霧の奇襲
――聖暦十八年、秋。
ティアは最初の危機に見舞われる。
目を閉じ、ティアは想像を働かせる。
「水竜魔法」
風呂の湯に渦が起こる。
指先に水の粒が次第に集められていく。水の球となったそれはアンに向けられた。
「えいっ」
ふわりとした軌道を描き、アンの顔へ。
彼女は手刀を作って振り抜く。水球は破裂すると、びしゃびしゃとティアの顔面にかかる。
「ティア、調子に乗るな」
アンが両手を組み、湯の中に浸す。握り込むと、その隙間から水が勢いよく発射される。
ティアは再び水を被る。
「わぷわぷ! けほっけほっ。で、でも、上手くいったみたい」
「私で試すな。もう何発かで頭が冷えるか……な?」
アンが構える。ティアは顔を守ろうとして両手を射線上に挟んだ。湯気の中で、姉妹の攻防が繰り広げられる。
早朝から風呂に入った経験があまりなかった。二人だけの入浴が久々であることもあって、ティアの理性の枷を少し外している。
やがて、風呂場を上がる。
外気が窓から入り込んで、ティアの体を冷やす。
ティアは何度か咳き込んだ。水にまみれたことで鼻や喉奥に水気が残るも、血は混ざっていなかった。
家の中は、彼女たち以外に音を立てていなかった。
家の主のハンムックが外出してから数日間この様になっている。ティアが都度片付けてはいるが、この静寂に中々慣れなかった。
全裸のアンが横を通り過ぎる。歩く度に足元に水溜りを作っている。
「アン、服! それと濡れてるよ」
「風くれ。乾かせばいい」
「もう、アンだって本当はできるんでしょ。……追風魔法」
ティアの手から風が吹く。そのままタオルでアンの体を拭いた。
半年間でティアは初級魔法であれば、ある程度修得した。どれも有用なもので、日常生活の中でも繰り返し使っている。色々な力を覚えることは楽しく、充実した毎日を送っていた。
だが、二つのもどかしさを抱えてもいる。
「ティア、ここを出るか?」
アンが少し前から脱出を提案していた。ハンムックがいない間も毎日こうして告げてくる。
「ううん、大丈夫だよ。それより、修練に行こ」
「出るなら今の内だぞ。あいつが戻れば、何をされるか分からん……ぞ」
「何もないよ、きっと。でも、外に行ってみたい気持ちはあるかな」
「ああ。そろそろ情報も得たいところだ。ここが異世界であれば、尚更な」
艶のある黒髪に触れると、アンは指で巻き出した。
深淵の森の外には一度も出ていない。
そのため、アンは望む情報を得られていない。この世界での知識もわずかしか教えられておらず、必然的に不安がつきまとってくる。
しかし、ティアの毎日は充実していた。アンとは異なり、異世界であることを気に留めてはいなかった。
ティアは階上の部屋に一人で戻る。
動きやすい服装に着替えると庭に出た。
日課になっている走り込みを始める。何十分と走るのはまだ難しかったが、ゆっくりであれば休まずに家の周りを回れた。
力も少し付いていて、自室の扉を開けるのに体を全て使わなくて済んだ。それでもまだ、ちょっとした衝撃で骨を折ってしまうが、それ以上に修練を楽しんでいた。
しばらく一人で走っていた。
すぐに息が上がり、汗が吹き出し始めていたが、嫌いではない。この苦しさの限界を迎えてから休む。それを繰り返している内に、昨日よりも体が強くなっているからだ。
今日はいつもより霧が濃い。暑い頃を過ぎてはいたが、汗が服に滲む。
間もなく昼時だ。
一つ気になることがあった。
アンのことを一度も見かけていない。
自分の近くにはいない。なんとなくそう感じられた。
彼女を探している内に、家が見えなくなっていた。霧のため方向が分かり辛い。
「アンー! お昼作ってくるからねー!」
もしかしたら先に家に戻っているかも知れない。
ため息を吐く。帰路につこうと踵を返した。
直後、後方の木々から唸り声を聞く。
体が強張った。アンのものではない。だが、聞き覚えがあった。
汚泥の臭い。ここにはない臭いだ。
振り返る。赤い光、霧の中からこちらを見つめている。
「アン」
異常を知らせようとする。だが、返ってきたのは三つの影だ。
レムレス。異形の魔物とハンムックに呼ばれている。
まだここに来たばかりの頃に遭遇した者たちと同じ姿をしている。頭頂部の角、ツルのような体毛と狼に近い姿。
逃げるべきか。ティアは一瞬でもそう考えた。
その隙を突くように一体が飛び掛かってくる。
「くっ!」
両手を前に出して口を止めにかかる。
しかし、ティアの体は倒された。体の大きさは同じくらいだ。だが、力の差が極めて大きいようだった。
両腕から激痛が走る。目の前の剥き出しにされた牙を見て息が上がる。このまま止められないのは明らかだった。
唐突にあの日の光景が浮かんだ。
炎に燃やされるレムレスたち。なぜ、ハンムックはあの時そうしたのか。
「ふ、ファトマ!」
両手から炎が発現する。勢いよくレムレスの体に燃え移り、その全身を包み込んだ。
甲高い悲鳴。全身を燃やされながらその場に転がり込む。土を使っても消火には至らず、あっという間に一体は黒く焦げていった。
やがて、力なく倒れる姿が目に映る。
あの日、目の前で死んだレムレスと同じ。
違う、今命を消したのは自分のせいだ。
ティアの胸板が激しく上下する。
獰猛な声が聞こえた。
急ぎ視界を戻すと、脅威は左右に分かれていた。レムレスはあと二体いる。
ティアを中心に円を描くように回っている。だが、攻めてこない。こちらを窺いつつ歩いているだけだ。
距離は5メートルと少し。
この間合い、有効な手段がない。魔法を使っても、距離が離れていて命中する前に避けられる。最も有効であろう火炎魔法も、手に触れる範囲でなければ使えなかった。
呼吸を戻そうと深く空気を吸い込む。
だが、額には冷たい汗が滲んでいる。筋肉の緊張。それは、ティアの体力を奪う。持久戦は明らかに不利だった。死角に意識を向けるのにも体力が必要となる。
足を家のある方に向ける。家に立て篭もれば、その点は克服できる。
だが、レムレスが立ち塞がった。後方からもう一つの気配が近づく。足を止めざるを得なかった。
その時、足元で乾いた音がした。
枯れ木を踏んでいた。いくらか束になって落ちている。
ティアはこれを掴んだ。
「火炎魔法!」
着火した瞬間、それを前方のレムレスに投げつける。
速度は緩慢だ。だが、避ければ向こうの包囲に隙ができる。
予想通り、レムレスが横に大きく跳ぶ。
ティアは即座に駆けようとした。
その時、喉元が思いきり潰される。前に一歩も踏み出せなくなった。
首に手を当てた。
太く弾力のあるもの。引き剥がそうとしたが、前方からも何か飛ばされた。
レムレスの体毛が、自分の体に数本伸びている。縄のように扱われたそれが体に絡みつき、首や腕、胴体を捕らえていた。
締め付けが強まる。体に激痛が走り、喉から空気を絞り出したような音が漏れる。
声を出そうにも言葉にならない。これでは、魔法を発現できない。
骨が砕けていく。レムレスは容赦がなかった。更に圧迫して、臓腑を刺し始める。
死が近い。
まだ何もしていない。何もせずに終わる。
だからか、活路を求めた。
一つ、想像。二つ、集中。三つ、条件を満たすこと。
ハンムックの言葉、そして、アンの力と姿。自分の中の想像が左手に集約する。
手刀の形を作る。魔力の発現はそこからだ。
切裂魔法。
左手に自分のものでない力が宿る。
手首より先をなんとか動かし、右腕を縛っていたツルに当てた。ぶちぶちと拘束が解かれていき、やがて自由に動かせるようになった。
右手にも魔法を念じる。そして、首筋に思い切り振り上げた。
首の肉が抉り取れる感触、同時に血を吐いた。ひとしきりそれは続いたが、圧迫感が消え、呼吸もできるようになった。
魔法も唱えられる。焼かれたような痛みがあるが、なんてことはない。
他のツルも切断する。体全体を動かせるようにはなったが、怪我が大きい。
レムレスたちから悲鳴が上がる。
肉体を刻まれた痛みからか、呼吸を整えるティアに一体が襲い掛かった。
彼女の金の瞳は、その隙を見過ごさなかった。
「……水竜魔法……!」
互いの間にかざした手を中心にして霧が吸い込まれる。
変換された水は、レムレスの頭を包み込みその勢いを殺した。
「切裂魔法……!」
手刀を作り、レムレスに振り下ろした。
棒切れのような力の入らない腕だったが、それは見事にレムレスの角を水球ごと両断する。
レムレスは角の断面から黒いものを噴出させ、水の中でぐったりと倒れた。
最後の一体。
少し距離が離れている。逃げる気がないのか一定の距離を保って動かない。数的な有利が崩されたとはいえ、ティアはまだ不利な立場だ。痛みも出血も多く、脚も震えている。
こちらが倒れるまで待つのかも知れない。あるいは、更なる来襲があるのか。どちらにしても、ティアはそれを防ぎたかった。
残りの力を全て賭けなければならない。それでようやく道が開かれる。
だらんと垂れた両腕をわずかに後方に向ける。斜めになった両手は休息をしている鳥の羽ような構えとなる。
両手に力を集める。
最後の一撃、成功しても失敗しても動けなくなるのは間違いない。だが、ここで決めるべきだった。
「追風魔法……!」
両手の辺りから風が勢いよく吹き、ティアの体が斜め前方に飛び出す。
狙いはレムレス。浅い角度の放物線を描きながら急接近した。
赤い眼が見える。だが、レムレスは反応が一拍遅れていた。ティアの手が差し出される方が速い。
「火炎魔法!」
両手から炎が発される。
衝突すると同時に炎が肉体に触れた。数十秒もかからずに、レムレスの全身に燃え広がる。
苦悶の叫びが上がる。土の上に転がり、じたばたと必死に消化を試みるも火の勢いがますます強くなる。
数秒も経たず、レムレスは動かなくなった。十数秒後、魔法は肉体を炭に変えた。
ティアは土の上に放り出されていた。
全身の傷は深い。特に内臓に関しては、骨が何本も臓腑に届いており、最後の一撃の際に、衝突によって更に深く食い込んだ。脚もツルによって負傷させられている。
それでも生きている。
呼吸は浅く、焦点も上手く合わせられなかったが、意識を食いしばることでつなぎ止められている。
不意に、目の前に誰かの影が現れる。
美しい銀の瞳がこちらを見つめていた。
ティアは上体を起こされ、背負われる。その背中は赤く濡れていた。血。いや、臭いを嗅いでも自分のものと区別がつかなかった。
「ア、アン……」
「あんまり喋るな。今度こそ死ぬ……ぞ」
アンに対して、ティアの呼吸は落ち着きがなかった。
「うん……」
「……少し油断したな。レムレス、だっけか。連中もこの辺りに姿を現すんだな」
「……ずっと、見かけなかった……もんね」
霧の先にはまだ何体もいるだろう。今まで行動を起こして来なかったが、それはハンムックがいなかったからかも知れない。
初めての戦いだった。まだレムレスを殺した感覚が手にある。手は赤と黒が混ざり合って、元の色が分からなくなっている。手で仕留めた時の感覚は、包丁で物体を切断したといった具合に近かった。あれが、角でなく胴体であればより命の重さを味わっていたのだろう。
アンは何度も命のやり取りをしていた。いつもこんな気持ちになっていたのか。
「アン……」
「なんだ」
アンはこちらに振り向かない。前だけを見据えている。
足取りはゆっくりだ。お陰で、痛みを抑えられていた。
「ありがと……」
「次は一人で帰れるようになることだ……な。何度も何度も運ばされる私の身にもなってくれ」
「そう……だね……」
ティアは頬をアンの背中につける。
ドクンドクンと心臓の鼓動がする。一定の調子で一切乱れがない。それを聞いていると体から徐々に力が抜けていった。
ティアは、それから丸二日は眠っていた。
「あんれ! グレイスがミイラみたいになっとる!」
包帯でぐるぐる巻きにされているティアを見て、ハンムックが笑い声をあげた。
包帯の下でティアは苦い顔をする。
全身の痛みがまだ続いており、介護が必須な状態だ。珍しく、アンが食事を食べさせてくれたのはティアにとって喜ばしい出来事だったが、最近の健康的な生活に慣れ始めていたせいか地味な苦痛が生じていた。
「ほうそうか、レムレスがのう」
「前にも見たレムレスですよね。どうして急に現れたんでしょう」
「そりゃ分からんが、まあ二人が無事でなによりじゃ。しかも、倒したと来た」
「ちょっと半年魔法を教わるだけで簡単使徒の出来上がり……だ。あの程度の奴らなら私たちのような奴らよりも適当な奴探して、適当に半年魔法教えるだけでいいんじゃないか?」
アンがスプーンのスープをティアに飲ませる。
熱加減が甘く、ティアの舌が熱にやられる。
「そうはいかんもんなんじゃ。案外、適性ってもんは重要でのう。それに、そのレムレスはまだ弱い種族じゃ」
「弱い種族? レムレスってたしか……」
「魔力の扱いを得意とする異形の生物、いわゆる魔物のようなもんじゃ。お主らが戦った個体はおそらく、一角植獣。植物を由来とするレムレスの一種で、そこまで強くはない」
ハンムックが少し踏み込んだ話をする。初めて聞く名称だ。彼がこういう話をするのは珍しい。
「西方世界にはまだまだ活動しちょるレムレスがごまんとおる。数も多いが、質も高い。修練を積んだ使徒が敗れてしまうほどにのう。じゃから、一人でも即戦力となる人が必要なんじゃ」
「即戦力……私が……」
「と、言うことでなんじゃが。お主ら、明日から聖都に行くぞ!」
「え、聖都? いちゃ……!」
スプーンがティアの頬に突き刺さる。
また聞きなれない単語だ。ハンムックの新たな発言にはいつも驚かされる。
聖都。響きからすると、綺麗な都市が思い浮かび上がる。しかし、なぜそこに行かなければならないのか。
「オレがあたためちょった使徒育成計画がようやく始められるんじゃ。そして、グレイス、アンリ、お主らはそこに参加するんじゃあ」
「え、えーっ!」
ティアが声を上げる。そして、ひとしきり咳き込んだ。
近道しているのか遠回りしているのか、霧に包まれたようにこれから先がどうなるのか想像もつかなかった。




