第8話 システムの悲鳴
廃工場ダンジョンの清掃依頼が来たのは、朝の受付だった。
「春山さん、今日は臨時でDブロックをお願いします。昨日大きな戦闘があったみたいで、残滓が多く残ってるんです」
受付の女性が、申し訳なさそうに言った。
Dブロックは廃工場区画だ。南港の通常ダンジョンより天井が高く、区画が広い。その分、清掃の手間もかかる。単価は通常より少し高いが、それに見合う体力を要求される。
「……わかりました」
春山はハーネスを受け取りながら、助手席の布袋の足元から取り出した警棒を作業着の内側に差し込む。昨日の練習の成果を今日は実際の空間で試す予定だった。ただし段階的に。慎重に。
「あ、春山さん」
受付の女性が、少し声を潜めた。
「Dブロック、昨日から調子悪いって話が出てて。何人かの清掃員が『変な感じがする』って早上がりしてるんです。一応、お気をつけて」
「……変な感じ、というのは」
「なんか、景色がたまにぼやける、って。疲れ目じゃないかって話もあるんですけど」
春山は少し考えて、頷いた。
「了解しました」
Dブロックへの降下路は、Cブロックより暗かった。
天井が低くなる手前で、春山はライトを点けた。足元の土が、Cブロックとは違う色をしている。鉄分を含んだ赤茶色の砂と、黒く焦げた岩の欠片が混じっている。昨日の戦闘の規模が、地面の状態からでも読み取れた。
区画に入ると、広さに目が慣れるまで少し時間がかかった。
天井が高い。壁が遠い。Cブロックの作業が板についていた春山には、最初は手持ち無沙汰な感覚があった。ドロップした素材と魔石を確認しながら、ゆっくりと奥へ進む。
最初の異変は、10分後に起きた。
壁際の岩盤が、一瞬だけ「粗く」なった。
Bブロックでライカの魔法が放たれる直前に見た、あの現象だ。ただし今回は魔法も魔物もいない。春山が1人で立っているだけの、静かな区画で起きた。
しかも今回は持続時間が違った。
Bブロックでの粗化は0.5秒ほどで元に戻っていた。今回は3秒ほど続いた。岩盤の表面から細部の情報が失われ、のっぺりとした面になったまま、ゆっくりと元の質感に戻っていく。
春山はその間、動かずに見ていた。
「……頻度が上がってる」
ノートを取り出して、書き込む。
『Dブロック、静止状態での粗化発生。持続約3秒。誘因なし』。
前職の経験で言うなら、大きな仕事の後には必ず余波が残る。本体の作業が終わっても、周辺への影響はすぐには消えない。昨日の戦闘規模と、今日のこの不安定さの間には、何らかの繋がりがあるはずだ。ただしまだ、それを説明する言葉を春山は持っていなかった。
さらに奥へ進むと、魔物が1体いた。
Cブロックで見る種類とは違う。体長が2メートルほどある、四足歩行の獣型だ。清掃区画の境界ギリギリにいる。春山は距離を取って、壁際に張り付いた。
魔物はこちらに気づいていない。
春山はゆっくりとステータスウィンドウを展開した。薄い光の膜が浮かぶ。警棒を右手に持ち直す。
閉じる。
この空間で初めて操作した瞬間、明らかに何かが違った。
車内での練習とは、手応えが違う。ウィンドウが閉じる瞬間、空気の密度が変わったような感触があった。自分の体の輪郭が、コンマ数秒だけ曖昧になる。
「……ここでは、動く」
呟いた。
魔物に向かってではない。ただの確認だった。この空間では、入力が「何かに作用している」。
車内では何も起きなかったが、ここでは違う。
春山は慎重に、もう1度だけ開閉した。
同じ感触。再現性がある。
今日はここまでだ、と判断した。実戦で使うのはまだ早い。まず現象の確認。それが今日の目的だった。
作業を続けながら、粗化の発生を記録していった。
10分に1度、あるいは5分に1度。頻度が一定ではない。Cブロックでは今まで自然発生の粗化を見たことがなかった。Dブロックでは何もしなくても起きている。
しかも時間が経つにつれ、持続時間が少しずつ伸びていた。
最初は3秒。次は5秒。昼過ぎには8秒ほど続く粗化が発生した。8秒間、壁の岩盤がのっぺりとした面になったまま止まっていた。春山はその間、岩盤の前に立って、変化の細部を観察した。
粗化が起きている間、音の反響が変わる。
壁の質感が失われると同時に、音の吸収率が下がるのか、自分の足音がいつもより硬く反響する。空間全体の「密度」が薄くなるような感触がある。
春山は独り言を言いながら、ノートに書き込んだ。
『粗化の頻度・持続時間、時間経過とともに悪化傾向。区画全体が不安定になっている可能性。このまま続けば、より深刻な異変が起きる可能性あり』
書いてから、顔を上げた。
描画を間引き始めた。処理が追いつかなくなった古いハードが、真っ先に切り捨てるのは「見た目の綺麗さ」だ。前職でもそういうことがあった。余裕がなくなると、まず表面から崩れ始める。この区画は今、その段階にある。
「……くるぞ、これ」
春山は小さく言った。
次の段階が何なのかは、まだわからない。ただ、限界を超えた何かが次に何をするかは、前職で何度か見ていた。
見た目が崩れて、それでも足りなければ、次は「動作そのもの」が崩れ始める。
午後の作業中に、その予兆を見た。
区画の奥の方で、魔物が形を成す前の状態が一瞬だけ見えた。
四足獣が現れる直前、空間に粗いかたまりが生じた。輪郭がない。色もない。ただの「何かが生まれようとしている途中」のような、未完成の形。それが1秒ほど続いてから、ようやく魔物の姿に収まった。
春山は息を詰めて、その過程を見届けた。
魔物が姿を現す前の「途中の状態」が見えてしまっている。これはもう、見た目の問題ではない。何かがもっと根本的なところから、追いつかなくなっている。
「……姿を作るのが、間に合ってない」
ノートに書き込む手が、少し速くなった。
『魔物の出現直前、未完成の形が約1秒間視認可能な状態で発生。区画の不安定さ、前段階より悪化』
書き終えて、周囲を確認した。
他のハイエナは誰もいない。全員が早上がりしたらしかった。受付の女性が「変な感じがする」と言っていた理由が、今はわかる。景色がぼやけるのは疲れ目ではない。この区画の空間そのものが、不安定になっているのだ。
春山は荷物をまとめて、出口へ向かった。
今日はこれ以上いない方がいい。限界に近い何かは、予告なく異常を起こす。前職でそれを学んでいた。
計量所で今日の成果を提出した。
Dブロックの単価が高い分、稼ぎは少し良かった。
9,800円。
軽自動車に乗り込んで、ノートを開く。今日の記録を見直す。粗化の頻度と持続時間の変化。魔物の出現直前に見えた未完成の形。ウィンドウ開閉の手応えの違い。
点が、また増えた。
しかも今日の点は、今までより大きい。
エンジンをかける。43号線へ出ると、夕方の渋滞が始まっていた。赤いランプの列が、南港から堺の方向へ長く続いている。
「……くるぞ」
さっきダンジョンの中で言った言葉を、もう一度だけ繰り返した。
何が来るのか、まだわからない。ただ、この区画はもう長くない。そしてその「次」が何であれ、自分はその中にいることになる。
春山はアクセルを踏んで、渋滞の列に加わった。
「……今日も、混んでるな」
標準語が、静かに車内に落ちた。




