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第2話 銀髪の女

「たぶん、とは?」


 岩の上から、女が問い返した。


「倒したのは俺だと思う」


「思う?」


「事情が少し複雑でな」


 女はすぐには答えず、伊織と黒い犬、それから砂の上に倒れた二頭の獣を順に見ていく。


 警戒されている。当然だろう、と伊織は思った。見知らぬ男が獣の死骸の横に立っているのに、武器らしいものを何ひとつ持っていないのだ。自分が逆の立場でも近づかない。


「手を見えるところに」


「分かった」


 伊織が両手を軽く開くと、女は岩から降りた。着地の直前にだけ足元の風が巻き、砂が円を描くように浮き上がる。その中央へ、女の足はほとんど音も立てずに降りた。


 伊織は目だけでそれを追った。さっき飛んできた半透明の刃に、今の風、腰には二本の剣。こちらの常識だけで判断できる相手ではない。


 女は伊織と一定の距離を保ったまま、剣から手を離さずに一頭目の死骸へ近づいた。膝をつき、首元を見る。伊織の撃った傷が残っていた。


「これは……」


 傷口へ伸びた指が、直前で止まる。女は前脚へ視線を移し、そこにも弾丸の痕を見つけた。


「何を使いました?」


「銃だ」


「ジュウ?」


 発音だけが、そのまま返ってきた。


「知らないか」


「少なくとも、その名前の武器は知りません」


 女は立ち上がったが、距離は詰めなかった。


「あなたのいた場所では、普通のものなんですか?」


「珍しくはない」


「あなたのいた場所」


 女はそこだけを拾った。余計なことを言ったかと伊織は思ったが、訂正するほどのことでもない。


 数歩離れた場所から、黒い犬が二人を見ている。女の視線が一度だけそちらへ動き、すぐに伊織へ戻った。


「どこから来たんです?」


「それが分かれば助かる」


「……分からない?」


「ああ」


 女はしばらく黙った。


 伊織は荒野へ視線を戻した。風向きは変わらず、砂を踏む音もない。それでも、血の匂いが残る場所で長く立ち話をする気にはなれなかった。


「一つ聞いていいか」


「内容によります」


「俺の言葉が分かるのか」


「分かっています」


「そうか」


「……あなたは、私の言葉が分からないんですか?」


「いや。分かる」


「では、なぜそんなことを?」


「それが分からない」


 短い沈黙が落ちた。女は何か言おうとして、やめる。伊織としては、事実を答えただけだった。


 少し離れたところで黒い犬が体の向きを変え、風下へ鼻先を向けた。女の視線もそちらへ移る。


「その子は?」


「知らない」


「……はい?」


「さっき会った」


 女は黒い犬を見て、次に伊織を見た。


「さっき?」


「ああ」


「それで、ついてきているんですか?」


「俺も聞きたい」


 黒い犬は二人に近づこうともせず、その場に立ったまま耳だけを動かしている。


「触らない方がいいですよ。魔獣です」


「そのつもりだ」


 伊織はその言葉を、頭の中でもう一度拾い直した。


「魔獣、か」


「知らないんですか?」


「そう呼ぶのは初めて聞いた」


「それも、おかしな話ですね」


「俺もそう思う」


「驚かないんですね」


「驚いてないように見えるか?」


「かなり」


「そう見えるなら助かる」


 女は返事をしなかった。


 その時、風がわずかに変わった。女の顔から余計な表情が消える。


「ここに長居はできません。血の匂いが広がっています。この辺りには、これより大きいものもいます」


「先に言ってほしかったな」


「今言いました」


「確かに」


 伊織は荒野を見た。遮蔽物は少ない。銃は一度出たが、何をきっかけに現れたのか、何発まで撃てるのか、弾を使い切った時にどうなるのかは分からない。未知の土地で、未知の相手と戦い続ける理由はなかった。


「水はあるか」


 女はしばらく伊織を見たあと、腰の脇から小さな革袋を外した。投げてはこない。伊織との間の地面へ置いた。


「少しだけなら」


「助かる」


「全部飲まないでください」


「信用がないな」


「初対面ですから」


「正しい」


 伊織はゆっくり近づいて革袋を拾い、念のため匂いを確かめた。水だった。


 一口だけ飲む。温い。それでも喉を通った瞬間、身体が自分で思っていた以上に水を欲していたことが分かった。もう一口飲みたくなったが、やめて栓を閉め、地面へ戻す。


 女がそれを拾い上げた。


「本当に少しですね」


「全部飲むなと言っただろ」


「普通は、もう少し飲みます」


「そうなのか」


 女は革袋を拾い上げたあと、伊織を見た。何も言わなかった。


 その時、黒い犬の耳が立ち、体が低く沈んだ。伊織もほぼ同時に気づく。


「何か来る」


 女が素早く振り返った。風の向こうで、砂が薄く舞い上がっている。一か所ではない。三つ、さらに奥にもう一つ。


 女の右手が剣の柄へ伸びた。


「走れますか?」


「問題ない」


「では、ここを離れます」


「どこへ?」


「ダストヘイブンへ」


 初めて聞く名前だった。


「街か」


「ええ。ここからなら歩いて一時間ほどです」


 伊織にとっては十分な答えだった。


「案内してくれるのか」


「あなたをここに置いていく方が、面倒そうなので」


「親切だな」


「監視です」


 即答だった。


「そっちの方が分かりやすい」


 女は剣から手を離さないまま、伊織を見据える。


「途中で妙なことをしたら止めます」


「半透明の刃で?」


 女の目が、わずかに見開かれた。


「見えていたんですか」


「目の前に刺さったからな」


「そういう意味ではなく……」


 言いかけて、女は周囲を見た。遠くの砂煙が、少し近づいている。


「続きは歩きながらにします」


「賛成だ」


 女が先に歩き出した。数歩進んだところで、伊織はその背中へ声をかけた。


「名前は?」


 女は足を止めたが、完全には振り返らなかった。


「アリア」


「俺は東伊織だ」


「ヒガシ……イオリ」


 この場所へ来て初めて、自分の名前が他人の口から呼ばれた。発音にまったく違和感がないことが、かえって引っかかる。


 アリアは前を向いた。


「イオリ。遅れないでください」


「了解」


 伊織が歩き出すと、黒い犬も動いた。ただし伊織の隣には来ず、少し外れた位置を選ぶ。アリアが前を歩き、伊織がその後ろを進む。三者の間には、まだ一定の距離があった。


 しばらく岩場の縁を急ぎ足で進むと、背後の砂煙は倒れた獣の方へ集まっていった。血の匂いに引かれたらしい。アリアは一度だけ振り返ってそれを確かめ、歩く速さを少しだけ緩めた。


 やがて、地面の様子が少しずつ変わってきた。砂ばかりだった場所に踏み固められた土が混じり、乾いた草の間には古い轍らしき跡が残っている。


 人が通っている。


 足元から前方へ目を移すと、低い岩山の向こうに煙が一本上がっていた。


 さらに歩くと、地平線の揺らぎの向こうから壁が姿を見せた。石を積んだ低い外壁の内側に不揃いな屋根が並び、ところどころから煙が立ち上っている。門の前では、小さな人影が動いていた。


 この世界へ来てから初めて見る、人の生活だった。


「あれか?」


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