第58話 1フレームの未来
システムが、起動し続けていた。
オーバーレイに流れ込む情報が、少しずつ整理されていく。最初の洪水のような通知が落ち着いて、個別の状態が読み取れるようになってきた。
温度。43度。下がっている。
冷却ファンの回転数。正常範囲に戻りつつある。
データの流れ。棚のスロットからメインコンソールへ、メインコンソールから外部へ。流れが、再開されている。
演算装置の状態を確認した。
動いていた。
停止前と同じ状態ではない。処理速度が、以前より低い。
しかし動いている。負荷が下がった状態で、処理を再開している。パージによってメモリが解放された分、演算装置への負荷が減っている。
これなら、持つかもしれない。
春山はフィルターで演算装置の状態を詳しく確認した。損傷の範囲。処理能力の残量。先人たちが何度も交換してきた部品の状態。
動いている。
それだけで、今は十分だ。
「春山さん」
ライカが、隣に膝をついたまま言った。
「腕、大丈夫ですか」
「……感覚が戻ってきています」
戻ってきている、ということは、痛みも戻ってきているということだ。左腕の内側が、じわじわと熱を持ち始めていた。表面の赤みは、触れなくても熱さとして感じられる。
「立てそうですか」
「もう少し待ってください」
ライカが頷いた。急かさなかった。
春山はオーバーレイを確認し続けた。
再起動が完了した、というのは確認できた。
しかし完了した結果、システムがどういう状態になったのかを把握する必要がある。再起動前と何が変わったか。変わっていないことは何か。
データの流れを追った。
変化があった。
演算装置の処理速度は、損傷の影響で再起動前より落ちている。
しかしパージでメモリが解放されたことで、データの詰まりが解消されている。処理速度が落ちても、負荷が減った分だけ流れが安定している。棚のスロットから演算装置へ、演算装置からメインコンソールへ、メインコンソールから外部へ。各段階での滞留が、以前より小さい。
ラグが、減っている。
外部への出力を確認した。
魔力として世界に出力されているデータの量が、再起動前と変わっていた。量は減っている。
しかし質が違う。以前は不安定だった出力が、一定になっている。処理能力が追いついているから、出力が安定している。
「ライカさん」
「はい」
「魔力の感触は、どうですか」
ライカが目を閉じた。確認している。少し間があった。
「なんか、変わった気がします」
「どんなふうに」
「以前より、少し弱い気がします。でも、ぼんやりしてた感じが、なくなった。輪郭がはっきりした、みたいな」
「そうですか」
「悪い変化じゃないと思います。なんか、ちゃんとそこにある感じがします」
春山はオーバーレイの出力データを見た。量より質が上がった、という変化は、ライカが感じた感触と一致していた。
ラグのない出力。
それが、再起動後の世界の魔力だ。
春山は立ち上がろうとした。
左腕を床につこうとして、やめた。痛みがある。右腕で体を支えて、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、少し震えた。
疲労だ。いつから床に膝をついていたのかを確認しようとして、時間の感覚が曖昧になっていることに気づいた。サーバー室に落下してから、どのくらい経っているのか。
「すみません、手を貸してもらえますか」
ライカに伝える。
ライカが立ち上がって、春山の右腕を支えた。春山はその手を借りて、完全に立ち上がった。
立つと、空間が違って見えた。
非常灯の橙色だけだった光に、柱からの青白い光が加わっている。再起動した柱が、層を伝って光を広げている。天井のケーブルが明滅している。冷却ファンが回っている。水が蒸発する音は、もうしない。温度が下がったことで、蒸発が止まっている。
「きれいですね」
「そうですか」
「さっきより、きれいに見えます。止まってたものが動き始めた感じがして」
春山はオーバーレイで温度を確認した。
38度。
まだ高いが、下がり続けている。冷却が正常に機能していれば、時間とともに安定する。
「終わりましたか。本当に」
ライカが春山を見た。
春山はオーバーレイを閉じた。
「終わりました」
「再起動、できたんですね」
「そうです」
ライカが息を吐いた。
長い息だった。胸に溜まっていたものが、一度に出ていくような。
春山はその息を聞きながら、自分の左腕を見た。袖をめくったままだ。赤みが、腕の内側に沿って残っている。触れると熱い。
しかし皮膚の表面だけだ。深くはない。時間が経てば、引く。
引き継ぎの金属板に書いてあった。
THE REST IS YOURS。
続きはあなたに任せる。
春山はその言葉を思い出した。
金属板の文字の刻み方を思い出した。細く、均一で、1字1字に時間をかけた跡があった。書いた人間の手が、どんな手だったかは分からない。
しかし同じように、暗い空間で、工具を持って、できる範囲で手を動かした人間の手だったはずだ。
今、春山の左腕の内側に赤みが残っている。工具の代わりに、自分の腕を使った跡だ。
形は違う。しかし同じ場所で、同じシステムに向き合った跡だ。
任された続きを、やった。完璧ではない。先人たちができなかったことを、全部解決したわけではない。
しかし再起動した。システムが動いている。ラグが減った。それだけは、確かだ。
「ライカさん」
「はい」
「上に戻れるはずです。経路を確認します」
「もう動けるんですか、春山さん」
「少し待てば動けます」
「じゃあ、少し休憩しましょう」
ライカが柱の近くの壁に背を預けた。床に腰を下ろした。膝を抱えた。
春山の左側に座っていた。赤みの残っている側だ。
しかし体を寄せるのではなく、こぶし1つ分ほどの隙間を空けていた。気遣っているのか、それとも別の理由があるのか、春山には判断がつかなかった。
春山もその隣の壁に背を預けた。立ったまま、壁に寄りかかった。
2人とも、しばらく何も言わなかった。ライカの視線が、時おり春山の袖口に向いていることは、気配でわかった。
しかし何も言わなかった。春山も、何も言わなかった。
柱の光が、一定のリズムで揺れている。冷却ファンが、安定した音を刻んでいる。システムが、静かに動いている。
「春山さん」
「はい」
「ここに来て、どのくらい経ちましたか」
「正確には分かりません。かなり経っていると思います」
「外では、どうなってるんですかね」
「通信が途絶しているので、確認できていません。ただ」
「ただ」
「システムが止まっていた間、外でも何かが起きたはずです。魔法が消えた。ダンジョンの機能が止まった。それが、外にいる人間にどう見えたか」
ライカが少し考えた。
「本田さん、心配してますかね」
「していると思います」
「ユウリとセイラも」
「そうですね」
「怒られるかな、私」
「可能性はあります」
ライカが小さく笑った。疲れた笑い方だったが、本物の笑い方だった。
「怒られてもいいです。帰れるなら」
「帰れます」
「本当ですか」
ライカが少し笑った。
「春山さんが断言するの、珍しいですね」
「……そうですか」
ライカが頷いた。膝を抱えたまま、柱の光を見ていた。
「聞いていいですか」
ライカが問いかける。
「何ですか」
「春山さんは、これからどうするんですか」
「どうする、というのは」
「このシステムのことです。再起動したけど、また壊れる可能性はありますよね」
「あります。パージでメモリは解放しましたが、またデータが蓄積すれば、同じことが繰り返されます」
「じゃあ、また来るんですか」
春山は少し考えた。
また来る、という選択肢は、頭の中にあった。このシステムの構造を、今自分ほど把握している人間はいない。先人たちが残した記録と、今回の作業で得た知識がある。
次に来るときは、もっと効率的にできる。
しかし来るかどうかは、今決めることではない。
「分かりません。ただ、放置はしません」
「放置しない、というのは」
「記録を残します。今回やったことを、先人たちがパネルに刻んだように。次に来る人間が使えるように」
ライカが春山を見た。
「次に来る人間」
「私かもしれませんし、別の誰かかもしれません」
ライカが少し黙った。膝を抱えたまま、柱の光を見ていた。
何かを考えているのか、ただ光を見ているのか、判断がつかなかった。
「……一緒に来ていいですか」
「……構いません」
春山は少し間を置いた。
「次は、もう少しマシな工具を持ってくることにします」
ライカが春山を見た。少し目を丸くした。
それから、また笑った。今度は疲れた笑い方ではなかった。
「約束ですよ」
「ええ」
しばらくの間、そのままでいた。
春山の左腕の痛みが、少し落ち着いた。完全には引かないが、動けないほどではない。
フィルターで自分の状態を確認した。オーバーレイの表示が、安定している。座標が正確に出ている。温度計測が動いている。
室温、31度。
まだ高いが、許容範囲に近づいている。
「行きましょうか」
春山はライカに伝える。
ライカが立ち上がった。少し膝をふらつかせたが、すぐに立った。
「経路は」
「来た道を戻ります。上り坂の通路、棚の通路、落下してきた場所の近くに、上へ続く経路があるはずです。フィルターで確認します」
「それじゃあ、着いていきますね」
2人は歩き始めた。
メインコンソールの脇を抜けた。柱の周囲、液面が静かに光を反射している。天井から垂れるケーブルの束が、明滅している。
春山は歩きながら、柱を見た。
再起動した柱が、静かに動いている。出力が安定している。ラグがない。世界への出力が、以前より確かな形で流れている。
先人たちが終わらせられなかったことを、終わらせた。
完璧ではない。また何かが起きるかもしれない。
しかしこの瞬間、システムは動いている。ラグのない形で、世界に向かって出力し続けている。
それで十分だ、と春山は思った。
上り坂の通路に入った。傾斜が始まった。足を踏み出すたびに、床が確かな感触を返してくる。フィルターなしの、物理的な感触だ。
「重いですね」
「傾斜があります」
「そういう意味じゃなくて」
ライカは少し笑みをこぼしつつ肩をすくめる。
「なんか、全部が重く感じます。足とか、腕とか。さっきまでと、感触が違う」
「ラグが減ったからだと思います」
「ラグが減ったから?」
「判定の精度が上がれば、リアルに近くなります。リアルは、思っていたより重いかもしれません」
ライカが少しの間、黙った。
「それって、いいことですか」
「私はそう思います」
「重くても」
「重くても」
ライカが頷いた。
歩きながら、足元を確認するように、1歩ずつ踏み出していた。
棚の通路に出た。
非常灯の橙色が、通路を照らしている。棚のスロットの光が、再起動前より少ない。パージで削除したスロットは、光を失ったままだ。空になったスロットが、列を作っている。
春山はその列を見た。
消えた光の数が、削除したデータの量を示している。無数の、滅んだ世界の記録。夏の川辺の家族が、その中にある。
しかし棚は静かだった。
残ったスロットの光が、安定したリズムで点滅している。データの循環が、正常に動いている。
「スロット、減りましたね」
「……ええ」
ライカが通路の棚を見渡した。
空になったスロットと、まだ光っているスロットが、交互に並んでいる。
「覚えてます、全部じゃないけど」
「そうですか」
「川辺の家族。2人分の食卓。砂場の子供。夕暮れの釣り人。雨の日のアパート。冷蔵庫の絵」
春山は何も言わなかった。
「忘れません」
ライカは言った。断言だった。
春山は前を向いた。
通路の先に、上へ続く経路がある。フィルターで確認している。落下してきた場所から少し離れた位置に、段差がある。そこから上に出られる。
「行きましょう」
「はい」
2人は棚の通路を歩いた。
空になったスロットが、2人の横を通り過ぎていった。
光のない場所が続いて、また光のある場所が来た。消えたものと、残ったものが、同じ棚の中に並んでいる。
春山の左腕が、歩くたびに微かに痛んだ。
それが判定ではなく、物理的な怪我として存在していることを、春山は確かめながら歩く。
重い。しかし確かだ。
上への経路が、近づいてきた。




