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あれは、出立の餞として、母が新調してくれた扇子だった。
道中、不安と期待で揺れる心を紛らわすように、握りしめていた。そうして半月。王都のタウンハウスへ辿り着く頃には、ある種のお守りのようになっていた。
目一杯磨きあげて吉日、その扇子を握りしめ、侍女のマノンを伴って王宮へ参内したのだった。
***
イヴォンヌが階段の最初の段に足をかけたとき、背後から「イヴァルテ令嬢」と呼び止められた。
振り向くと、令嬢が立っていた。年の頃はそう変わらなく見えるのだが、どこの家の娘か、覚えがない。イヴォンヌはマノンと顔を見合わせたが、マノンもまた軽く首を振った。彼女の記憶にもなかった。
少し待つが名乗りもない。イヴォンヌとマノンの判断は噛み合った。
「生憎主人は先を急いでおりますので」
マノンが代わりに答え、イヴォンヌはそれを見てから階段へと戻る。
すると、見慣れぬ令嬢は後を追うように階段を登り始めた。
「あなたにお願いがあるの」
イヴォンヌは答えなかった。
知らない相手に、階段の途中で話しかけられるような用件にろくなものはない。それでも声は続く。
「あなたの婚約者のことよ」
足が止まりそうになるのを、イヴォンヌは抑えた。何の話か、分からない。だが、知らぬ令嬢の口から聞くべき話でもないだろう。イヴォンヌは無視し続けた。しかし、相手の妙な視線をただただ不快に感じていた。
階段の踊り場に差しかかったところで、堪らなくなったのはマノンだった。
「不敬ですよ。時と場所をお選びくださいませ」
足を止めて、知らぬ令嬢を窘めた。低く、抑えた声だった。
だが彼女はそんなマノンを鼻で笑った。
「やっぱり知らなかったのね」
「何を」
「マノン、下がりなさい」
嫌な予感がして、イヴォンヌはマノンを引かせた。
「仰りたいこととはなんでしょうか」
「彼、ずっと私のところに来ているの。あなたと結婚するなんて、かわいそうでしょう?」
一瞬、言葉の意味が摑めなかった。
「だから、解放してあげて」
あまりに軽い調子だった。
イヴォンヌは言葉を失った。そんな話を、こんな場所で、名も名乗らぬ女が。
「ねえ。聞いてる?」
その女が、さらに一歩近づく。
「田舎娘が着飾ってこんな所に来るなんて、呆れちゃうわね」
イヴォンヌは言い返さなかった。
しかし、相手も解っていたのだろう。不気味に、唇の端を上げた。
「ああ」
令嬢の唇が、僅かに声音を落とした。
その一言が、イヴォンヌのこめかみを容赦なく射抜いた。
到底聞き流せない、家名を貶す言葉だった。
「家畜の餌で育った姫君は、人の言葉をご存知ない?」
イヴァルテへの侮辱に――目の前が赤くなるような心地がした。
(痴れ者が!!!!!)
イヴォンヌの手が、心のままに鋭く動いた。扇子を握った手が、鋭く持ち上がったのだった。
令嬢の顔が、さらに不気味に歪んで――身を捩った。次いで《《令嬢の侍女が》》大きく身体を揺らしたのだ。小さな悲鳴を漏らして。
階段で踏み止まっていたのだろう彼女の身体。
それが揺れに耐えられず大きく崩れて。
転がり、滑り、落ちていく。
そして、落ち切った先で。
うずくまるようにして、動かない。
――いやああああああああああああああああああ!!!!!!
叫び声に、動かない自分の侍女へ駆け寄る令嬢。
イヴォンヌはその有り様を、呆然と見ることしかできなかった。




