貴公子 前編
ため息を聞いた回数がおそらく二桁に達した。
今夜はノトゥに教わっている。エンリカはペルラとベルの二人が相手だ。
この部屋は女性部屋という扱いだが、ノトゥはかなり許されている。そもそも、この部屋に引き込んで勉強会に参加させたのはエンリカだ。部屋のリーダーがいいと言うならば、誰も異議を唱えようとはしなかった。
ティアも彼を認めてはいる。気遣いを忘れない優しい人物だ。自身のないところが自分と似ているためか親近感が湧いてもいる。
しかし、今日は顔色が優れない。眉の角度もずっと下だ。
「……ノトゥさん、どうしたんですか?」
「……ん? ああ! ごめん、ちょっと考え事を……」
「何かお役に立てそうなことがあれば。いつもお世話になっていますし」
「う、うん。そうだな……グレイスには伝えた方がいいかな」
ノトゥがエンリカたちの方を見る。三人は問答の最中だ。
その隙をついて、ティアとノトゥの間隔がなくなる。彼の髪は無臭に近い。
「実は……明日、ロマーノとクロヴィス家の者たちが来るんだ……」
「ロマーノとクロヴィス……? たしかそれって……」
シーザー・ロマーノとシャール・クロヴィス。ティアが警戒している三人の内の二人だ。初日以降、修練場に顔を出したことはなかった。
「き、貴族たちだ。一月に一回は、見にくることになったらしい。……グレイス、彼らがいても大丈夫?」
「な、なんとか……」
ティアは喉奥を締める。
悪意を向けられていた。今でも時々思い出される。また対面すれば、どうなるかは分からない。
もし何かあっても、今ならば対応はできるかも知れない。これでも日々の修練を積み重ねている。アンや他の仲間たちに頼ることは避けたいところだ。
「何かあったら皆に頼るんだよ」
「は、はい。すみません」
「……ボクが言えたことじゃないか。ごめん……」
ノトゥが自身の頭を掻く。語り終えても、調子は低いままだった。
翌日、エンリカとベルの大声で起床すると、二段ベッドの上段に梯子で登る。
上にはアンが横になっている。昨夜も勉強会に参加しろ、と言うエンリカの言葉に一切耳を貸さずに眠りについていた。
「……にわとり」
「あはは……おはよう、アン」
一か月、同じような起こされ方をされて、アンは毎朝不機嫌だ。
アンはあまり馴染めていないように見える。元々口数は少なく、他人とは話さない。修練においても自分の調子を保っていて、グレゴリーやエンリカからはさぼっていると指摘されている。しかし、使徒も候補者もアンを無視することはせず、積極的に交流をしてくれている。そういった個性だから、と認識しているのかも知れない。
「……何かいるな」
「いる?」
部屋の前にある窓の外を、アンが指差す。
多くの人がいる。着ている衣装は煌びやかで、思わず身構えそうになる。
「ノトゥさんが言ってたよ。お偉いさ……じゃなくて貴族の人が来るって」
「あの連中か。ティア、魔力を纏うっていうのはできてるのか?」
「まだ……かな」
「なら、にわとりの後ろにでもついとけ」
「アンリさん、聞こえてますわよ! ……ですが、アンリさんの言う通りですわ」
エンリカが背後からぬっと現れる。窓の外を見て、腕を組んだ。
「ノトゥさんが隠していたのはこれでしたのね。全員、要注意です。淑やかさを忘れぬように」
「使徒や傘?」
「それ、今日の朝ごはん?」
「……い、行きますわよ」
全員が集合してから向かう。少し遅れて、男性陣も修練場の中庭に集まって来る。
今まで不参加だった三人はすでに並んでいる。
ティアの前には、エンリカがいる。三人側の側面をノトゥやマグナスが固めている形だ。
「やあ、フランツ。少し痩せたんじゃないかい?」
ピンクの髪の中性的な顔をした少年がエンリカに話しかける。
彼がシーザー・ロマーノだ。
「お久しぶりですわ、ロマーノさん。もう少し体を引き締めたいと思っていますわ」
「修練も大事だけど、もっといいものを食べなくちゃ。今度、ご馳走しようか?」
その顔には笑みが張り付いている。いや、両の口角がこれ以上ないくらい上がっている。彼の隣にいる金髪の女性、シャール・クロヴィスがくすくすと笑っている。
「ご配慮のほど感謝致しますわ。でしたら、他の方もご招待いただければ。フランツだけが抜け駆けのような行為をすることは示しがつきませんから」
エンリカは微笑んでいた。所作は丁寧で嫌味な感じはない。
だが、言葉の調子が普段より硬質だ。
シーザーの目が薄くなる。
「それは考えておこうかな。お、テラウスが来たみたいだね」
グレゴリーたちが前に立つ。
三人が同時に立つのは初日以来か。週末以外は身体修練と魔力修練が日替わりとなっている。空いた時間は、何かしら使徒としての使命があるという。
「本日は、主に身体の修練だが、予定を少し変える。模擬戦をこれより行う」
候補者たちがざわめく。ニルやエドワルドは露骨に喜んでいた。
「シーザー・ロマーノ、ノトゥ・ウィンラント、まずは両名に行ってもらう。他の者はよく見ておくように」
「……はい」
シーザーとノトゥが列を出る。中庭の中心に向かっていく。
模擬戦など今までやったことはなかった。それどころか対人を意識したものもまだない。決闘以後、修練では基礎体力作りが続けられている。夜に、主に男性陣が打ち合っている様子を見たことがあったが。
「……あれは、何をする気なんだ?」
マグナスが小声でエンリカに問う。
「分かりませんわ……貴族の余興……いや、まさか……」
エンリカが眉根を寄せる。
両者が手渡された棒を構える。ノトゥの姿勢が前方に傾いている。対して、シーザーは棒を片手で持っているだけ、といった印象だ。
「始め!」
グレゴリーの合図で、ノトゥが飛び出す。
掛け声と共にシーザーに打ち込まれる。
しかし、その一撃は空を切った。シーザーが横に半歩ずれている。
「ぐわっ!」
ノトゥの死角となった位置から棒が振り下ろされ、頭を捉えられる。鈍い音が発された。
ノトゥが倒れ込む。すぐに、追撃とばかりに蹴りが飛ばされる。
「ノトゥさん!」
ティアの叫び。彼は胴体を蹴り抜かれて、ふわりと浮き上がった。
数メートル後方に飛ばされた後、地面を何度も転がった。受け身を取っているようだが、相当な衝撃を受けている。
軽く脚を振り抜いたように見えていた。だが、威力が釣り合っていない。あの動きでは、小石を弾く程度だ。
アンのように力が強いのか。いや、それならばやはり十分な予備動作が必要だ。では、あれは何か特殊な力が働いているのか。
ノトゥが立ち上がる。再び棒を構え直し、じりじりと距離を詰めた。
「火炎魔法」
「……火炎魔法!」
シーザーが詠唱し、一拍遅れてノトゥが声を出す。
両者の手に小さな火球が現れる。だが、まだ距離がある。あれは近距離でなければ使えない。
しかし、ティアの推察に反し、両者は同時に火球を投げつけた。
互いに攻撃を弾き飛ばす。それから、距離を保ったまま円を描くように周り始める。
「火炎魔法」
更なる魔法の応酬。際限のないくらい撃ち合っている。外れた火球は、地面に接すると小さく炎たてて消えていった。
均衡が崩れたのは、ノトゥの体に命中してからだ。
「う、水竜魔法」
全身に燃え広がろうとする炎に対し、ノトゥは水を浴びせる。
水竜魔法は、水を利用する魔法で水を生み出す力はない。彼自身は水を持っていなかった。そのため、グレゴリーの側にあった水場から水を引っ張り出す。
だが、それは確実な隙となった。
シーザーは踏み込むと同時に、ノトゥの体に数発の棒を浴びせる。
「ぐわっ! ま、まだ……!」
打ち込まれ続ける中で、次第に棒を弾き始める。
だが、その瞬間シーザーの手がノトゥの鳩尾を押し出す。
辺りに響き渡るほどの衝撃音、ノトゥは再び後方に転がっていった。土煙に彼の体が包まれる。
「さすが、シーザー様だ」
静寂が広がる中、シーザーの支持者たちが声を上げる。
「ウィンラントもこの程度か」
「いや、シーザー様がお強いのだ」
「だが、ウィンラントはすでに一月修練をしているはずだぞ?」
「大した計画ではないのだろう」
会話が聞こえる。
瞼が熱くなる。かつて、ティアはこのようなやり取りを言われる側だった。そう思うと、自分とノトゥの姿が重なる。
だが、彼は自分よりもずっと強い。身体能力もそうだが、魔法は応用した形で使っている。立ち回りも無策ではなく、考えられていたように見えた。
土煙が晴れる。ノトゥは仰向けに倒れている。
シーザーが高笑いする。
「はは! この程度か! そうだ、所詮は一介の使徒の子息。しかも、落ちこぼれだ」
彼の取り巻きも連鎖するように笑い出す。
シーザーがティアたちに向き直る。
人のものでない表情だ。感情があるようでその奥を探り切れない。笑い声は狂気に満ち、不快さが全身を駆け巡る。
「もういいよ、テラウス。この程度の者しかお前たちは育てられない。父上にもそのように伝わるだろう」
グレゴリーがようやく制止の合図を出す。
「待て、僕とニルが行く」
前のめりになる全員に対して、マグナスが声をかける。
瞬時に二つの影がノトゥに駆け寄る。
「ノトゥさん……」
抱き起こされた彼は気を失っている。
魔力の枯渇、あるいは遮断によってその症状が引き起こされる。戦いから見て、起こった現象は両方だ。
運ばれた、彼の腹から血液が噴き出している。他にも大小様々な傷を負っている。
寝かされたノトゥにヨハンナが近付く。
「ひどい傷だ」
「大丈夫です。致命的ではありません。共有魔法」
ヨハンナは翳した手を彼の腹に当てる。ノトゥの上体が大きく動くも、次第に落ち着く。
シーザーたちはすでにこちらを見ていなかった。談笑に興じているのか、周囲の空気は活気に満ちている。
「おう、やってやるか」
ニルが青筋を立てている。しかし、エンリカの手が彼の脚を掴んだ。
「止めなさい。返り討ちに遭いますわよ」
「んだと……!」
「彼らには護衛がいますわ。それだけではなく、貴族という背景は報復に対する報復として大きな戦力を持ってもいますわ」
「全員ぶちのめせばいいだけじゃねえか……! 離しやがれ!」
ニルが尚も前に進もうとする。しかし、エンリカは彼の一歩を踏み出させなかった。
「ワタクシを振り払えないようでは、使徒に勝てません。今は気を鎮めるのです」
「畜生、邪魔ばかりしやがって!」
「……奴ら、大したことはない……ぞ」
アンが中庭の中央に進んでいた。
ゆったりとした足取りで、誰でも彼女に追いつくことができた。
「アンリ……! うっ……!」
マグナスが止めようとするが、腕の一振りで一回転する。着地し、再度試みるも変わらなかった。
アンが中央に達する。足元には先ほど使われた棒が二本ある。片方は削れ、わずかに小さくなっている。もう片方は綺麗なままだ。
アンが拾い上げたのは後者だ。その場で数度棒を振る。空気を裂く音が、中庭に響き渡る。
「……おい、お前ら。大したことはなさそうだ……ぞ」
「あ?」
こちらも瞬く間に内側にいる者たちに伝播する。
アンは、シーザーたちに一瞥もしていない。彼らが跳んで来るのに一秒もかからなかった。
シーザーの取り巻き達がアンを取り囲む。
「お前たちが、ってことだろ?」
手で制しながらシーザーが問いかける。彼の顔にはまだニヤつきがあった。
「ああ。お前たちだな」
アンがシーザーに振り返る。彼にだけ視線を合わせる。
その瞬間、ほとんど全員な空気が変わる。明らかな怒気と敵意が充満していく。
「あ? 女、舐めてるのか?」
「舐める? お前らのような着飾っただけの人で無しに敬意が必要なの……か?」
「貴様……!」
「待ちなさい!」
戦いの寸前、シャール・クロヴィスが声を発する。
「その者、先月にクロヴィス家に楯突いた者。報復なら」
「いや待て、シャール。ここではよくない」
「でも!」
シーザーが彼女の動きも止めた。
鮮やかな赤紫の瞳が周囲を見渡す。彼の合図があるまで戦場は何も動かなかった。
「模擬戦だ。そうだろう、テラウス」
「そうだ。この場合では、一対一のみ認められるだろう。何せ、相手は使徒ではない」
「部下を出す。ロマーノとクロヴィスが侮辱された。ならば、それが丁度いいだろう?」
「いいだろう。アンリ! それでいいか!」
グレゴリーの声。彼女がそれに答えることはなかった。
だが、立ち位置を変えた。
模擬戦前、ノトゥがいた場所だ。
アンが何を考えているか全ては分からない。ただ、彼女は暴風を纏っている。
理不尽を破壊しようとしていた。




