食事と談笑
窓の外で男の人が人形のように扱われている。
夜に至り、冷たい風が屋内を巡っている。春であったはずだが、深淵の森は常に肌寒かったため季節の感覚が鈍っている。
修練場内は快適さがある。整理が行き届いていて、雑多な感じはない。外が騒然としていなければ、静かな場所だ。
だが、ティアの眼は空に浮かぶ月を捉えている。
皇城の尖塔が食らってしまったような欠けた形の月は、エルダートで暮らしていた時も見たことがあった。
不思議な出来事が多いこの世界だが、他の形の月もあるのだろうか。
腹の音が鳴る。
グググと背中とくっついてしまいそうだ。水は多少飲んだが、まとまった食事を摂った記憶がここ二日ない。
ティアが浮き出た肋骨に触れていると、誰かが階下から近づいてくる。
両側で巻かれた金髪、エンリカだ。彼女は口で山を作っている。
「グレイスさん! 晩餐ですわ!」
「ばんさ……晩御飯ですか」
「そうですわ! 急ぎますわよ!」
「わっ……!」
腕を引かれ、体が浮き上がる。そのまま階段に引き込まれ、食堂へと入っていった。
部屋の広さに反して人数は少ない。たった今、腹から着席したティアを含めても四人しかおらず、十人分以上の空席が見えた。
だが、いい匂いが部屋中に満ちていた。唾を飲み込むと口の中がますます食欲で溢れる。
体を起こすと、ニコニコとしたベルがいた。少し前に目を覚ましたのか。
「おはよー! グレイスちゃん元気?」
「な、なんとか……」
痛みで口元を歪ませながら笑みを浮かべる。岩のような硬さはまた続いていた。刺激されると鈍い痛みが生じる。
ベルや他の二人にはそんな様子はない。ベルの身体能力の数値は他と比べて低かった。しかし、今は生き生きと手足を動かしている。
「さあ、皆さん。さっそくいただきましょう。ワタクシ、今夜の食事を楽しみにしておりましたの」
「えー? でも、ごはんないけど?」
「揃うまではないと使徒さまがおっしゃっておりましたわ」
「それなら少なくない? ベルたち以外にグレイスちゃんのお姉さんもいたよねー?」
「……ベルさん、眠っていましたもんね。でも……あと三人の方がいらっしゃったはず……」
ティアは目を伏せた。決闘に参加及び乱入しなかったことで懲罰を受けなかった三人、その内の二人を思うと心臓の音が激しくなる。
「ここには多分来ませんわ。そんなことより、まだなの……」
エンリカが首を回して辺りを見渡す。
すると、老人の検査官が食事を運んできた。
「貴方は……!」
「気にするでない。さあ、たんとお食べ。腹が空いていよう」
エンリカが腹を両腕で押さえる。ティアとベルのものは構わず鳴っている。
鼻腔を刺激する食欲に釣られ、差し出された食事に目を奪われる。
湯気すら食べてしまえそうな濃厚な匂いのシチュー、オリーブ香る皿いっぱいの野菜。パンにも手を加えられているのか、割ってみるとふんわりと中身が浮き上がった。
「お代わりもある。若者らよ、食事を大いに楽しむのだ」
老人の検査官が丸い背を向け、奥にのそりと戻って行く。
エンリカが祈るように手を合わせる。食事前の儀礼か、ティアも彼女に倣う。対面のベルは今にも飛びつきそうになっていたが、隣席の黒髪の青年が止めていた。
「その命に感謝します。敬意を以て、我々の糧と致します……」
静寂の後、エンリカがスプーンでシチューを掬い、口に含んだ。ティアもパンから手をつける。
ふんわりとした柔らかさだ。噛むごとに程よく効いた塩味が唾液を増す。飲み込むと、一部をちぎり取りシチューに浸してから口に運ぶ。熱い。だが、すぐにまろやかさが傷を癒す。肉汁と野菜の甘みが広がる。
ティアは頬に手を当てる。落っこちてはいなかった。
「もぐもぐ……おかわりをしてきますわ!」
エンリカが席を立つ。すでに、彼女の容器は全てが空になっていた。
早々に帰って来ると、またパンを含み始めた。
「エンリカちゃん、食べるの速いね!」
ベルが言う。彼女も小さい顔が倍に見えるくらい野菜を頬張っている。
「た、たしかに……いつからそんな……」
黒髪の青年が苦そうな顔をする。美麗な見た目をしていて言動は令嬢のそれだ。しかし、検査の時から外見以上の力強さがある。
「お二人は、お知り合いなのですか?」
「少しだけ。というのも、ボクと彼女は家の関係で互いの幼少期を知っているんだ」
「家の関係……?」
「……あ、ごめん。そういえば、自己紹介もまだだったよね……ボクはノトゥ・ウィンラント。父さんが使徒なんだ」
ノトゥが後頭部を手で触っている。サラッとした黒髪のノトゥは、ティアの反対の方に翠の眼を向けている。
「使徒ですか……それはすごい……ですね」
「あれ、もしかして知らなかったかな。ごめん……自慢するつもりじゃなかったんだ」
「いえいえ、こちらこそすみません……」
互いに頭を忙しなく縦に振る。
「変わりませんわね、ノトゥさんは」
エンリカが食事を止める。皿にはまた何もなくなっている。
咳払いをして、胸に手を当てる。
「ワタクシも改めて自己紹介を。ワタクシは、エンリカ・フランツ。聖皇陛下の義兄弟にして魔力の第一人者、フランツの末孫ですわ!」
「フランツノマッソン? それっておいしそうだね!」
「美味しそう!? ぐぬぬ……これだから市井の者は……ワタクシのお祖父さまはとてもすごい方なのですわよ?」
「ごめん! エンリカちゃんのおじいちゃんだったんだね」
「分かればよろしい」
エンリカは鼻を高くする。
かくいうティアもフランツを知らない。聞く限りは、由緒正しそうだ。
「もしかして、エンリカちゃんってえらいお嬢さま!?」
「その通りですわ! ……ですが、今はそんな身分ではありませんの。坊ちゃんというなら、そちらのノトゥさんの方が余程ですわ」
「……え。あ、うん」
「へー。えらい人って多いんだねぇ」
「彼のお父上は現役の使徒。とても素晴らしい方ですわ」
誇らしげに語るエンリカに対し、ノトゥは目を伏せている。
「そういえば、貴女たちはどちらのお生まれで?」
「う、生まれですか?」
「ベルはね、こっから西に行ったところだよー!」
「ざっくりしてますわね。ですが……その肌は日焼け……」
「そうだよー! ベルは少し前まで家族と食べ物育ててたの! 暑いのには慣れっこだよ!」
ベルがふふんと鼻を鳴らす。
使徒になるには身分はあまり関係ないのか。たしかに、ベル含めて使徒とは離れていそうな生まれの者がいる。ペルラやニルが纏う雰囲気は、エンリカやノトゥとはかなり異なっていた。
自分やアンもそうだ。今まで、使徒やレムレス、魔力とは遠い場所で生きていた。
「グレイスさんはどちらから?」
「私は……ここから南東の深淵の森から」
「深淵の森? ……たしか、大穴が空いた地域でしたかしら」
あの森の奥深くに巨大な穴があった。あれ以降、一度も訪れていないが、今でも鮮明に思い出せる。
「といっても、そこでハンムックさんに修練をつけていただいただけです。……エルダート、そこから私とアンはやって来ました」
「エルダート? 聞いたことがありませんわね」
両端にある金の巻き髪の高さが同じでなくなる。ノトゥも顎に拳を置いていた。やはり、知られていない土地だ。
「ハンムックさんは、私たちを別の場所からやって来たと。転移術、というものが用いられたらしいです」
「転移術……! お祖父さまが以前に取り組んでいたものですわ……完成したということなのかしら」
「いや、それはないはずだよ。あれだけの重要な魔法なら血族たちが見過ごすはずがない」
「え、えっと……転移術は別の世界から、と……」
「別の世界!? 異世界ということですの!?」
エンリカがティアに顔を近づける。紫の眼がギラギラとしていた。
「かも知れない……とハンムックさんが」
「……そうなるとワタクシも分かりませんわね。……少し興味がありますわね。グレイスさん、前は何をされていたのですか?」
「え、えっと……アンと生きていました……?」
「アンリさんと……?」
「はい……生まれた時からずっと……」
「たしか双子なんだよね! ベルの妹にもそっくりな子たちがいるからわかるよー!」
「似ているとは思っていましまが、そうなんですの?」
「はい……多分……」
「多分?」
「実は……本当の両親を知らないものでして……物心ついた時に、側にいたのがアンだったんです。それからずっと一緒にいます。荒野を行く時も……」
銀の眼、アンの綺麗なものだ。夜闇の中で瞬く光が最初の記憶といっていい。
「幼い孤児だったので、時には生活が苦しくなりました。その中で生きるために色々と」
「色々とは?」
「……召使いですかね。といっても、長続きはしませんでしたが。ご主人さまたちのお役には立たなかったみたいで……」
奴隷であった時代もあった。いずれも悪夢に近しいものだ。だが、この話題を続ける必要はない。せっかくの楽しみに満ちた場だ。
「その後は、ある人たちに拾われて三年ほど暮らしていました。とても優しいお二人で大切にしていただきました。私のこのグレイスという姓もその方のものなんです」
「姓をいただいた……義理のご両親ということですの?」
「はい。でも……まだお父さん、お母さんと呼んだことはありませんでしたが……」
「二人が好きなんだね」
ノトゥが微笑んだ。今までの笑みとは全く違う。裏表のなさがティアの心を和らげる。
「はい……! あの日、深淵の森に飛ばされてからお二人にはまだ会えていません。ですから、ちゃんと帰れたらお父さん、お母さんと呼びたいです。……私が二人を好きだという気持ちを伝えたいです」
瞼の裏から想いが溢れ落ちそうだ。
目を瞑る。
暖かく迎えてくれる二人の姿が思い浮かぶ。マーテルなら照れ笑いをしながら抱きしめてくれる。モンストルオなら無言で頭を撫でる。
会いたい。恩返しがしたい。今ならきっとそれに挑戦できるようになっている。
顔に何かが触れる。
「気持ちは分かりましたわ。ですが、落ち着かせることも大事ですわ」
「はい……」
エンリカが布を手渡してくる。自分で顔を拭う。鼻を啜らずに堪える。それで気持ちの波は次第に落ち着いていった。
「使徒になりたい理由もおおよそ分かりましたわ。目指す先異なれど、ワタクシは尊重致します」
「ベルも! だいすき!って言うの大切だもん!」
「貴女はもう少しマナーを大切にすることが必要と思いますわ」
エンリカがベルを人差し指を突きつける。ベルの口周りだけでなく目元にもシチューが付いている。
「グレイス、よかったら協力させて欲しい。……そうだ、この名前って姓なんだっけ? よかったら、名を教えてくれると」
「あ……すみません、私の名ってあんまりグレイスと相性が良くなくて。出来たら、グレイスとお呼びいただければ」
「相性? 名もグレイス……みたいな?」
「私の名は、グレイティア。グレイティア・グレイスだと同じ意味の単語を二回言うみたいな形になっちゃうみたいなんです」
「あーたしかに……でもそれって」
「じゃあベルたちもティアちゃんって呼んじゃおっか」
考え込む姿勢を見せていたノトゥの言葉が遮られる。
「……ありふれた名前ですので、グレイスとお呼びいただければ」
「えーっ、ティアちゃんじゃだめなのー?」
「ティアは……アンが呼んでくれるので……私のわがままなんですけど、私を呼ぶ彼女にすぐ気づきたくて」
ティアは頬を指でなぞる。湧き上がる笑みを上手く止められなかった。
「ワタクシは構いませんわ。よろしくお願いしますわグレイスさん。……ところで、ベルさん!」
エンリカが机に身を乗り出す。ベルに熱い視線を送っている。
「ん! なにー?」
「成績を見たところ、貴女の数値は候補者の中で一番低い。教養面も壊滅的だったところを見るに、理由は察せますが」
「難しかったんだよー! 字も書くの大変だったよー!」
「勿体ないところですわ。グレイスさん、貴女もです」
「わ、私ですか?」
「貴女、教育は?」
「え、えっと……言葉や文字はエルダートで……こっちに来てからも言語だけですが、ハンムックさんから……」
「勿体ないですわ! ……そこで、ワタクシから提案なのですが、勉強をする場をワタクシたちで設けるのはどうでしょう?」
「勉強をする場……?」
エンリカが立ち上がり、胸に手を当てる。
「ワタクシはフランツの者として皆を牽引することが義務ですわ。貴女たちも周りの者たちに負けないくらいの知識を身につけられれば、置いていかれるようなことは起こらないはず」
「エンリカ、それって大丈夫なのかな……?」
「責任は、今度こそワタクシが取りますわ。それに先ほどおかわりしている時に、エヴァールさまからお許しはいただきましたわ」
片手が食堂の奥の方に伸びる。エヴァールらしき手がひょっこりと出ている。親指を立てることで了承を示していた。
「食事が終わりましたら早速。三人ともよろしいですわね?」
「三……? 待って、ボクも入ってるの?」
「せっかくだからノトゥさんも参加しなさい!」
頭を掻くノトゥの表情がぎこちなくなる。
ティアは引っ張られるしかなかった。しかし、力になってくれる。疑わしさがこの場いる者たちからは全く感じられなかった。




