深淵の森の使徒
「使えぬやつだよ、本当にな」
主人が膨らんだような片側の頬を目元に届くくらい吊り上げている。
何度言われたか、ティアは覚えてはいない。
ただ、体は全て記憶している。
仕草や表情だけでも自分が使えない人間だと相手に思われていると分かるのだ。謝罪の時に相手の顔が確かめられなくても、声色のちょっとした変化から読み取れた。
「もういい、お前は必要ない」
吐き捨てるように言って、主人が部屋から出て行く。
その瞬間、次に何をしたらいいかティアは分からなくなる。
体を使う作業は長く続かない。短い作業でも多くは力と体力が必要であり骨折や怪我を負うといった形で、肉体はすぐに悲鳴をあげた。
価値のない人間だ。
どこへ行ってもいらないと思われる。奴隷になっても無価値と同じだった。
それが何度も続く。
失敗をして、取り繕おうとして、否定される。色々な場面が用意されても、結局は同じ物語が流れた。繰り返しの中で、自分が何なのか考えるも答えは見つからない。
ティアが目覚めた時、彼女の目尻の端が濡れていた。瞬きをしていると止めどなく流れ出る。
呼吸を少しずつ落ち着かせてようやくここが現実であると思えてきた。
しかし、ここは見たことのない場所だ。どこかの部屋であるようだ。
体を起こすと鏡に映る自分の姿があった。
色の薄い肌着を着ているがいつもと違う姿はそのくらいだ。
ボサボサになっている白金の長髪、思わず目を瞑ってしまいそうになる明るい金の瞳、頭だけが大きく感じられる程の枯れ木のような手足と貧相な体は確かに自分のものだ。
部屋にはベッドが二つあって、その内の一つを自分が使っている。壁には本棚があり、一人用の小さな机と椅子もあるが、それ以外の物は少ない。綺麗に片付けられている印象だ。
そういえば、ともう一度鏡を見る。
肌着を脱ぎ、素肌を露わにする。
あの時負った傷が分からない。といっても、骨折や肉離れがおおよその怪我であり外的にはそこまで目立つものではなかった。だが、痛みは間違いなくなくなっている。
ベッドから降りて立ち上がってみても足が痛まない。鏡に近づき、体を確かめながら怪我をしたであろう箇所に触れてみても全く痛まなかった。
「アン……?」
姉妹の所在も気になった。ベッドの端を確かめてみても彼女はいない。他の狭い空間や陰になっている部分も同様だ。
部屋の扉の鍵となっている木の板を両手で横に移す。木の扉は更に重い。全身を使ってゆっくりと開けていった。
なんとか部屋の外に出ると、ティアは肩で息をし始める。
目の前に手すりがあって、端の方まで目を沿わせると階段があった。階下から物音が聞こえる。
手すりを使って一歩一歩と移動する。
木の建物だが、ティアの足音はほとんどしない。彼女の体が家屋にかける負荷は小さい。転倒すれば、誰かを叩き起こせる音を出せるであろうが。
階段の上段にアンが座っていた。後ろ姿であったが、ティアのよく知る寝方の一つだった。
そのまま声をかけようとする。
「……起きたか」
振り向きもせずにアンが言った。かなり低い声だ。
「あ、うん。もしかして、寝てた……?」
「まともに寝られんな、ここは」
「ごめん……でも、ありがとう」
アンはため息をついて立ち上がる。
真っ赤だった体は綺麗になっていて、近づくといい匂いがした。
彼女の手を借りながら階下に降りる。
最近は一人で降りることが多くなっていたが、この家の特徴を知らない。少しの油断でも怪我をするため、ティアは安全を選んだ。
一階は二階よりも広い。暖炉と各所のランタンの光が部屋を照らしている。
「おはようさん! 中々起きんかったから起こしに行こうか思っちょったところじゃあ」
椅子の陰から男が顔を出す。
彼の名前はたしかハンモック。とティアは思ったが、違うような気がして口元を手で覆う。
「ムッキー。私たちはここを出る」
「いやいやいや! オレの名はハンムックじゃし、話が早過ぎじゃ!」
「お前は信用出来ない。だから、ここを離れる」
「オレはそんな顔しちょるかぁ? 確かに悪者の要素はあるがのう。じゃがな、この顔の傷だって飯屋やってたときに事故で出来たもんじゃ」
「お前の生い立ちなんてどうでもいい」
アンの言葉は短い。
ハンムックは手振りで必死にこちらに制止をかけていたが、どこか滑稽だ。
自然とティアの口角が上がる。
「そうじゃ、お主は体の方はどうじゃ?」
「は、はい。大丈夫です」
ハンムックがしゃがみ込んでティアの体を見る。大きな頭が上下に細かく揺れながら動いている。
「ふむふむ、魔法が効いちょるようじゃのう。個人差あってな、効かんやつには全然効かんもんなんじゃ」
「魔法……? はい、どこも痛くないです。ハンムックさん、本当にありがとうございます」
「おお、そうかそうかぁ! いいことじゃあ。二人とも立ち話もなんじゃし、飯でもどうじゃ? さっき作ったばっかの出来立てじゃぞ?」
ハンムックが大きな口に食べ物を放り込むような動作を取る。
ティアの腹は背中とくっつきそうになっている。前回の食事からだいぶ時間を空けていた。自分としても何か食べたいところだ。
だが、アンはそうは言わないだろう。
態度からしてハンムックを警戒している。これと同じ流れを以前にも見た経験があった。
「毒を気にしちょるんじゃったら、安心せい。まずオレが毒味してな、次におんしらが食べりゃよか。それに、オレは神さまに誓ってそーんな意味のないことはせん!」
「逆に言えば、意味のあることならやる……という訳だな。毒でなければ、嘘にもならん」
「あー確かにそうとも言えるかものう。じゃが、オレは食事は大事なもんとおもて、ちょいとスパイスを効かせただけじゃて」
「ほらみろ、ティア行くぞ」
「待って、アン。確かに、いい匂いがすると思う」
食欲を誘う肉の匂いがいきなり鼻腔を突く。
なぜこれほどまでの香ばしさが先ほどまでなかったのか不思議なくらいだ。スパイスというのも嘘ではなく、貴重な塩や目鼻を刺激するが美味さを引き立てる何かがかけられている。
ハンムックの脇から、ティアはちらと覗き込む。
食卓の中心に大きな肉の塊が鎮座している。その周りには緑や赤の野菜が見事に飾られていた。
くんくん、と濃厚な匂いを嗅ぐ。
すると、背後から頭を鷲掴みにされる。
「バカが。お前は犬か」
「まあまあまあ、腹空いちょるんじゃったら仕方なか。それに、アンじゃったか」
「お前にそう呼ばれる筋合いはない」
「あいやすまん! しかし、森に出てどうするんじゃ。また襲われるんじゃなかか?」
「次は切り抜ける」
「根拠のない自信、という訳じゃないのう。レムレス相手に怪我もなくあんだけ倒せたんじゃ。お主一人じゃったら可能じゃろうのう」
「なんだと……?」
レムレス、聞いたことがない言葉だ。
眠りに落ちる前、使徒ともハンムックは言っていた。物語の中でその言葉を目にしたことがある。
彼は口元だけで笑みを浮かべている。
「知らんことばかりのようじゃのう。改めてじゃが、オレはハンムック。この深淵の森で番人のような役目を負っちょる使徒じゃ。そして、昨日現れた異形の獣たちはレムレス。魔力の扱いを得意とする魔物、といったとこじゃ」
「深淵の森? 今いる場所もそうなんですか?」
「そうじゃ。ここはレムレスがうようよおる上に、最近では霧のせいで凶暴化しちょる」
「霧……?」
濃霧ではあった。だが、ハンムックの口振りからしてそれ以外にも何か意味があるのだろう。
「お主ら、まさか霧を知らんのか? この森の外にも西方世界全体にかかっちょるんじゃが……」
「私もあれは初めて見た」
「うーむ、そんなことあるかのう。お主ら、東方辺りの生まれってことかのう?」
「生まれは……分かりません。ただ、住んでいた場所はエルダートと呼ばれている場所です」
ハンムックは顎の下に手を添える。
エルダート、その名前を知ったのも三年くらい前だ。
その時に、文字や言葉を覚えた。だが、地理まで覚える余裕はなかった。だから、どこにあると聞かれても上手く答えられない。
エルダート自体は山ばかりの地域だった。辺境の地であるからハンムックの頭に入ってないのかも知れない。
「そんな土地あったかのう……西方なら全て分かるんじゃが」
「お前が間抜けなだけなんだろう」
「面目ないのう。じゃが、それならお主らはどうして森におったんじゃ?」
「……気づいたら森の中でした。その数分前までは、エルダートの家にいたのに」
あの日は、家の外の様子を見ていた。
強い雨風が降っていて、その音で落ち着いて過ごしていられなかった。
そうしていたら、ぬかるんだ土と生い茂る木々、皮膚に冷たく触れる霧の中で立っていた。
ふと家族が気になった。今頃、自分たちを心配しているのかも知れない。
「もしかしたら、そいつは転移術かも知れんのう」
「転移術……? えっと、どういうことですか?」
「別の場所に移動出来る力じゃ。もっとも、普通に使われるようなもんじゃなか。そうじゃ、転移術なら次元を超えるものがあるとかって話を耳にしたことがある」
ハンムックが指を鳴らす。
ティアには馴染みのない言葉ばかりだ。理解するにも本来はもっと時が必要だ。
「つまり、おんしらは別の世界から来た者! ってことかも知れんのう!」
「別の世界……?」
「そうじゃ、オレでも聞いたことのない地名、霧やレムレスを知らん子どもたち、魔力もそうかのう! 他にも気になっちょる点があるが、そう結論付けられる気がするのう。あ、オレの知り合いにもそういうやつがおるんじゃ! それでな」
駆け抜けるような早口だ。ティアは目をぱちくりとさせる。
確かに、今まで魔法ともレムレスとも会った覚えがない。
しかし、別の世界とは何か。
この世界には、あの二人はいないということなのか。
無意識に呼吸が荒くなる。目頭が熱い。
アンを見る。目を細めながらであるが、黙って聞いていた。
「そ、それなら……どうやって家に帰れば……」
「転移術がこっちでも完成すれば出来るかものう。じゃが、いつ出来るようになるもんか」
「それまで私たちはどうすれば……」
「そこでじゃが、お主ら使徒になってみんか?」
「えっ?」
ハンムックが二人を交互に見る。
使徒。それが何かは分からなかった。
昨日のハンムックの力を思い出す。凄まじい力だった。
「無理にとは言わん。じゃが、いつ晴れるか分からん霧もある。こん世界で少しでも生きるんじゃったら力はあった方がよかよか」
話が前に前にと進んでいく。
だが、身体も心も追いつかない。そんな力など自分にはない。
「でも……私はこんなですから……」
「いや! お主ら、おそらくじゃが使徒の素質がある。それに使徒になれば、魔法の研究にも参加出来てその使用も許される。転移術が完成さえすれば、その家まであっちゅうまっちゅうことじゃ」
「素質……私がですか?」
「ああ、オレが言うんじゃあ。間違いなか」
頭に熱さが充満していく。素質がある。そんなこと誰にも言われたことがなかった。
強くなれる。ハンムックはそう言っているのか。
「ア、アンはどう、思う……?」
声が震えている。自分がどういう表情をしているか分からなかった。
アンは目を瞑って少し間を置いた。
彼女が話し始めるまで待つ。いつの間にか、頬が濡れていた。涙であった。
しばらくして、銀の瞳が見つめてくる。
「ムッキー。外は霧と言ったな」
「ハンムックじゃて! そうじゃ、西方中に霧が立ち込めていて都市なんかは混乱しちょる。凶暴化したレムレスが出ちょるからの」
「……なら、ティアが決めろ」
「え、私が……?」
「こいつの話が本当か嘘か、どちらにしても今は分からんことが多い。だから、情報を得るまでどう待つか、決めろ」
アンがこう言うことは滅多にない。
静かな眼をしている。眉の角度や皺のつき方などに変わった部分がない。
いつも強くて賢い彼女は、常にティアよりも先を進んでいる。それに着いていけば、絶対に安心だった。
故に、自分で判断した経験がティアにはなかった。
現実の時間が少しずつ流れていく。
答えが分からない。どんなものから認められるのか。
アンは急かさなかった。いや、何もしないままだ。ただティアの答えを待っているようだった。
ティアはハンムックに向き直る。心臓が弾け飛びそうなくらい高鳴っていた。
「家に……帰れるなら。でも、私、強くもなりたいんです。本当に、私は強くなれますか……?」
そう言った時、全身が脱力してふらりと視界が揺らめく。すると、腰に手を当てられた。小さな手だ。
「もちろんじゃ! 体も強うなるし、魔法も使えるようになる。お主がそう言うなら、オレは全力でお主が使徒になるよう尽くす!」
ハンムックがティアの手を取る。
両手が包み込まれ、見えなくなった。彼の手は厚く、熱を帯びている。
「名前なんじゃが、なんて呼べばよかか?」
「グレイティア・グレイス……です。グレイスと呼んでいただければ。アンは、アンリって言うんです。アンリならそこまで怒りません」
「調子に乗るな、ティア」
ティアは微笑んだ。
心が緩んだからか腹の音が鳴り始める。
「そうじゃ! 飯じゃ飯! 使徒になるんじゃったら大事なもんじゃ! 早う食えい! オレも腹減ったんじゃあ!」
ハンムックが勢いよく席に着いて、手招きする。
ティアはその真向かいに座る。空腹は限界に近かったが、そこまで気にならなくなっていた。強くなれる。そう期待しているからか。
アンも首を振りながらこちらへ来る。
家には当分帰れなさそうだ。だが、必ずまた会える。次に二人に会った時、違う意味でびっくりさせられたらいいな、とティアは思った。




