聖暦十八年、薄命の少女
転んだだけで胸や脚の骨が折れた。そうして動けなくなる度にそんな自分が嫌になった。
ティアは背負われていた。
彼女と同じくらい小柄な少女に体を預け、痛みに耐えている。ティアに構わず走っている少女はそんな彼女に一瞥もしない。
彼女たちは追われていた。
数分前、霧が立ち込め太陽の光が射し込まない未知の森を彷徨っていたところ、突如として獣に襲い掛かられた。
襲撃に驚いた拍子に木の根元に足をかけて転んだ。
ティアが怪我を負ったのもその時だ。
奇しくも、骨折の音と落ちていた枝を踏み潰した音は同じだった。
「アン……ごめんね」
ティアが消え入りそうな声で謝る。
痛みが全身を蝕む。ある程度痛みに慣れてはいるが、動けるような怪我ではなかった。
「謝るなら降りて走れ。今のお前に出来るのならば……な」
アンは振り向きもせずに言った。
アンの走りは、獣と同等かそれ以上だ。前方の状況は視認し辛く、速度を上げれば木や石にぶつかる可能性は大きい。また、土は霧によってぬかるみを作り、その上には木の葉が散っている。走るのに適しているとは言えなかったが、その悪環境をものともせず駆けている。
アンの体は強かった。
それが羨ましいと思ったことが何度もあった。ひどい目に遭ったとしても力があれば、何かしらの対応が出来る。
アンは何でも出来た。走ったり、跳んだり、岩を持ち上げたり。
自分は何も出来なかった。
歩けばすぐに息を切らし、運が悪ければ激痛や骨折だ。力仕事も、やれば必ず人に迷惑をかける。くしゃみや咳をして吐血も珍しくない。物心ついた時から、助けられなければ生きられない体だった。
背負われている間、考えに頭が囚われる。
ティアの吐息が、アンに何度もかかった。
「前か」
しばらく走ってからアンが言った。
前方の視界は変わらず悪い。だが、アンの口調ははっきりとしている。後方からは、獣の気配がまだ続いていた。
勢いのまま、アンは左足を地面に突き出す。
ぬかるんだ土を弾き飛ばしながら徐々に速度を落とす。ティアに衝撃を全くかけなかった。
アンは素早く向きを変え、また大きく踏み込む。
後方の獣の気配が多くなる。群れでの狩りだろうか。アンが何度か切り返しても追い続けて来ている。
アンの息遣いは少しも変わっていない。
一方で、走りが速くなっていた。頬に当たる空気がそれに合わせて冷たさを増す。振り落とされないようにと、わずかにだがアンの背に頬を近づけた。
不意に、体がふわりとした。
アンが跳んだ。
落差のある地形に飛び降り、着地と同時に地を蹴って更に加速、跳ねた泥が体につかずに置き去りにする。
その次には、壁に近い勾配の坂が立ち塞がるも、坂に生えた木を片手で掴みよじ上る。速度を保ったまま、木を足場にして跳び上がりもした。
それを繰り返して坂の上にまで達する。
獣の気配が少し遠のいた。
しかし、またどこからか現れるかも知れない。走り始めてからそれが何度か続いている。
ここでティアは、辺りの霧に注意を向けた。
すると、白濁した景色の中に赤い光を見つける。
だが、その光はすぐに消えた。
一瞬のことで、それが何かは全く分からない。激痛がもたらした錯覚の可能性もある。しかし、ティアは嫌な予感があった。
「アン、今の」
何かいた、と言葉を続けようとした。
その時何かが、真横の木々の間から現れる。
アンが腕を振るう。
下から突き上げて、拳をめり込ませる。何かが喉奥から絞ったような甲高く鳴き声をあげると、周囲の気配が一挙に増えた。
次々と動物たちが姿を現す。
兎やリスといった小動物が多く、その他にも森に住んでいる様々な者たちがいた。彼らは周囲に散らばっていく。
ティアたちの方にも向かってきている。その大移動によって、アンの速度が落ちた。彼らを蹴散らして進めば、この流れの中でもアンは大丈夫だろう。しかし、彼女はそれを行わなかった。
打ち倒したものを置き去りにして、別の方向へ向かい始める。
風が吹き込んでいた。
森の出口があるのかも知れない。そうでなくても空間があれば、地形を利用した待ち伏せに注意する必要がなくなる。
光が少しずつ広がっていく。ずっと闇が続いていたからかわずかな光でも目への刺激が強い。
ティアが目を慣らすよりも先に、新たな空間に到達した。
アンが足を止める。
ティアは彼女の肩から少しだけ顔を覗かせる。
視界には霧と黒い影が広がっている。一方で、あれだけあった木々の姿がない。
「動物は分かっていたんだろうな」
アンが言う。よく見てみると、大きな穴が空いている。空から光を当てられていても底が見えないほどに高さがある。対岸は霧によって確かめられない。
ここだけ森ではなくなっていた。
獣の気配が辺りに充満し始める。
アンが振り返った。短い黒髪が風で靡く。
ティアの嗅覚が独特な臭いを捉える。泥の中でまぜこぜになって熟成された腐臭、それが強くなってくる。
姿を現した獣は、異形の生物だ。
黒色の体毛をしていて毛の一本一本が植物の蔓のように太く長い。それが全身を覆っていて、ゆらゆらと別の生き物のように動いている。四足歩行の生き物であること、頭頂部には鋭く尖った角が生えていることなど目立った特徴しか捉えられない。
先ほどの赤い光。それは、怪物の体毛から覗かせている眼であった。
更に奥から数十体現れる。
半円状に囲いを作りながら距離を詰めて来た。
一体の獣が目に留まる。
口に当たりそうな部分が濡れていた。牙が剥き出しになっており、先端から液体を滴らせている。口回りや足元を濡らすそれは、唾のようだ。
その獣に、アンが手招きをする。
「また痛い目に遭いたいみたいだ……な。次は一撃で決めてやる」
言葉が通じるか分からない。だが、一連の動作を見て獣は低く唸り声を出し始める。
アンが使える腕は片方だけ。もう一方の腕はティアを抱えるために使っている。
牙を剥いた獣が飛びかかってきた。
口を開き、その鋭い凶器をアンに向ける。
アンはすでに腕を下から突き上げていた。先ほどと全く同じ動作だ。だが、風切り音がずっと鋭い。
拳が獣の胴体にめり込む。
弾けたような衝撃と共に獣の体が内向きに折れ曲がる。その背からは赤く染まった拳が飛び出て、辺りに霧とは違う飛沫を撒き散らす。
「ティア、つかまっとけ」
アンの腕が膨らみ、硬くなった。
ティアも腕に力を入れる。
刺されたような激痛で声を上げそうになるが奥歯を噛み締めて止めた。
数体が一斉に飛びかかって来る。
アンが拳を引き抜き、穴の空いた獣の体毛を掴んで肉体を振る。向かってきた数体の目の辺りに血液が飛ばされ、動きが鈍る。振り終わりに両側面からの奇襲。手首を翻し獣の肉体を鞭のようにして切り返す。今度は、獣同士がぶつかり合って最も近くにいた獣が鈍い音と共に倒れた。使っていた獣の下半身は激しくひしゃげた。
獣が雄叫びをあげる。
後続が次々と現れる。動かないものがないと思えるほどの数だ。
だが、二人は群れの中に飛び込んだ。
拳の一撃で倒された個体が、一体二体と増えていく。折り重なった獣の体が小さな山を作り出す。獣の肉体も完全に壊れるまで利用された。力のあまり体毛が全て抜けてずる剥けになった獣もいる。激しい戦いの中、獣の血肉によって二人の体は赤に染められていった。
しかし、豪雨の如き勢いが途絶えない。それどころか数は増すばかりだ。
「なんだと」
戦いの中、アンが一度囲いから抜け、森の外の崖を背にする。ティアは必死に痛みに堪えながら荒く呼吸をした。
倒したはずの獣が何体も立ち上がってきている。頭部を潰したはずの個体も、四足で立ち上がり目を光らせた。
「……傷の治りが早いってところ……か。ただの動物ではないな」
「……アン」
「喋るな。血がかかる」
「……おいていって」
声を出せたか分からなかった。一言喋るだけでも胸や喉が痛んだ。腕には感覚がなく、完全にアンに支えられる形になっている。
もう死ぬのなら、せめてアンを楽にさせたかった。一人だけなら脱出できる。もっと強く動けるはずだ。
ティアの視界が揺らぐ。頬に熱いものが流れる。
家族にまた会いたかった。その念が瞼の裏で反響する。
「何も変わらん。何も……な」
薄く開かれた瞼の下に銀色の眼が見える。太陽のような月明かりのような美しい瞳。赤の中にあってもその輝きは強くあった。
アンが構え直す。
同じことの繰り返しをあと何度堪えられるだろうか。
その時、混濁した意識の中で何かを嗅いだ。
「こんな場所で煙……火か?」
森の方から霧とは違う色が立ち上っている。
臭いがますます濃くなる。思わず咳き込んでしまう。えぐみからして燃えているものは木だけではない。
鳴き声が聞こえてきた。
連鎖する形で獣たちの動きが忙しなくなり、右往左往とする。
異音が近づいてくる。
風を突き抜けるような音と、石壁と激突したような大きな衝撃音、続く形で赤く揺れるものが見え始めた。
一体の獣が、吹き飛んでくる。
アンの足元に転がったそれの全身からは燃えたぎる炎が上がっている。獣はすでに絶命していて、黒い体毛は次第に黒っぽい粒となっていった。
「火炎魔法」
誰かの声。
その一声と共に前方にいた獣の群れから火が噴き出す。甲高く鳴き声を上げ転げ回る獣たちであったが、火が消えることはなかった。中には、崖に真っ逆さまに落ちていく個体もいる。一体が落ちると何体もその後に続く。
場が明らかに混乱している。それは今のティアでも分かった。
二人の前から何もいなくなる。
すると、一つの足音が近づいてきた。
姿を現した者は、人間だ。
顔には大きな傷がある。日焼けをしているためか褐色の肌をしている。その口元にはいっぱいの髭を蓄えていて、物語に出てくるような森の番人を想起させる。巨体で、二人の小さな頭よりも大きな斧を持っていた。
その男は、辺りをキョロキョロと見渡すと、ゆっくりと二人に近づいてくる。
アンは構えを解かない。ティアも、アンの背にもたれかけていた。
「こんなところに人とは珍しいのう」
男の声は思ったよりも高い。指で傷の部分を掻きながらまだ首を振っている。
「森が騒いじょったんは、おんしらのせいってとこか。連中に逆らう動物たちは、この森におらんからな。じゃが、そうなると気になるんはおんしらじゃな」
「何者だ」
アンが男の動きを制する。
男は慌てたように、斧を持っていた手を隠す。
「わ、悪かった。そうじゃな、オレが何者かなんておんしらには分からんもんよな。オレの名は、ハンムック。この深淵の森を監視している使徒じゃあ」
「使徒……」
「あー……まあまあまあ、それはよか。オレのことはまた後で話しちょっても構わんじゃろ。お主らを助けにきた者ってことに今はしちょいてくれぃ」
ハンムックが口角を上げて微笑む。その笑顔は、何とも言えないものだった。
ティアが咳き込み、再び血を吐いた。
煙の臭いはまだ続いている。浅く呼吸をしても煙を吸う量は変わっていない。
「あーあー! そんな説明はいいんじゃあ! そん子大丈夫かぁ!」
「大丈夫だ。お前が気にすることじゃない」
「いやいやいや、どう見ても重傷じゃあ。全身真っ赤じゃし、顔も真っ青じゃあ。ってなんか違和感ある言い方じゃのう」
「どけ。私たちは森を出る」
アンがハンムックの横を抜けようとする。
横切った時、草と土の臭いがした。ハンムックからだ。不思議と、火も獣の臭いもなかった。
「いやいやいやーまてまてまてーい! 使徒としてお前さんらみたいなちいちゃな子を見捨てられる訳ないじゃないかぁ。オレに介抱させてくれぃ。簡単な傷じゃったら何とか」
「必要ない」
「冷たいのう。そこをなんとか」
「いらん」
ハンムックの声は大きかった。二人のやり取りは真反対の性格を表している。人間と会話をしている、そう感じていると力を入れなくてもいい、と思ってきた。
会話が遠い。眠りそうだ。
あまり眠りたくなかった。だが、いつの間にか夢が彼女を包んでいた。




