第1話 銃のない異世界
銃は、なかった。
東伊織はもう一度だけ腰へ手をやり、空を掴んだ指をそのまま下ろした。ないものはない。なら、次だ。
砂に膝をついたまま、周囲を見る。
前方は緩やかな下りで、右手には岩場が続き、左には低い砂丘が広がっている。背後には崩れた石造物らしき残骸があるが、少なくとも今すぐ何かが飛び出してくる気配はなかった。
風は左から右へ流れている。日差しは強く、喉にはもう渇きがあった。それでも出血はなく、手足にも異常はない。
伊織は立ち上がり、服についた砂を払った。
ヘッドアップディスプレイもメニューも出てこない。靴の中へ入り込んだ砂が歩くたびに足裏でざらつき、その感触だけが妙に生々しかった。頬を撫でる風は熱を含み、吸い込む空気まで乾いている。
「……現実として扱うか」
夢かもしれないし、意識障害かもしれない。だが、確かめようのないことを考え続けても仕方がなかった。まず必要なのは水と、人のいる場所だ。
伊織は高い場所を探した。砂丘より岩場の方がいい。足跡を残しにくいうえに、周囲を見渡すのにも都合がいい。
数分歩いたところで、地面に半ば埋もれた石材を見つけた。
自然石ではない。角があり、表面には細い溝が何本も走っている。
伊織は足を止めた。見覚えがある。レイドフィールドの石床、それも最後に見た、あの妙な摩耗に似ていた。
「……似てるな」
それ以上は考えなかった。似ているだけのものなら、いくらでもある。今は水の方が重要だった。
岩場へ向かって歩き出した時、砂丘の上で黒いものが動いた。
犬に見えた。
ただし普通の犬より一回り大きく、漆黒の毛は陽光の下でわずかに青みを帯びている。左耳には小さな傷があった。
黒い獣は伊織を見ていたが、唸りもせず、近づきもせず、逃げようともしない。
「……野犬じゃないな」
黒い獣は答えなかった。当然だった。
伊織も近づかず、その場で相手の動きを見る。互いに数秒見合ったあと、黒い獣の方が先に視線を外した。
その視線の先で、砂が盛り上がった。
考えるより先に、伊織の身体が右へ二歩動いた。直後、さっきまで立っていた場所から何かが飛び出してくる。
砂色の獣だった。四足で胴は低く、前脚だけが異様に長い。細い口元の奥には、鋸のような歯が並んでいる。獣は着地すると間を置かず、こちらへ向き直った。
「速いな」
伊織は後退しながら足元の石を拾い、投げた。石は獣の顔の横を抜ける。その一瞬で岩場へ寄った。正面から来るなら、狭い方がいい。
獣が走り出した。
伊織は噛みつきが届く寸前まで待ち、身体を横へ逃がした。長い前脚が服を掠め、勢いの余った獣は岩へ肩をぶつける。伊織はその背後へ回り、蹴って距離を作った。
獣は砂の上を転がったが、すぐに起き上がった。
「面倒だな」
再び来る。今度は姿勢が低く、明らかに足を狙っていた。
左へ切ろうとした時、少し離れた場所でも砂が動いた。二頭目だ。最初から一頭ではなかったらしい。
「そう来るか」
一頭目が正面、二頭目が左。右は岩で、後ろは斜面になっている。素手でやるには分が悪い。
伊織の右手が、無意識に腰へ動いた。何もないことは分かっている。それでも身体は探した。
――銃があれば。
黒い粒が、指先へ集まった。
輪郭を認識した時には、もう重さが掌にあった。冷たい金属と、見慣れたグリップ、スライドの感触。
伊織は目を見開いた。
「……は?」
一頭目が跳んだ。考えるのは後だ。
伊織は銃口を上げ、一発撃った。弾丸が獣の前脚を弾いて突進の軸をずらし、砂を巻き上げながら横へ流れた身体へ、踏み込んで二発目を首元に撃ち込む。
獣が崩れ落ちた。
その直後、二頭目が方向を変えた。狙ったのは伊織ではなく、砂丘の上にいた黒い獣だった。
黒い犬が低く身を沈める。二頭目が跳びかかった瞬間、黒い犬は真正面では受けず、身体をひねりながら相手の肩口へ噛みついた。
獣同士の軌道がずれる。それで十分だった。
伊織は銃口を向けて一発撃った。二頭目がよろめき、黒い犬がすぐに離れる。続けてもう一発撃つと、砂色の獣もその場へ崩れ落ちた。
音が消えた。
ついさっきまで聞こえていた爪音も唸り声もなくなり、残ったのは風と、少し遅れて戻ってきた自分の呼吸だけだった。
伊織は銃口を下げた。黒い犬も動かず、互いに相手を見る。
「……助かった」
伊織が言うと、黒い犬は尻尾を振るでもなく、一度だけ鼻を鳴らした。どちらがどちらを助けたのかは、少し曖昧だった。
伊織は倒れた獣へ視線を移し、それから自分の右手を見た。
銃は、まだそこにある。握れば確かな重さがあり、撃った反動も手首に残っている。スライドを引けば動き、残弾もきちんと減っていた。見た目だけの幻ではなさそうだ。
「何だ、これは」
答える者はいない。
黒い犬は伊織の横まで来ると、そこで止まった。近づいてきたというより、自分でその場所を選んだように見える。
「お前も知らないか」
黒い犬は黙ったままだった。
「だろうな」
伊織はしばらく拳銃を見た。消える気配はない。ただ、いつまで存在するのかは分からないし、このまま手に持って歩くのも邪魔だった。
そう考えた瞬間、グリップの縁から黒い粒が浮いた。
「……ん?」
粒は手の輪郭をなぞるようにほどけ、スライド、銃身、グリップの順に形を失っていく。最後に、掌から重さが消えた。
伊織は空になった右手を見た。
「……消せるのか」
意図したつもりはなかった。必要がなくなったから消えたのか、それとも今の考えが何かの合図になったのか、判断するには材料が足りない。
黒い犬が小さく鼻を鳴らした。
「今のは同意か?」
返事はない。伊織は少しだけ口元を緩め、歩き出した。
「来るなら勝手に来い」
黒い犬はついてきた。ただし足元へ寄るわけではなく、三歩か四歩ほど離れた場所を同じ方向へ歩いている。伊織が止まれば犬も止まり、再び歩き出せば向こうも動く。付き従っているというより、今のところ行き先が同じなだけにも見えた。
十数歩進んだところで、伊織は振り返らずに言った。
「……お前も迷子か」
犬は、やはり答えなかった。
そのまましばらく歩いた。荒野には人の声も、車輪の音もない。風が砂の表面を薄く削り、ときおり乾いた草が根元から揺れる。さっきの銃声は遠くまで響いたはずだが、それでも何かが近づいてくる気配はなかった。
その静けさの方が、伊織には気になった。
やがて黒い犬が足を止め、耳をわずかに動かした。伊織もそれに合わせて立ち止まる。
前方の空気が揺れた。風とは違う。
半透明の刃が、二人の進路を塞ぐように砂へ突き刺さった。
伊織は反射的に重心を一歩ぶん落とした。金属ではない。淡い光を帯びたそれは砂を切り裂いたまま、少しずつ輪郭を失っていく。
「そこから動かないでください」
女の声だった。
意味が分かった。そのこと自体が、おかしかった。
伊織がゆっくり顔を上げると、少し離れた岩の上に一人の女が立っていた。銀白の髪に淡い紫の瞳。左右の腰には剣を下げている。
そして、耳が長かった。
女は伊織ではなく、まず砂の上に倒れた二頭の獣を見た。次に黒い犬へ視線を移し、最後に伊織の手元で目を止める。
「……あなたが、これを?」
伊織は倒れた獣を見たあと、自分の右手へ視線を落とした。
「たぶん」
女の眉が、わずかに動いた。




