アンだけの夜
ティアの姿が二階から消えて十数分経っている。
アンは走りながら彼女の気配を探した。一点だけ大きな声が頻繁に上がっている箇所がある。時間的に夕食か、あるいは風呂か。
重りを衣服に付けながら一定の速度を常に保っている。何も不都合は起きない。褐色の毛を持つグレゴリーから何度か叱責されたが無視をしている。
「はぁ……はぁ……」
前方に、足元の定まらないエドワルドがいる。
アンは一瞥もせずに追い抜く。この中では最も運動能力が低い。
数周するとグレゴリーの指示で重りを足される。一つで子どもくらいだ。だが、八個付けていても全く苦ではない。
本気を出している者もさすがに速度が落ちている。ニルはまだ肉体をぶらさずに走れているが、マグナスの上体は揺れつつある。あと何周あるかも分からないのだ。好調のままでは逆に自分を追い詰める。
背後で土が舞う。
ペルラがアンの真横を抜ける。汗をかいているが、息が乱れていない。
この中では、間違いなく身体能力が高い。少女であるため、力はニルやマグナスには劣っているが、瞬間の力で歴然たる差がある。
重りを足されても、体幹と体の伸縮で器用に走っている。天才なのは間違いない、だが際限のない努力に培われたものでもあるだろう。
それからしばらく走った。早々にエドワルドは地に転がり、マグナスは石像のように立ち尽くした。
ニルの大きな背中が見える。その横にグレゴリーが近づく。
「もう走れんか」
「ま……まだ……」
ニルも走れなくなっている。ペルラが息を荒げながら巨体を通り過ぎる。その風だけがまだ気持ちいい。
グレゴリーがニルに重りを足す。ニルが鼻息を吹かすも、吸い直せていない。
ニルの左腕がダラリと垂れ下がっている。ペルラに打たれた部分だ。紫色に変色し、軽傷でないことを示している。
追い越す。体が少し温まってきた。踏み込むと足が土に埋まる。走り辛くはあるが、無理やり蹴り上げて進む。
グレゴリーにかけてやろうとしたが、さすがに避けられた。叱責はされるが、何かしてくることはない。
ニルが膝をつく。顔面を真っ赤にするが、下半身がびくともしない。
「よし、そこまでだ!」
中庭に響き渡る。ペルラは脚を止めず、呼吸を落ち着かせていく。
グレゴリーが手を振ると、重しが全て外される。地に落ちたことでその場に大きな穴が数個作られた。
「お前たちの好きなものをやってやろう。立て!」
棒を投げ渡してくる。
石のような塊にも見える。案の定、受け取った者の大半が体勢を崩した。
腕組みをしながらグレゴリーが方々を睨みつける。最後にエドワルドが立ち上がると、褐色の毛を逆立たせた。
「俺に打ち込んでみろ」
「……しからば、僕から」
マグナスが一歩前に出る。正中に棒を構え、深く息をつく。だが、上体が定まっていなかった。
唸るような雄叫びを上げ、突進する。棒を振り下げたと同時、頭の位置が地面に近くなる。衝突の直前に体を丸めて転がり、立て直す。しかし、マグナスの焦点は定まっていなかった。
勢いを殺さぬまま投げられていた。高度な技術を持つ武芸者の動きだ。
マグナスの首が跳ね上がる。死角からの突き上げ。いや、目の前まで迫られたことにすら気づいていないくらい反応できていない。
「次! ニル!」
すでに背後から奇襲を仕掛けていた。
頭部への薙ぎ払い。だが、虚しく空を切る。重さの分、ニルの体勢がぶれる。グレゴリーは上体をそらし、その動きを追っていた。
蹴りが放たれる。回避の反動を利用した攻防一体の動作に備えのないニルはまともに受ける。巨体がゴロゴロと地面を転がり、泥で全身が黒く染まる。
まるで大人と赤子だ。両名とも身体能力が評価されるだけあって卓越したものを持つ。だが、グレゴリーに意識させていない。淡々と適切な動作を取っているだけだ。
エドワルドが打ちかかっていた。棒の軌道はいいが、両手に掌底を放たれる。棒が宙に浮き、連鎖する肘鉄で本人も吹き飛ばされた。
「こんなものか! お前たちの力は!」
何度か男たちは立ち向かう。だが、攻めのことごとくを打ち払われる。
目立った怪我はないが、倒されるほど動作が鈍っていった。
「ペルラ、アンリ! お前たちも来い!」
「わかった」
蒼い眼が光を放ち始める。中庭は灯りによって全体的には昼間と変わらない。だが、陰となる部分は一層闇を濃くしていた。
ペルラは棒を低く構える。地面と水平だ。色が異なるとはいえ、陰の中にあれば風景とある程度同化する。現象を利用しているのか。
両者の間がじりじりと詰まる。ペルラの足取りは軽い。上体を一切ぶれずに起点をずらしている。
跳んだ。影が重なる。交錯し、位置が入れ替わる。互いに傷はない。
グレゴリーが飛びかかる。ゼロ距離で無数の手が出される。だが、ペルラはその銀髪すらも掴ませない。下方から風が吹く。高い音を発しながら振り抜かれるもすでにグレゴリーは彼女の手首を掴んでいる。
捻り上げ、投げにかかる。同時、ペルラの体がグレゴリーの頭上に浮かぶ。更に渦のように回転している。
「やるな」
勢いによってグレゴリーの手から離れる。回りながら着地し、その軌跡が地面に刻まれる。手に得物はないが、ペルラは再び軽快な足取りを見せる。
グレゴリーはその場で待つ。足元の棒を見る目があった。頭の中ではその情報を計算に入れた上で、待ち構えているはずだ。全力どころか力のほとんどを出していない。傲慢、強者が持つ隙を窺うならそれだが、あの鋭く光る目を掻い潜るのは難しい。
だが、隙を増やせるならば確率は上がるだろう。
グレゴリーの背後から影が伸びてくる。
乱れた金髪の少年、エドワルドだ。
「かくごー! へぶっ!」
再び肘鉄の音が鈍く響く。だが、その背後からもう一体が飛び出す。マグナスだ。
音のない振り下ろし。後頭部からの奇襲だ、死角をついている。
「甘い!」
振り返り、マグナスの胸を掴む。
だが、その時にはペルラは動いていた。足から滑り込み、棒を拾いにかかる。
「うおりゃあ!」
グレゴリーの雄叫び、振り返りざま掴んだマグナスをペルラに投げつける。
正面衝突、まともに受けると思った瞬間、大きな影が間に入った。
「させるかよぉ!」
ニルとマグナスが重なり合う。ゴロゴロと転がっていったが、ペルラは姿勢を低くして回避した。
褐色の眼が無防備なペルラを捉えている。拳を握り、振り下ろさんとしている。
だが、鉄塊に先んじて地面を滑るものがあった。
「受け取れ!」
エドワルドが棒を投げていた。ペルラのものだ。混戦であれば、確かに思わぬところで起点が生まれる。
グレゴリーの腕に棒が振られる。拳がわずかにズレる。
間隙を縫うように避けたペルラは、打ち込みにより勢いを加速させると大柄な股の間をそのまま潜り抜ける。
「なにっ」
反応が一拍遅れている。振り返って手を出すが、その目は明らかにペルラだけを追っていた。
初めてアンが動いた。
跳躍し、次の反応の前にグレゴリーの背に迫る。
棒を振り抜く。風切りよりも速く感触を得る。
だが、当たった箇所から粉々に砕けた。やはり、肉体の作りが人間とは異なっている。鋼鉄と遜色ない。
再び距離を取る。ペルラも同様に動いている。
「はっはっは! よくやるもんだ」
グレゴリーが高く笑う。構えを解くと、手を叩きながら方々に視線を向ける。
「今夜はここまでとする。全員、体を休めることだ」
「いいのか」
グレゴリーが手を高くする。渡されたものが集められていく。粒さえも地面から浮き上がっている。
ペルラがエドワルドを引き上げる。泥まみれだったが、満足気な笑い声を辺りに発していた。
「戦術が見事にはまったようだな! 諸君、よくやってくれた!」
「本当に皆がよく動いてくれた。僕からも礼をさせて欲しい」
マグナスたちが歩いてくる。肩を貸されているからかニルが不服そうな顔をしている。
「連携、意表の突き方、個々の身体能力といずれも悪くない。しかし、即席ながらよくやったもんだ」
「やり取りをしたのは僕と彼だけです、グレゴリーさま。一瞬の間が重要、そう判断しました」
「教官と呼べ。マグナス、俺たちの戦いはそういうものだ。これからビシバシと修練をつけてやるぞ」
男たちの距離が近くなる。懲罰も修練を兼ねていた。グレゴリーは繋がりにこだわりがあるのかも知れない。
アンが踵を返す。
「アンリ! 実に良い動きだった」
グレゴリーの声が追いかけて来る。だが、一度も振り返ることはなかった。
屋内に戻る。薄暗い。外の明かりがなければ、ほとんどが暗闇だ。夜半のため人の気配も少ない。
風呂に向かう。この修練場は四角になっており、角の辺りに目的地がある。
さっさと服を脱ぎ、風呂の湯を体にかける。数度、行ってある程度汚れを落としてから湯に浸かる。
肩まで沈む。熱が全身を刺激する。肉体のアクが押し出されるようだ。
深く呼吸をする。
鼻の周りに独特の刺激臭が漂う。天然の温泉だ。水滴を舐めると酸味が舌の上で広がる。
脱力と共に心地よさがが増す。
昨日も騒動にて付着した血や汗などを洗い流すために利用した。
渦中にいた両陣営に手傷を負わせ、離脱する頃には体に他人の血で塗れていた。使徒と名乗っていたが、先ほどのグレゴリーと比べるとあらゆる面で劣っている。振り切るのも難しくはなかった。
ティアに攻撃を仕掛けた三人組の一人もその中にいた。シャールと呼ばれている醜悪な表情の少女だ。その者から間違いなく恨みを買っている。今夜は不在であったが、気は抜けない。
湯を掴もうとする。だが、指の隙間からこぼれ落ちる。
情報が足りない。まだ、流れに従うべきだ。
誰か入って来る。
裸体のペルラだ。細身だが、無駄のないしなやかな筋肉をしている。
「やあ」
声をかけられたが、アンは反応しなかった。
湯を浴びずにペルラがざぶんと入る。アンの顔にぴちゃと水滴がかかる。
そして、十秒もせずに立ち上がる。
「よし、これでいいか」
「……何しに来たんだ」
背を向けて立ち去ろうとする銀髪に、アンの口は開けられた。
「風呂に入れ、ってエンリカが」
「……それを入るとは言わないと思う……ぞ」
「そうなのか。もう少しいた方がいい?」
「構わんが、ゆっくり入れ。水飛沫を上げるな」
「わかった」
頷いてから、今度は足先からペルラが入る。
入れ替わるようにアンが立ち上がり、その場を後にする。長湯はまたの機会と、心に決める。
衣服を着用して、階上に上がっていく。
部屋は男女で分けられているという話だ。つまり、女子部屋なら自分含めても七人が叩き込まれる。
「……というか、先に部屋に戻ったのか」
男たちのように真っ黒になってはいなかった。それでも一日以上の汗や汚れは溜まっている。何より風呂を先にすることは当然と言える。
非常識さならペルラが頭一つ抜けている。
検査では、手を抜いたアンだったが、二つの想定外があった。それは、ペルラとベルだ。かなり低く調整したはずだが、遥か下方に二人がいた。
使徒になるには才覚が必要なのは分かる。だが、ハンムックの狙いは不明だ。少なくとも、ティアの肉体は半年の生活でも改善していない。あれほどに生きるに適していない者をどう利用するつもりなのか。
そういった個性を欲しているのか。落第以下の成績の者がいるのもそのような理由か。
ティアが中庭を覗いていた窓が見える。今は、この先の部屋に気配がある。
窓の外に尖塔の影が見える。中庭はようやく光を薄くしていた。
聖都と呼称されているが、ここも含めてこの世界は混沌としている。。故に見極めなくてはならない。
使徒になるつもりはない。だが、ティアがその気になっている。目的と半ば一致している以上、これからも形だけは必要だろう。
アンは部屋の前まで来た。頭を整理するためにも睡眠は必要だ。
しかし、扉を開ける手を止める。凄まじく面倒な気配が中からする。
薄く開くと、その音の一部が聞こえてくる。
「ふむふむ……つまり、魔力とはバランスが大事ということなんですね」
「そうですわ。一点を特化する前に基礎をしっかりと固めておけば、あらゆる魔法を効果的に活用できるようになりますわ。運動や勉強とその辺りは変わりませんわ。……ベルさん、聞いておりませんわね??」
「ぐがーぐがー」
「べ、ベル。起きないと、また怒られるって」
「ノトゥさん! おどきなさい。ベルさーん、おきなさーい」
エンリカが机に伏しているベルの頬をつねる。しかし、ベルはびくともしない。
四人が机の方に向かっている。夜も更けているのに、誰も寝るために横になっていなかった。
そして、あの様子からしてアンは部屋に入りたくなかった。
階下から気配が近づいてくる。すぐにペルラの濡れた頭が現れる。
「ん? ありがと」
ほんのわずかに開いていた扉を大きく開けて、ペルラが中に入っていく。
彼女は四人に声をかけつつ、そのままベッドの方へ向かう。二段ベッドで上段はそこそこ天井に近い。
「おやすみ」
その一声と同時にペルラは横になった。それに対し、色白系のエンリカの肌がみるみるうちに紅潮していく。
「ペルラさん! 貴女も勉強をしなければなりませんわ!」
「いたいいたい」
エンリカがペルラの顔を左右からつねりだす。
もし、同じようにあの場に踏み込めば自分もああされている。成績は共有されているのだ。エンリカが優等生というなら見過ごすはずがない。
扉をそっと閉める。
アンは部屋の前で座り込んだ。
今日の寝床はここか。最悪の寝心地だ。




