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グリッチワーカー~歪んだ理のその先で、独り世界の綻びを繕う~  作者: かんぱく


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第59話 仕様の継続(ポスト・メンテナンス)

上への経路は、棚の通路の外れにあった。

段差だ。床より1メートルほど高い位置に、開口部がある。

落下してきたときに通った場所とは別の経路だが、フィルターで確認した限り、上に続いている。


春山は段差を確認した。

左腕が使いにくい。右腕だけで体を引き上げる必要がある。


「先に上がってください」

ライカに伝える。

「春山さんが先の方がいいと思います」

「なぜですか」

「上がれなかったとき、下から支えられます。私が先に上がったら、引っ張り上げられないかもしれません」

論理的だ。春山は頷いた。




段差に右手をかけた。右腕に体重を乗せて、左腕は添えるだけにした。足で壁を蹴った。体を持ち上げた。

左腕に、じわりと痛みが走った。

しかし上がれた。

開口部を抜けると、見覚えのある通路だった。壁に端子が並んでいる。管が走っている。再起動後の今は、端子の光が安定している。

振り返った。


「ライカさんも」

ライカが段差に手をかける。春山が右手を差し出した。

ライカがその手を取り、上がってきた。

2人は通路に立った。


「ここ、見覚えがあります」

「そうですね。棚の通路に続いています」

「ということは帰り道ですね」

「はい」


ライカが少し深く息を吸った。

上がってくる空気が、来たときとは違う。熱気が引いている。温度が下がっている。空調が正常に動き始めているからだ。

2人は歩き始めた。




棚の通路を抜けた。

演算装置のある部屋の前を通った。扉が開いたままだ。中を確認した。

演算装置が、動いていた。

停止前とは異なる動き方だ。処理速度が落ちている。

しかし光が戻っている。層を伝う光が、安定したリズムで流れている。

焦げた跡は残っているが、新たな損傷はない。


「動いてますね」

「ええ」

「また壊れますかね」

「負荷が下がった状態であれば、しばらくは大丈夫だと思います」

「しばらく、は」

「正確には分かりません。ただ、今すぐではない」


ライカが演算装置を見た。天井まで届く構造物が、静かに光を伝えている。

「頑張れって応援しとかないと、ですね」

春山は返答しなかった。


ライカが扉から離れた。2人は通路を歩き続けた。

補助構造物のある部屋を通った。縦長の構造物が、ファンの音を立てながら動いている。温度が下がっていることで、異音が消えていた。穏やかな機械音だけが響いていた。

防衛プログラムの痕跡が、床に残っていた。光の塊が静止していた場所に、うっすらと跡がある。今は何もいない。防衛プログラムの優先度を下げたまま、システムが再起動したことで、もう動いていない。

春山はその跡を踏まずに、脇を歩いた。




棚の通路に戻った。

来たときより、通路が違って見えた。

スロットの光が、まばらだ。パージで削除したスロットが、光を失っている。残ったスロットが、安定した光を放っている。

ライカが棚を見ながら歩いた。


「さっきも思ったんですけど」

「はい」

「残ったスロットのデータって、何が入ってるんですか」

「処理済みのシミュレーションデータが主です。再起動後のシステムが参照する可能性があるものを残しました」

「滅んだ世界の記録は、全部消えたんですか」


春山はフィルターで確認した。

「大部分は消えています。ただ、システムが参照用として最小限残した可能性があります。全部ではないかもしれません」

「消えていないものが、あるかもしれない」

「可能性はあります」


ライカが通路の棚を見渡した。光っているスロットを、1つ1つ確認するように。

「あの家族のデータが残っているかもしれないですね」

「そうかもしれません」

「だったら、いいと思います」


「無くなっても、覚えています。でも残っていたら、それはそれで」

続きを言わなかった。

春山は前を向いたまま、頷いた。




最初に来た広い空間に出た。

中央の構造物が、青白い光を伝えている。脈打つように、一定のリズムで。来たときと同じ光だ。しかし見え方が、少し違う。

止まりかけていたものが、動いている。

それを知っているから、光が違って見えるのかもしれない。

「ここから、上に戻れますか」

ライカが尋ねる。

「確認します」

春山はフィルターで上方の座標を確認した。落下してきた開口部の位置を特定する。


あった。


天井に近い位置に、開口部がある。

壁面に段差が設けられていた。おそらく先人たちが使っていた経路だ。


「あそこから上がれます」

天井近くの壁を指差した。

ライカが確認した。


「登れますか、春山さん。腕が」

「右腕が使えます。段差があるので、問題はないかと」

「無理そうだったら言ってください」

「その時は、お願いします」


2人は壁面の段差に向かった。

足をかけた。1段、2段。右腕で体を支えながら登っていく。左腕は、添えるだけだ。痛みがある。しかし動けないほどではない。

10段ほど登ったところで、開口部に手が届いた。

フィルターで向こう側を確認した。

Jブロックの床面に続いている。ダンジョンの中だ。

春山は開口部を抜けた。


冷たい空気が来た。

ダンジョンの空気だ。サーバー室とは違う、石と土の匂いが混じった冷気だ。

振り返って手を差し伸べ、ライカの手を取った。春山に続いてライカも開口部を抜けた。

2人はJブロックの床に立った。




暗かった。

ダンジョンの照明が、弱くなっていた。

来たとき、Jブロックは管理局とスペクタクル社の設営資材で明るかった。

しかし今は、ダンジョン固有の薄い燐光だけだ。設営の照明が消えている。人の気配がない。

「誰もいませんね」

「そうですね。システムが止まっていた間に、撤退したと思います」

「私たちのこと、どう思ってるんですかね。上では」

「どうでしょう」

「生きてるって、分かりますかね」

「今の時点では、分からないと思います」


ライカが少し考えた。

「早く戻らないといけないですね」

「ええ」


2人は歩き始めた。

フィルターで経路を確認しながら進む。Jブロックから遡って戻る。

歩きながら、春山はダンジョンの変化を確認していた。

壁の質感が、変わっていた。

来たときより、輪郭がはっきりしている。石の表面の粗さが、フィルター越しにより精細に見える。床を踏む感触が、重い。

1歩1歩に、確かな抵抗がある。


ラグが減った結果だ。

判定の精度が上がったことで、ダンジョンの物理的な感触が、リアルに近くなっている。

「重いですね、ここ」

「そうですか」

「足が沈む感じがします。前は、もう少し軽かった気がします」

「ラグが減った分、重くなっていると思います」

「走りにくいですね」

「そうかもしれません」

「でも」

ライカが足元を見た。

「ちゃんと踏んでる感じがします。地面を」


「悪くないです、これ」

春山は前を向いたまま、少し頷いた。




Hブロックに入った。

魔物の気配がない。

システムが再起動した直後で、魔物の生成が追いついていないのかもしれない。

あるいは、再起動後の仕様として、生成の頻度が変わったのかもしれない。確認は後でいい。


Gブロックを抜けた。

Fブロックに入ったあたりで、光が見えた。

照明だ。ダンジョンの燐光ではない。人工的な光だ。

誰かがいる。


春山はフィルターで確認した。

人影が複数ある。こちらに向かっている。


「セイラたちかも」

ライカが春山の隣に並んだ。

人影が近づいてきた。照明の光が広がった。

先頭に、ユウリがいた。その横に、セイラがいた。後ろに、本田と管理局の腕章をつけた人間が数人いた。

ユウリが立ち止まった。

「ライカ」

声が、かすれていた。

ライカが手を上げた。

「ただいまです」

ユウリが2、3歩前に出た。何かを言おうとして、言葉が出なかった。そのまま止まった。

セイラが春山を見た。眼鏡の奥の目が、春山を上から下まで確認した。左腕の袖口で止まった。

「怪我してますね」

「表面だけです」

「……そうですか」

セイラは言った。それ以上は言わなかった。しかし視線が、春山の腕から離れなかった。


管理局の人間の後ろから、本田が前に出た。スーツが、ダンジョンの中にいるには場違いなほど整っていた。

しかし顔は、いつもより硬い。


「ご無事で」

短く言った。安堵でも、責めでもない。本田らしい、事実の確認だけをする声だ。


「はい」

春山は答えた。


本田が春山の左腕を一瞥した。赤みが残っている袖口を、1秒ほど見た。それから視線を上げた。何も言わなかった。


その場で、簡単な状況確認が行われた。

春山は答えられる範囲で答えた。落下した経緯、内部の様子、脱出の経緯。詳細は省いた。今ここで全部話すべきことと、そうでないことがある。

本田は春山の話を聞きながら、メモを取らなかった。ただ聞いていた。ライカが補足を入れた。セイラはライカの隣に立って、何も言わなかった。


「お疲れ様でした」


本田が告げる。

それだけだった。

目が、一瞬だけ春山の左腕の袖口に向いた。しかし何も言わなかった。




地上に出たのは、それからさらに1時間ほど後だった。

ユウリやセイラとともに、ダンジョンの出口まで戻った。

途中、魔物に遭遇しなかった。

システム再起動の影響で、ダンジョン全体の動作が変わっていた。生成の間隔が空いている。




出口を抜けた。

外の空気が来た。

尼崎の夜の空気だ。潮の匂いが混じっている。空が暗い。時刻を確認した。午前2時を過ぎていた。


「空、きれいですね」

ライカが隣に立っていた。上を向いていた。

春山も空を見た。

雲が少ない。星が見えた。尼崎の夜空にしては、よく見える。

「そうですね」

「星って、いつもこんなにありましたっけ」

「どうでしょう、気にしたことはなかったので」

「なんか、多く見える気がします」

「まだ目が慣れていないのかもしれません。暗い場所に長くいたので」

「それだけじゃない気がします」


「なんか、前よりはっきり見えます。全部が」


春山は夜空を見た。

星の光が、確かに届いている。物理的な光として。網膜に当たる光として。


「そうかもしれません」

ライカが春山を見た。

「春山さんは、この世界、好きですか。今の」

春山は少し考えた。


「まだ分かりません」

「なんでですか」

「さっき変わったばかりです。もう少し歩いてみないと」

「歩いてみて、どうだったら好きになりますか」

「腕の痛みが引いたら、少し好きになるかもしれません」


ライカが笑った。

疲れた笑い方ではない。声が出た本物の笑い声だった。

「最悪の答えですね」

「そうですか」

「でも春山さんらしいです」

ユウリとセイラが、少し離れた場所で話していた。管理局の担当者が、無線で報告をしていた。


「また来ますよね、ダンジョン」

「仕事ですから」

「私も来ます」

「そうですか」

「……邪魔ですか?」

「邪魔ではありません」

ライカが頷いた。満足した顔だ。


「じゃあ、また」

「ええ」

ライカがユウリとセイラの方へ歩いていった。




春山は駐車場の方向を見た。

軽自動車が、端に止まっていた。20万キロを超えたメーターが、暗い中でも見えた。

左腕が、また痛んだ。

歩くたびに、微かに。しかし確実に。神経が、物理的な損傷を信号として送っている。


これが、ラグのない現実だ。

痛みがある。重さがある。空気が冷たい。潮の匂いがする。全部が、以前より確かだ。

不自由だ。

しかし、確かだ。

春山は駐車場へ向かって歩き始めた。



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