第9話 デッドロック
その日、Dブロックへの清掃依頼は来なかった。
受付の女性が、少し申し訳なさそうに言った。
「Dブロック、今日から立ち入り禁止になりました。昨日の不安定さが改善されなくて、管理局が調査に入るって」
「……そうですか」
「代わりにEブロックをお願いしたいんですけど、今日はスペクタクル社さんが入るんです。後方清掃の随行になりますが、春山さんにお願いしたくて」
受付の女性がリストを見ながら言った。
順番待ちをしていたハイエナの1人が、露骨に舌打ちをした。
「俺らの方が足も速いし、回収かて手際ええやろ。姉ちゃん、スペクタクル社にちゃんとプッシュしたんか?」
受付の女性は困ったように微笑んだ。
「社側からは、『一番、獲物にがっつかない人を』という指定があったんです。魔石よりも、調査の進行を妨げない静かな人を、と」
「……がっつかへん、ねぇ」
ハイエナたちが春山を振り返り、鼻で笑った。
「要するに、おこぼれ待っとるだけの根性なしっちゅうことやろ。飼われるにはちょうどええマスコットやな」
春山は何も言わず、トングの動作確認をした。
彼らが素材の奪い合いに血道を上げている間、春山は常に一歩引き、壁や地面の変化を観測していた。それが「欲望に振り回されない、計算の立つ人員」と映ったらしい。ただ、それだけのことだ。
「……了解しました」
春山はハーネスを受け取って、Eブロックへ向かった。
Eブロックの入口付近は、機材が多かった。
ドローンが4機。昨日より1機多い。ライカが装備の最終確認をしていた。今日の軽装鎧は先日より防御寄りの造りで、胸当ての面積が広い。隣でユウリが無言のまま周囲を確認し、セイラが端末を操作している。
春山は15メートル後方に定位置を取った。
無線から本田の声が流れた。
「今日は深層手前まで行きます。ライカさん、昨日より少し慎重めに。セイラさん、バッファーの出力は抑えめで。ユウリさん、前衛の間合いを心持ち広めに取ってください」
3人が短く答えた。
春山はノートを開いて、今日の記録欄に日付を書き込んだ。
最初の1時間は、何も起きなかった。
ライカのパーティが順調に進む。魔物が倒されるたびに、春山がトングで素材と魔石を回収する。Eブロックの残滓密度はCブロックより高く、稼ぎのペースは悪くなかった。
しかし春山の目は、足元よりも壁を見ていた。
Eブロックは昨日のDブロックに隣接している。粗化が起きていないか。音の反響に変化がないか。確認しながら歩く。
今のところ、異変はない。
「春山さん、大丈夫ですか」
突然声をかけられて、振り向いた。
ライカだった。パーティの前方にいるはずが、いつの間にか後方に下がってきていた。春山の方を見て、屈託なく笑っている。
「さっきからずっと壁見てたから、気になって」
「……仕事中の確認です。気にしないでください」
「そうなんですか。なんか、壁に何かあるのかなって思って」
春山は少し考えて、正直に答えた。
「昨日、隣のブロックで景色がぼやける現象が複数回ありました。今日は今のところ異常はありませんが、念のため確認しています」
ライカの目が、少し変わった。笑顔のままだったが、その奥に何かが混じった。
「……そういうの、気づくんですね」
「前職で、似たような確認をしていたので」
「何のお仕事だったんですか」
「設備の保守点検です」
ライカが何か言おうとしたとき、無線から本田の声が割り込んだ。
「ライカさん、前衛に戻ってください。次のポイントまで300メートルです」
「あ、はーい」
ライカが春山に向かって「ありがとうございます、引き続きよろしくお願いします」と言って、前方へ戻っていった。
春山は壁に視線を戻した。
異変が起きたのは、深層手前のエリアに入ってからだった。
Eブロックの最奥部。天井が急に高くなり、壁と壁の間隔が広がる。空気の質感が変わる。これまでのエリアとは、明らかに密度が違う。
春山の足が、自然と遅くなった。
壁の岩盤が微かに滲んでいた。輪郭が定まらない。Dブロックで見た粗化の初期段階に似ているが、それより速い周期で繰り返されていた。
「……また始まった」
ノートを取り出して、書き込もうとした。
その手が止まった。
前方の空間に、何かがいた。
最初、春山にはそれが何なのかわからなかった。
魔物、という言葉が頭に浮かんだが、すぐに違うと思った。
今まで見てきた魔物には、一貫した「形」があった。獣型、人型、虫型。どれも輪郭が明確で、動作が規則的で、倒されればポリゴンに砕けて消えた。それが「魔物」の定義だった。
目の前にいるものは、その定義に収まらなかった。
体の輪郭が、一定ではない。
右半身は人型に近い形をしているが、左半身は形が定まらずにぼやけている。左腕があるべき場所に、質感の違う何かが生えているが、それが腕なのか別の何かなのか、見ても判断できない。足元は4本あるように見えるが、数えるたびに数が変わる。地面に接している部分の輪郭が、常に微かに揺れている。
顔、と呼べる部分があった。
頭部に相当する場所に、目らしき器官が2つある。しかしその配置が左右対称ではない。右の目は明確な形をしているが、左の目は顔の側面にずれており、しかも右の目より2倍ほど大きい。口は横に裂けているが、その端が頬の途中で消えている。消えているのではなく、そこから先が「描かれていない」という感触がある。
全体として、「この世に生まれてきてはいけない形をしている」という印象だった。
何かの手違いで、無理やり形を成してしまった残滓のような。完成する前に動き始めてしまったもの。本来は存在するはずがない場所に、間違って現れてしまったもの。
不意に、前職で見た「不良品」が頭をよぎった。
鋳型の崩れた部品。あるいは、設計図を無視して増殖した錆。本来の用途も、名前も失ってしまったゴミ。
「……なり損ない、か」
春山は思わず声に出した。
その声が聞こえたのか、個体の右目がこちらを向いた。
ライカが前に出た。
「これ、通常の個体じゃない」
セイラが端末を見ながら言った。声が、いつもより硬かった。
「魔力の流れが読めません。パターンが掴めない」
本田の声が無線から流れた。
「慎重に対処してください。ライカさん、距離を取って。ユウリさん、前衛を維持」
ライカが魔法を放った。
光のエフェクトが広がる。個体に命中する、はずだった。
個体が消えた。
消えたのではなく、ライカの魔法が命中する直前に、別の場所に現れていた。移動したのではない。元の場所から消えて、別の場所に出現した。その間に連続した動きはない。
「今のは何ですか!」
ライカが言った。驚きが、声に滲んでいた。
セイラが端末を操作しながら答えた。眼鏡の奥の目が、わずかに揺れていた。
「わからない。こんな数値、見たことがない」
短い沈黙があった。セイラが端末を叩く音だけが続いた。
「……攻撃が届く直前、時間が巻き戻っているようにも見えます。でも理由が、まったく」
本田の声が、いつもより低いトーンで割り込んだ。
「全員、後退を開始してください。未知の個体への交戦継続は危険です」
後退が始まった。
ライカ、ユウリ、セイラが来た道を戻り始める。後方清掃の春山は、3人より出口に近い位置にいた。そのまま先行して走る。
個体が追ってくる。
通常の魔物のような走り方ではない。移動するたびに、輪郭が揺れる。それでも距離が縮まっている。
ユウリが後衛に回り、個体との間に入った。白銀のアーマーを構えて、攻撃を受け止めようとする。
個体の左腕、形の定まらないあの何かが、ユウリに向かって伸びた。
ユウリが防御した。しかし衝撃が、いつもと違う方向から来たらしく、体勢が崩れた。アーマーの右側面に深い傷が入る。ユウリが膝をつきかけた。
「ユウリさん!?」
ライカの声が、鋭くなった。
「大丈夫です」
ユウリが即座に立て直した。しかし春山には、その「大丈夫」が完全ではないことが分かった。右足の踏み込みが、さっきより浅い。
本田の声が流れた。
「ユウリさんが負傷しました。速度を上げて後退してください。ライカさん、後方援護をお願いします」
出口まで、あと60メートル。
春山は走りながら後ろを確認した。ライカが後方援護の魔法を放っている。個体の位置がまたずれる。その間に全員が走る。
40メートル。
20メートル。
出口の光が見えた。
そのとき、空間が止まった。
足が地面に着いた感触が消えた。
風が止まった。
個体の動きが止まった。ライカたちの動きも止まった。
春山だけが、止まった空間の中で、惰性で3歩ほど前へ進んでいた。出口まで、あと10メートルを切っていた。
1秒。
2秒。
3秒。
空間が、再び動き始めた。
視界が狂った。
前方に広がっていた出口の光がない。振り返ると、出口の光が遠くにあった。ライカたちが出口のすぐそばに立っている。春山の前には、薄暗いEブロックの通路が広がっていた。
出口に最も近い位置にいたはずの春山が、最も遠い場所に立っていた。
ライカたちだけが出口へ飛ばされ、春山だけが通路の奥へ引き戻されたかのように。
ライカが振り返った。
「え……、春山、さん……?」
春山は一歩、前に踏み出そうとした。
しかし、足が止まった。
踏み出す先の「地面」が、地面としての性質を失っているような感触があった。固くもなく、柔らかくもなく、ただ「そこに踏み込む」という動作が成立しない。
「春山さん!」
ライカが叫び、こちらへ駆け寄ろうとした。
だが彼女の体は、まるで見えないガラスにぶつかったかのように不自然に止まった。
春山は自分の足元と、彼女との間に横たわる「虚無」を見つめた。
前も後ろも、景色だけがあって、実体がない。
「もう一度!」
ライカが前に踏み出した。魔法で加速して、春山との距離を縮めようとした。
瞬間、ライカの体が弾けた。
弾けた、というより、見えない何かに全力で押し返された。ライカが後方へ吹き飛ぶ。体勢を崩して、ユウリに支えられた。
「なんで!?」
ライカが息を荒くしながら、もう一度踏み込もうとした。
「ライカさん」
本田の声が、珍しく鋭かった。
「止まってください」
「でも春山さんが!」
「もう一度踏み込めば、あなたが傷つきます。それは許容できません」
ライカが唇を噛んだ。
ユウリが今度は自分で試みた。アーマーを構えて、ゆっくりと境界に近づいた。境界に触れる前の段階で、ユウリの足が止まっていた。表情が険しくなる。
「……体が、前に進もうとしない」
低い声で言った。負傷した右足だけでなく、全身が言うことを聞かないような、そういう止まり方だった。
セイラが端末を凝視したまま言った。声が、わずかに震えていた。
「数値がおかしい。この区画だけ、何もかもが狂っています。何が起きているのか、私にも」
言葉が途切れた。
無線の向こうで、本田が何かを確認している気配があった。数秒の沈黙。
「……管理局に緊急連絡を入れます」
本田の声は静かだったが、その静けさがいつもと違った。
「ただし到着まで時間がかかります。春山さん、聞こえていますか」
「……聞こえています」
「状況を正確に把握できていません。申し訳ないが、今すぐ手を打てる方法が見つかっていない」
珍しく、本田が言葉を選んでいた。断定ではなく、事実だけを告げていた。
ライカが春山の方を向いた。
声が、震えていた。
「ごめんなさい。私たちが深いところまで来てしまったせいで、こんなことに」
春山は少し考えて、答えた。
「あなたたちのせいではありません。このエリアがもともと不安定だった。昨日のDブロックと同様です」
「でも」
「……大丈夫です」
大丈夫かどうかは、実際にはわからなかった。しかし今、ライカに何かを言わせている時間はなかった。
無線から本田の声が続いた。
「ライカさん、ユウリさん、セイラさん。……今は、後退してください」
静寂があった。
「春山さんには申し訳ない。しかしこのまま3人がここに留まっても、状況は変わらない。あなたたちが傷つく可能性が増えるだけです」
ライカが動かなかった。
「……ライカさん」
本田の声が、低く続いた。
「プロとして判断してください」
長い間があった。
ライカの手が、ゆっくりと下がった。
「……春山さん」
ライカが春山を見た。目が赤くなっていた。
「必ず、助けを呼びます。絶対に」
春山は頷いた。
「……わかりました。行ってください」
ライカたちが、出口へ向かって歩き始めた。
ライカは3度振り返った。そのたびに春山と目が合った。春山はその都度、小さく頷いた。
4度目に振り返ったとき、ライカの姿は出口の光の中に消えていた。
静寂が戻った。
春山は後ろを振り向いた。
個体が、通路の奥に立っていた。
距離は30メートル。
春山だけを見ていた。右目だけが明確な形をして、こちらを向いていた。左半身の輪郭が揺れている。足元の数が、また変わっていた。
「……仕様通りだ」
春山は静かに呟いた。
怒りはなかった。ライカたちを責める気もなかった。本田の判断も、正しかった。3人がここに留まっても、状況は変わらなかった。それだけのことだ。
末端が最初に切り離される。前職でも、そうだった。
春山は作業着の内から警棒を取り出した。
右手に構える。左手でステータスウィンドウを展開する。薄い光の膜が、暗い通路の中に浮かぶ。
怖くないか、と自分に問いかけた。
怖い。
しかし今、自分にできることは何かを考えた。逃げ場はない。前にも後ろにも進めない。個体との距離は縮まっている。
以前練習した手応えは、ダンジョンの中でだけ作用すると確認している。問題は、1度も実戦で使ったことがないことだ。
格ゲーでも、練習で完璧にできる入力が、対戦本番では指が固まって出なかったことがあった。しかしあの頃と今では、一つだけ違うことがある。
あの頃は、失敗しても死ななかった。
「……だから、丁寧に入力する」
春山は息を整えた。
閉じる、突く、開く。
腱の奥に染み付いたリズムが、静かに動き始めた。
個体が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その輪郭が揺れている。左半身の形が定まらない。地面に触れる足の数が、見るたびに変わる。
完成しなかった何かが、こちらへ向かってくる。
春山は動かなかった。




