西方遠征前夜 ④
次回から西方遠征が始まります。
それに合わせて投稿ペースが落ちるかも知れませんが、ご了承下さい。
手を伸ばして、眼鏡を探した。
机の上にあることは音で分かっていた。シーツを体にあてながら少しずつ上体を起こす。
「お探しかな?」
モアナの声だ。ヨハンナが眼を開こうとした時、彼女に眼鏡をかけられた。
「モアナさま、ありがとうございます」
そのまま、モアナの唇が額に触れる。水音が発されると、彼女が見つめてきた。
緑色の瞳の中で虹彩が光っている。自分を見つめてくれている。
女性とは思えないような壮健かつ端正な顔立ちは絵画を想起させる。いや、それよりもずっと美しく、見た者の心を奪ってしまうような魅力がある。
昔と何も変わらない。今も、変わらぬ愛情を自分に注いでくれている。
「もう少し、しようか?」
「は……。い、いえ、候補者たちが待っています。申し訳ありません、モアナさま」
モアナが手を引いて来る。ヨハンナはゆっくりと立ち上がらせられる。
目の高さに、丁度彼女の双丘がある。艶やかで白くもあり、飛び込んでしまいそうだ。
だが、それはただの甘えだ。大波の如き欲求であるが、越えてしまえれば我慢できる。
モアナが、不意に衣服を現出させる。
その服を、ヨハンナに羽織らせた。自分の服と気づくのに、彼女は時を要さなかった。
「ありがとうございます。では、失礼します」
「ああ」
すでにモアナは部屋の窓辺に歩いている。関心を失ったかのように。
ヨハンナは法衣を身に纏うと、一礼した後にモアナの部屋を後にした。
遠征の先遣隊はすでに聖都を出立している。三日前のことだ
グレゴリーを隊長として、マグナス、ニル、シーザー、シャール、リリン、そして、グレイスとアンリの合計八名からなる部隊だ。
最初の目的地であるダルタロス地方までは、二十日程度。彼らの体力を考えれば、もう少し短縮はできるだろう。
ダルタロス地方は、聖都の大いなる門と呼称されている。その名の通り、聖都とは近い距離にある。
しかし、両地域間でも霧が立ち込めている。その中には、多数のレムレスが確認されている。
修練で多少の経験を積んだとはいえ、候補者たちのその多くが未熟だ。実戦の中では、様々なものが彼らの生命を脅かす。
かの地へ行くことは消滅を間近に感じさせる。ヨハンナにも多くの懸念があった。
修練場の前にやって来ると、荷車がいくつか目に入った。
その周囲には候補者たちがいる。
「ヨハンナさま、準備はできています。いつでも、出立できます」
こちらに気づいてか、エンリカが近づいてきた。
「不調な者はいますか?」
「無問題ですわ! あ、ペルラさんが立ちながら寝てはいますが、全員が気力に満ち満ちていますわー! みなさーん?」
エンリカが他の候補者たちの方に振り返り、手を高く挙げる。
その動きに呼応して、大声が上がり始める。ヨハンナの耳からしてもうるさいくらいの音量だ。
極めて高い士気だ。不安要素を吹き飛ばしてしまうと錯覚させるほど。
ヨハンナが、彼らを手で制する。
「では、予定通りに行動します。数時間後の予定時刻に合わせて、出立します。それまで、各自待機していて下さい」
「はい。皆さん、荷や持ち物の確認を適宜お願いしますわー!」
エンリカの声にまた周りが応える。彼女はまるでもう一人の指揮官だ。
エンリカとフランツの姿が重なって見える。彼女の祖父も、聖皇の義兄弟という枠組みに収まらず第一の指揮官として前線を引っ張っていた。フランツの血が、そうさせるのかも知れない。
ヨハンナは、簡単に荷車に目を通す。
荷を引く馬はどれも計画で用意したもので、控えの馬も含めて問題はなく見える。
食料が数か月分はあり、現地での補給と合わせれば余裕はある。物資は、候補者たちが買ってきたものと合わせており、かなり多いと言わざるを得ない。
馬の負担は大きいだろうが、その点は魔法があれば、解決する。
後遣隊は、ヨハンナが隊長を務め、エヴァールが補佐になる。そこに、エンリカ、ノトゥ、ペルラ、ベル、エドワルドが加わり、七名で構成される。
後遣隊の役目は、物資の管理が一番となる。
また、物資運搬のための最適なルートの確保も重要となる。計画の後、輸送隊が比較的安全な道を使い、各所へ物資を運ぶ。長期的に見れば、そちらがもっとも重要と言える。
だが、明らかに人員が不足している。
質も量も血族直属はおろか、地方の一部隊にもわずかに劣る。
本来は、この遠征も聖都に残存する使徒たちが担うべきだ。子どもたちが負うべきものでない。
しかし、その危険性を理解もしている。
二年前の厄災異変において、大きな打撃を受けた。あの一件以後、大きな行動に出られなくなり、今まで西方地域の分断も回復できていなかった。
候補者たちは捨て石、と言ってもいい。
上手くいけば、実戦で得た情報は次世代の育成だけでなく、今後の西方地域での活動における基点として活用されるだろう。
失敗したとしても、使徒でない者が数人犠牲になるだけ。次の策を練ればいいだけのことだった。
これは、ハンムックの策だ。
モアナと同格とされるあの恐ろしき男だ。
「ヨハンナ、あの子らが心配か?」
荷車の確認の最中、エヴァールが小さく口を動かす。
「そう、顔に出ている」
「……先生、申し訳ありません」
エヴァールが手を遠方に向ける。
ヨハンナはそれに従って、候補者たちから少し距離を取る。
「お主の気持ちは分かる。だが、無茶はするな」
「はい。……先生は、何度もこんな気持ちを?」
「それが使徒になるというものじゃ。じゃが、今はその道を進まなくてよくはなっているのがのう」
「……本当に私が適任だったのでしょうか」
「それはまだ分からん。じゃが、よくやっていると思う。あの子らはよく育っておる」
「それは、あの子たちが私の話をよく聞いてくれるからです」
「それは、どうじゃかな? お主の話は眠くなると評判じゃぞ?」
「エヴァールさまが言えたことですか」
「ほっほ、そうじゃな」
エヴァールが口元を動かす。
時空図書館での務めも、エヴァールには何度も代わってもらった。候補者だけでなく、自分やグレゴリーに対しても常に気遣ってくれている。
百年前から、エヴァールは何も変わっていない。
その時から、義と理が彼を形作っていた。
「ヨハンナ、ハンムックの言うことなど気にするな」
「ハンムックさまですか?」
エヴァールの声色が少し低くなる。だが、彼らしい穏やかさは残っている。
エヴァールはハンムックを昔から警戒している。彼の直属の部下として幾つもの死線を潜り抜けているにも関わらずだ。
「奴に何を言われようが、お主の好きにすればいい」
「使徒らしくない、じゃな。主とその使命に尽くす。それが理想の使徒の形とされておるな。じゃが、そんなものわしらには関係なくてのう」
「先導者さまの使徒、だからですか?」
エヴァールが頷く。
先導者の使徒、それは聖都にも地方にも属さない第三の使徒である。聖皇の管轄からは離れており、独自の価値観を持つ。
「いや、お主にはモアナさまがいたのう。聖都所属の方が、思想の面では辻褄が合っているか」
「……はい」
「すまなかった。しかし、相変わらず、難しい立場のようじゃのう」
少し胸に引っかかるものがあった。
可能であれば、モアナの下に付きたかった。
今も、基本の配置場所は同じだが、彼女に仕えている訳ではなかった。
だからこそ、自分が計画の一翼として選ばれた、と言えるのかも知れない。先導者の使徒と聖都を繋ぐことのできる位置にいる。
代わって欲しさはある。
だが、それはただの我儘だ。
「エヴァールさま、遠征でも頼りにしています」
「ああ、わしも同じを信じておる。じゃが、無茶はいかんからのう」
ヨハンナはエヴァールに頭を下げた。やはり、彼以上に候補者や後進を気にかけている者はいない。
エヴァールと別れた後、ヨハンナは簡易な地図に目を通していた。
完璧ではない地図だ。だが、未完成品でも計画の前提としなければならなかった。
計画の無情さ、それはグレゴリーも把握している。その上で彼とも議論してきた。
遠征の最初の一歩、それが最も不確定要素がある。
これを無事に終わらせつつ、経験を積む。それを意識しての先遣隊の構成だった。
全体的に、高い戦力と言っていい。
アンリやニルは白兵及び遭遇戦には強い。マグナスやシーザーも経験は浅いが、様々な状況に対応できる力がある。シャールやリリンも、扱え切れれば高い能力を期待できる。
だが、一点だけ。グレイスの配置だけ、納得がいかなかった。
数時間後、その確認ができる機会が巡って来た。
西方遠征への出立前に行うモアナへの挨拶だ。
彼女の部屋に入ると、まず黒箱を片手に持つモアナが目に入った。
「おう、ヨハンナ。もう出るんかのう?」
そして、ハンムックが彼女の部屋にいた。こちらを見つけた瞬間に、口元を大きく動かしていた。笑いかけたのだろう。
彼の同席は、事前に聞いていた。
「はい。すぐにでも立てます」
「そうかそうか。じゃが、最後にいくつか確かめておきたいことがある」
ハンムックの声色が一気に低くなった。今、ハンムックを見た者は、彼を彼だと認識できないだろう。
「目標は、西方地域の分断の回復。これが基本となる。十二氏族の妨害があるだろうが、状況に応じて対処すればいい」
「はい」
「一方で、血族、あるいは聖皇陛下からの接触があっただろう。そちらではなんと?」
「十二氏族の撃滅及び敵対勢力の排除、あとは小さき依頼が少々」
ハンムックが口元を手で覆う。
聖皇や血族たちからは、以前から持ちかけられていた。しかし、時に相容れないものがあった。
敵対勢力の排除がそれだ。
「具体的には、ルキウス・ロマーノ。彼も、私に声をかけました。しかし、期待に添えた返答をもらえなかった。その後、息子のシーザーに密命を出しています」
「神眼で確認したのか?」
「はい。ルキウスが西方の情報を得ている場面から、彼の使者がシーザーと接触するまで。断片的に繋いだ形となりますが、間違いはないでしょう。彼以外にも同様のものが来ていますが」
ハンムックが唸り声を出す。
神眼は完璧ではない。だが、使い所の多い魔術だ。
今も、グレゴリーたちの眼を通して、先の様子を確かめている。
遠征の中、グレイスは活躍しているように見えた。
「事前に伝えた通り、陛下の意思を尊重するように。血族は保護は必要だろうが、絶対のものではない」
「かしこまりました」
「それと、もう一つ。神眼はグレイス、アンリによく使え」
「グレイスとアンリ……?」
ヨハンナが唇を噛む。
二人は確かに特別な才能を持っている。しかし、何があるというのか。
「あの二人の動向が、今後の行く末を左右する」
「……計画のでしょうか?」
「そうだ。故に、あの二人から目を離さないように」
ハンムックが腕を組み出す。
淡白な口調だ。いや、普段から彼の言葉には起伏などないのだ。明るく振る舞っていても、神妙な面持ちになってもそれは嘘だった。
「ハンムック」
不意に、モアナが口を開く。
同時、彼女の手にあった黒箱が消失する。
「お、おう。そうじゃな。ヨハンナ、話は以上じゃ。オレはちょいとばかし用事がある故、ほんじゃまた」
ハンムックが立ち上がり、そそくさと部屋を出ていった。
直前まで全く態度が異なっていた。
彼の本性、いやあれも彼の本当の姿ではないのかも知れない。
「ハンナ」
「は、はい」
モアナがヨハンナの愛称を口にする。彼女だけがそれを使っている。
一歩ずつ歩み寄って来る。
「片眼は我に」
「はい。必ず、お役に立ってみせます」
「いい子だ」
顔が間近まで迫る。
虹彩が見える。吸い込まれてしまいそうな深い色をしている。
欲望が強まる。
だが、ヨハンナには果たさなさなければならないことがある.
「計画の参加者、全員を無事に帰還させます」
「では、我も君の帰還を待つとしよう」
「……いえ」
「ん?」
ヨハンナの下唇にモアナの指が伸びる。
その指を、ヨハンナは柔らかく包み込んだ。
「またモアナさまの前に出られるかは分かりません。ですので、ここでお別れを」
その次の言葉を紡ぐ前、モアナの唇が蓋をした。
柔らかく、暖かい。すぐに離れてしまったが、体の芯の熱さは続いていた。
「君らしくない。全員を無事に帰還させます。そう言ったばかりだ」
「…………はい」
「行って来なさい。続きを楽しみにしている」
はい。
もう一度そう答えられたかは分からなかった。
ただ、モアナが勇気づけてくれた。
その事実が、ヨハンナの意思を固くした。
モアナの部屋から出ると、すぐに神眼を使った。
まだ暖かさはある。だが、それを外へ外へと広げた。
一つの眼を見つける。
その眼に映るは、グレゴリーの大きな背だった。




