前へ視線を向けた。串に刺した肉が炭火の上で焼けている。脂が落ちるたびに小さく火が上がり、香辛料らしい匂いが風に乗って流れてきた。
腹が鳴った。かなり、はっきりと。
伊織は何事もなかったように前を見た。アリアも前を向いたままだった。
「……聞かなかったことにします」
「助かる」
「でも、お腹は空いているんですね」
「人間だからな」
アリアは返事をしなかった。
その横で、黒い犬が露店の方へ鼻先を向けた。初めて、はっきりと興味を示したように見える。
「お前もか」
犬が一歩だけ露店へ寄った。
「待て」
声に反応したのか、黒い犬は次の一歩を踏み出す前に足を止め、伊織を見上げた。伊織も黒い犬を見下ろす。数秒、そのまま見合った。
「……分かってるのか?」
犬は何も答えない。当然だった。
露店の男が笑った。
「食うか?」
伊織は串肉を見た。
「いくらだ」
「二枚」
伊織はアリアを見る。
「二枚?」
「銅貨です」
「持ってない」
「でしょうね」
「即答だな」
アリアは何も言わない。否定する材料がないらしい。
露店の男が、黒い犬を見て串を一本持ち上げた。
「そっちは?」
「金がない」
「犬の話だよ」
「俺のじゃない」
「じゃあ聞いてみろ」
伊織は黒い犬を見た。
「食うか?」
犬の耳が立った。
「分かりやすいな」
男が笑い、串から肉を一切れ外して地面近くへ差し出した。黒い犬はすぐには近づかず、匂いを嗅ぎ、男の顔を見て、それからゆっくりと肉を取った。飲み込むのは早かった。
「気に入ったみたいだな」
男がもう一切れ外そうとすると、アリアが横から言った。
「それ以上はやめておいた方がいいです」
「お前のか?」
「違います」
「ならいいだろ」
「よくありません」
そこだけは譲る気がないらしい。
伊織は串肉を見ながら言った。
「アリア」
「何です?」
「俺もあれを食いたい」
アリアはしばらく黙った。
「……そうでしょうね」
「金を貸してくれ」
「初対面の相手に?」
「監視対象が空腹で倒れると面倒だろ」
アリアは数秒黙り、水の革袋とは別の小さな袋を腰から取り出した。
「貸しです」
「返す」
「返してください」
「信用してない割に貸すんだな」
「倒れられる方が困ります」
便利な理屈だな、と伊織は思ったが、口にはしなかった。
受け取った串肉は少し硬く、塩気が強かった。香辛料は知らない味だったが、悪くない。一口食べてから、伊織はもう一度噛んだ。
温かい。
「どうです?」
「うまい」
「それだけ?」
「他に何て言うんだ」
「いえ。別に」
アリアは前を向いた。
伊織は肉を食べながら街を眺めた。遠くで誰かが笑い、店主が客と値段でもめている。走り抜けていった子どもの後ろから、母親らしい女が名前を呼んでいた。伊織には何ひとつ関係のない光景だ。それでも、その騒がしさは嫌ではなかった。
「まずギルドへ行きます」
アリアが言った。
「ギルド?」
「身元の確認と、街に滞在するなら登録が必要です」
「仕事もあるか?」
アリアが振り返る。
「働くつもりなんですか?」
「金がない」
「……そうでした」
「飯も買えない」
「今、私のお金で食べていますね」
「だから返す」
アリアは小さく息を吐いた。
「では、なおさらギルドです」
伊織は残った肉を口へ運び、歩き出したアリアの後を追った。黒い犬も、少し遅れてついてくる。
通りの先に、周囲より一回り大きな建物が見えた。石と木を組み合わせた二階建てで、入口の上には剣と獣の横顔を組み合わせたような紋章が掛かっている。剣を提げた男や弓を背負った女、泥のついた袋を抱えた若者が、ひっきりなしに出入りしていた。仕事を終えた人間と、これから出る人間が同じ扉を行き交っている。
「ここです」
アリアが立ち止まった。伊織は串に残った最後の肉を食べる。
「仕事はあるんだな」
「選ばなければ」
「十分だ」
アリアが扉を開くと、隙間から酒と汗と革の匂いが流れてきた。奥の壁には、何枚もの紙札が並んでいる。
伊織はその文字を、何気なく目で追った。採集、荷運び、害獣駆除。金額らしい数字も並んでいる。
読めていると気づいたのは、内容を理解したあとだった。
「入りませんか?」
扉を押さえたまま、アリアが振り返った。
「ああ」
黒い犬が扉の手前で一度足を止め、伊織もその横に並んだ。
壁の一番手前に掛かった依頼札には、こう書かれていた。
南門外、旧排水路の流量確認。報酬、銅貨二十枚。




