第7話 1フレームの実験
警棒を見つけたのは、偶然だった。
その日の夜、軽自動車のトランクを整理していると、古い布袋が奥から出てきた。
リストラのとき、デスクの引き出しの中身をまとめて段ボールに詰めた。その段ボールが車に積まれたまま、半年以上放置されていた。
布袋の口を開けると、黒い金属の棒が入っていた。
強化ジュラルミン製の警棒。前職でサーバールームの夜間巡回に使っていた護身用具だ。支給品だったが、返却を求められないまま部門ごと消えた。長さは約50センチ。握るとずっしりとした重さがある。表面に細かい傷が入っているが、芯はまだしっかりしている。
春山はしばらくそれを手の中で転がした。
あの頃は、モニターの数値だけが世界のすべてだった。警棒を握るのは形式上の巡回のためで、実際に使うことなど想定していなかった。サーバールームの廊下を歩くとき、無意識に握り直していたのは、緊張ではなく習慣だった。
今は違う。データを守る仕事ではなく、自分の体を守る必要がある場所に、毎日通っている。
ダンジョンに持ち込める得物については、清掃員にも一応の規定がある。
爆発物は禁止。打撃器具は申請なしで携帯可能だ。銃火器を持ち込もうとした探索者が過去に何人かいたが、全員が同じ結果を報告している。引き金を引いた瞬間、弾丸が「存在しなかったもの」のように足元にぽとりと落ちる。あるいは銃そのものが、砂が崩れるように分解される。理由は誰も説明できていない。
世間では「ダンジョンの魔力が火薬の燃焼を阻害する」と言われているが、春山には別の感触がある。弾丸の速度と運動量が、この世界の「許容範囲」を超えているのではないか。高速で飛ぶ物体を、この迷宮が正確に捉えきれていないような、そんな不器用な手触りがある。まだ仮説に過ぎないが。
いずれにせよ、この警棒は使える。トングより頑丈で、トングより長い。
春山は警棒を布袋ごと、助手席の足元に移した。
翌日の待機時間は、いつもより長かった。
Cブロックの先行パーティが予定より遅れており、清掃員は入口付近で待機するよう指示が出た。他のハイエナたちは壁際に座って雑談していた。春山は少し離れた場所に立って、ステータスウィンドウを開いた。
薄い光の膜が、空中に浮かぶ。
【メニュー高速化】
閉じる。
開く。
閉じる。
開く。
リズムを刻みながら、春山は昨日の記録を頭の中で並べ直した。テクスチャの粗化。魔法発動直前の0.5秒。あの「間引き」が起きるとき、世界の側では何が起きているのか。
何かが集中する。その分、周囲から何かが引かれる。引かれた場所が、一瞬だけ粗くなる。
ならば、引かれている最中に「自分」がその場所にいたら、どうなるか。
閉じる。開く。
指先が止まった。
根拠のない感触だったが、春山には似た経験があった。
格ゲーの話だ。
対戦中、相手のキャラクターがある技を出す瞬間、ほんの一瞬だけ「当たり判定の計算が追いつかないフレーム」が生じることがある。その隙間に自分のキャラクターを滑り込ませると、本来当たるはずの攻撃が透過する。開発者が意図した動作ではない。システムが処理しきれない瞬間に生まれる、設計の継ぎ目だ。
HALとして対戦台に座っていた頃、春山はアーケードコントローラーの天板を指先で叩くように入力していた。レバーではなくボタンの感触で1フレームを刻む。コントローラーのメーカーや基盤の応答速度まで把握した上で、入力タイミングを微調整する。対戦相手には「読み」と見えていたものが、実際には「処理の継ぎ目を体で覚えていた」だけだった。
あのとき画面の中で起きていたことと、ライカの魔法が放たれる瞬間の「粗化」は、構造が似ている。
処理が追いつかない瞬間。
その瞬間に、自分のステータスウィンドウを開閉したら。
世界の側の処理が追いつかない瞬間に、自分の「存在の計算」まで間引かれたら。
「……ありえない話じゃない」
呟いた直後、隣で待機していたハイエナの1人が振り返った。
「え、なんか言いました?」
「……独り言です」
男は肩をすくめて、また仲間の方を向いた。
その日の清掃を終えて、軽自動車に乗り込んだ。
助手席の足元から布袋を取り出して、警棒を握る。重さを確かめる。データしか見ていなかった頃は、この重さの意味がわからなかった。今は少し、わかる気がする。
春山はシートを少し倒して、警棒を右手に持った。
ステータスウィンドウを左手で展開する。薄い光の膜が、車内に浮かぶ。
右手で警棒を構える。左手でウィンドウを閉じる。同時に右手を前に出す。ウィンドウを開く。警棒を引く。
動作を分解して、繰り返す。
閉じる、突く、開く。
閉じる、突く、開く。
アケコンの天板を叩いていた頃と同じ要領だ。入力のタイミングを体に叩き込む。意識より先に指が動くようになるまで、繰り返す。ボタンがウィンドウ操作に変わっただけで、やっていることは変わらない。1フレームを刻む感覚は、指先ではなく腱の奥に染み付いている。
窓の外では、駐車場の蛍光灯が白く光っていた。
他の車はない。誰も見ていない。
閉じる、突く、開く。
リズムが少しずつ速くなっていく。
30分ほど続けたとき、変な感覚があった。
ウィンドウを閉じた瞬間、コンマ数秒だけ、指先から力が抜けるような感触があった。
正確には、「入力が完璧に決まった」という手応えだ。格ゲーで最速の入力がぴたりとはまったとき、コントローラーを通じて伝わってくるあの感覚。意識が追いつく前に体が正解を出した瞬間の、静かな確信。
ただし今は画面がない。キャラクターがいない。入力の結果を確認する方法がない。
正解だったかどうかは、ダンジョンの中でしかわからない。
「……再現はできてる。たぶん」
独り言が、静かに車内に落ちた。
車の外は普通の駐車場だ。コンビニの照明が白く広がっている。ここではどれだけ完璧な入力をしても、世界は何も反応しない。当然だ。この空間には、反応するための仕組みがない。
ダンジョンという「異常な空間」に入って初めて、この入力が何かを引き起こすかどうかがわかる。
春山はノートを開いて、書き込んだ。
『入力パターンの精度、実用水準に達したと判断。ただし車内での練習では現象の発生を確認できず。検証はダンジョン内で行う必要がある』
一行空けて、続きを書いた。
『注意:存在を間引かれることは、正しく認識されなくなることと同義の可能性がある。壁と自分の区別がつかなくなるか、あるいはこの空間に「いなかったこと」にされるか。どちらも洒落にならない。実戦での使用は段階的に行うこと』
書いてから、日付を書き添えた。
エンジンをかける前に、もう少しだけ続けた。
閉じる、突く、開く。閉じる、突く、開く。
今日は入力の確認だけでいい。実際にダンジョンで試すのは、段階を踏んでからだ。根拠のない仮説でダンジョンの奥に踏み込むのは、バグの原因を特定しないままシステムを再起動するのと同じだ。最悪の場合、余計にこじれる。
それだけは避けたかった。
閉じる、突く、開く。
指先のリズムが、少しずつ速くなっていく。かつてアケコンの天板を叩き続けた頃の、あの感覚が戻ってくる。意識が追いつかなくなった先に、体が動いている。1フレームという単位が、頭ではなく指の中にある。
窓の外で、駐車場の蛍光灯がちらついた。
「……まだ使えるな」
右手の感触を確かめるように、警棒を一度だけ強く握った。
捨てなくて良かった、と思った。
エンジンをかけて、43号線へ出た。
夜の渋滞はいつも通り残っていた。赤いランプの列が、堺の方向へ向かって長く続いている。春山はその列に加わりながら、今日の感触を頭の隅に収めた。
検証の場所は決まっている。答えはダンジョンの中にしかない。
「……今日も、混んでるな」
標準語が、静かに車内に落ちた。
助手席の足元で、布袋に包まれた警棒が、エンジンの振動に合わせて微かに揺れていた。




