西方遠征前夜 ①
包帯の下から丸みを帯びた毛の塊が見える。
修練場から少し離れた路地裏で、アンはリリンを組み敷いている。
辺りは薄暗くなってきている。
決闘も決着しただろう。
決闘の終結までリリンの足止めをすることがエンリカからの頼みだった。
丸一日かけて戦っていた。
昨日、シーザーを尾行して、その住処を掴んだ。それから挑発し続けて、リリンを引き摺り出した。
半日、リリンの体力はそこまでは保った。
しかし、それからは疲れ切ったリリンをアンがおちょくり続けるという状態が続いていた。
現在は、リリンを押し倒し、彼女を隠していた衣服と包帯を剥いでいる。
その下のものは、正にリリンの正体であった。
「結局、レムレスなのか、お前……は?」
「……それで、にゃにか悪い?」
不慣れな言葉だ。
リリンの頭頂部からは本物の猫の耳が生えている。
人の耳があるはずの場所には、柔らかだが毛だらけの皮膚と数本の細長い髭がある。首から下も同様で、尻尾がないこと以外かなり猫の要素が強い。
ただ、胸の膨らみや骨格、その他細かな部分に人間らしさもある。
「どうして、あの連中といる?」
「…………」
「その包帯、ベッドが毛むくじゃらになるのを防ぐだけじゃないだ……ろ?」
指摘すると、リリンの喉が動いた。生唾を飲み込んだのだろう。
体毛の下には無数のアザがある。古傷だけでなく、真新しいものもだ。
その上、首に残っている絞めたような痕、複数ついているがどれも太さが均一だ。
おそらく首輪で出来たものだ。
ティアにも同じ痕があったことをアンは覚えている。
リリンは奴隷だ。しかも、かなり扱いの悪い。
「私に力を貸してみない……か?」
「だ、誰がお前のようにゃ……」
「そう……か。ならいい」
アンが立ち上がる。
彼女は、リリンに背を向けて立ち去ろうとする。
だが、その背を獣が見逃すはずはなかった。
「しつこい……が、嫌いじゃない」
アンが半身を逸らして、リリンの奇襲を避ける。リリンの長く尖った爪はアンの首元を狙ってのものだった。
通り過ぎようとする襟首を掴み、路地裏の壁に叩きつける。
リリンは、それで静かになった。
夜半いくらか過ぎてから、アンは修練場に戻った。
人によっては寝静まる時間だ。
だが、彼らの騒々しさは昼間以上に高まっていた。
「アンリじゃねえか!」
「おかえりなさいまし、アンリさん! さあさあ極上のチーズをご用意いたしましたわー!」
いきなりニルとエンリカに迎えられた。
両腕を掴まれると、そのまま食堂に連れて行かれる。
食堂は混沌を極めていた。
「飲め飲めーい! わたしの酒をもっと飲めーい!」
「エドワルド、酒よりも剣、いや剣よりも酒だ。あーもう、何でもいい!」
「誰か……助け……もう飲めな」
「きゃははははは! あれもこれもおいしー!」
候補者たちの頭が完全におかしくなっている。
おそらく、決闘で勝利したことによる宴なのだろう。
広い食堂にはこれでもかと料理がある。そして、珍しく酒瓶や樽が置かれている。
修練には不要と、酒単体では中々飲まれない。混ぜ物として出されることはあるが、ほとんど水と変わらないものだ。
だが、この様子では、全員かなり酒が入っている。
ニルとエンリカも、樽の酒を丸ごと飲み始めた。
「うおおおおおお! ニール! ニール!」
「リカちゃんファイトー! フランツさいきょー!」
意味の分からない音頭が取られる。
彼らを無視し、アンは誰もいない隅の席に座った。
リリン足止めの報酬であるチーズや極上の肉を卓上に並べる。そこに、グレゴリーが作ったであろうサラダの盛り合わせやシチュー、フルーツなどをかき集める。
いざ食べよう。そうスプーンを手に取った時、隣で寝そべっている何かに気づいた。
「はれ〜? アン、アンなの〜?」
「……ティア、酒飲んだのか?」
ティアは顔が真っ赤になり、口をだらしなく開け放っている。
「のんでないよ〜。わらしがのめないことしってるよね〜?」
「……ほら、野菜」
「あむあむ。う〜おいし〜」
「スープ飲め」
「ズズズズ、これもおいし〜」
用意した食事を少しずつティアに与える。
この状態になるとティアは何でも食べる。味覚が壊れているのか不味いものでも美味しいと答える。
アンが食べる余裕はあまりない。
せっかくのチーズも勝手に食べられてしまう。
「アン〜」
ティアがアンに抱きつく。
アンは彼女の後頭部に腕を回し、ポンポンと叩く。
「いつもありがと〜」
「そうか」
「だいすき〜」
「飲まされ過ぎだ。……はぁ」
アンの介護はしばらく続いた。
夜が更けていって、ようやく一人また一人と倒れていった。
最後には、アンだけしか残らなかった。
「アンリ、食うか?」
グレゴリーが台所の方からやって来た。
彼が持っている盆には、先ほどアンが準備していた献立があった。
目の前に置かれた食事に、アンは手をつけ始める。
その膝元には、スヤスヤと眠るティアがいた。
「今日は、随分多忙だったようだな?」
「普段と大した変わりはない。お前は昨日からそうだったみたいだ……な」
修練中に乱入してきたシャールたちに対し、グレゴリーは何もしなかった。
彼女に対応したのは、エヴァールだ。
「いや、俺もあの場にいた。霧の中にな」
「へぇ……何もしなかった訳……だ」
「悪かったな。エヴァールの爺さんに全部やってもらっちまった」
「お前の方が偉い、と私は思っていたんだが……な」
「それは、出自的な意味か?」
グレゴリーがアンの前のパンをちぎって食べる。
「俺は使徒とは関係ない戦士の家系、爺さんはただの老爺って言ってたかな。今の立場に関しては、俺が総合的な判断をしてるってだけで身分は変わらん」
「……お前たち使徒は奴隷を使っているの……か?」
「ああ」
その瞬間、アンが手刀をグレゴリーに向ける。
グレゴリーは一切身動きしなかった。
「私たちも、奴隷……か?」
「使徒候補者。皆、平等だ」
「平等……? なら、あの血族とかいう連中はなんなん……だ?」
「特別でも何もない。だが、自分たちは特別だと思っている」
グレゴリーは淡々と語っている。
「特別と思う故に、今日の出来事を無視はできまい。近い内に、結果は出るはずだ」
「何の話……だ?」
「この計画を彼らでは止められない。それを理解していなかったが故に、彼らは立場を悪くした」
「……だろうな」
「エンリカもグレイスもよくやってくれた。お陰で、彼らとの問題も一つ解決できそうだ。アンリ、お前にも感謝する」
グレゴリーが頭を下げる。
使徒の中にも様々な者がいる。
グレゴリーやヨハンナは情と理を重視している。エヴァールは己の信念、ゲタイといった血族の使徒たちは欲に忠実だ。
奴隷は実際、認められているのだろう。
だが、グレゴリーの口振りは、自分は奴隷を認めていないとでも言いたげだった。
個人の自由を奪うこと、認められる訳がない。
グレゴリーが口角を少し上げる。
「少しだけお前が分かったような気がした。グレイスの言い分は正しかったんだな」
「……ふん、こいつがいなきゃ、お前の首を取りに行ったんだが……な」
「そうか。それじゃあ、まだ俺を倒せないけど……な??」
「真似すんな」
グレゴリーが声を上げて笑う。
アンは食べ終わると、その場で眠りについた。
翌朝、毎朝恒例となっているにわとりのような鳴き声にアンはまた起こされた。
「おはようございますわー! 今日も修練頑張りますわよー!」
「ふやぁ〜がんばるぞー!」
食堂の面々が少しずつ立ち上がり始める。
半分はフラフラとしている。だが、エンリカはまだ酒が入っていると思えるくらいには騒がしい。
「アン……頭痛い……」
「バカか、お前は」
修練場の中庭に来ても、ティアはアンにもたれかかっていた。
早朝の修練が始まる。基礎体力作りは、最近は毎日行われている。それをこなしてから再現の部屋での実戦式の修練を行う。
だが、グレゴリーたちは中々現れなかった。
「どうしたんでしょう……」
周囲がどよめき始める中、ティアが小さく呟いた。
生じた時間を使って、候補者たちは調子を取り戻していった。
しかし、彼らはまた表情を固くさせた。
「えっ……?」
しばらくしてグレゴリーたちがやって来た。
彼らの後ろには、候補者の制服を身に纏った三人の人物がいた。
彼らは、誰とも目を合わさない。
アンは、それぞれを睨みつける。端正な顔立ちをした二人は顔にアザを作っていた。
「今日より、療養中であった三名が修練に参加する! それぞれから改めて自己紹介をしてもらおう。シーザー、前へ」
手で促されたシーザーが前に出る。
「シーザー・ロマーノ、先日まで病気のため療養していました。体調が不思議と元に戻ったので、皆さんこれからよろしくお願いします」
彼の顔はにこやかだ。
ペルラやベルがよろしく、と声を出す。だが、彼女たちだけだ。
その下にはドス黒い本性が潜んでいる。
「シャール・クロヴィス、以上よ」
「シャール、他に何かないのか」
「……クロヴィスの者として、その名に恥じないよう努めるわ」
シャールは目を閉じながら言った。
顔には青アザを作っている。まだ真新しい。昨日までは綺麗な皮膚をしていた。
「そして、最後の一人、リリンだ。彼女は、喉を含め全身に傷があるため現在も療養の身である。だが、動けるようにはなったとのことだ」
「だがよ、教官!」
ニルが声を上げる。
「そいつらはこれまで一度も修練には出てねぇ、だが成績ってやつにはそいつらの身体能力は高くでていやがる! それはどういうことだぁ!?」
「療養の最中、簡単な検査は行っていた。こっちで行う検査にも時折来ていたはずだ。それらを総合的に判断したに過ぎない」
時期ごとに行っていた検査に出ていたことは嘘ではない。だが、総合的と言う言葉は嘘を混ぜ込みやすい。
アンはリリンを見た。
彼女は一瞬辺りを見回していたようだったが、すぐにアンと目が合った。
目をわずかに細めていた。敵意を隠すつもりがない。いや、反抗心を抱き続けているのか。
全員の紹介が終えられると、三人はアンたち同じく、列に並んでいった。
「西方遠征まであと少し。最後の追い込みいくぞ!」
グレゴリーの一声で、全員が走り始める。
シーザーたちも後方に着く。アンの背後だ。
何を狙っているか、その目的を探ろうとした。だが、その時間では尻尾を出さなかった。
修練を終えて、食事の時間となる。
新人の三人は、他の候補者たちから離れて食事を始めようとした。しかも、それぞれが三方に散らばっている。
だが、一人一人に声をかける者がいた。
「……ふん、バカ……が」
ティアが肩を落として帰って来た。
その流れを三度も繰り返していた。




