第57話 人体バイパス
暗闇の中で、春山は端子の位置を確かめ続けた。
指先が、コンソールの表面を這う。金属の感触。端子の縁。管の接続部。焼き切れた配線の断面。暗くても、触れれば分かる。目の代わりに、指先が地図を作っていく。
焼き切れた配線は、2箇所あった。
1箇所目は、電源ユニットからマザーボードへの主経路だ。熱で完全に溶断している。断面が鋭い。触れると、指先に細かい痛みがある。
2箇所目は、補助経路だ。こちらは完全には切れていない。しかし接触が不安定だ。電力を流しても、途中で途切れる可能性がある。
主経路を使う必要がある。
主経路の断面と、マザーボード側の端子の距離を確かめた。指2本分ほどの隙間がある。ここを繋げば、電力が通る。
工具があれば、予備ケーブルで繋ぐ。しかし手元にそんなものはない。
自分の手を、その隙間に置く。
断面に右手の人差し指と中指を当て、マザーボード側の端子に親指を当てる。3点を同時に接触させれば、電力の経路ができる。
ライカの魔力が電力に近い性質を持つことは、ここまでの作業で確認している。魔力を端子に流せば、それが春山の手を伝って、マザーボードに届く。
問題は、その過程で何が起きるかだ。
電力に近い魔力が、人間の手を通る。神経が、その経路になる。どの程度の電流が流れるかによって、損傷の範囲が変わる。軽ければ、痺れで済む。しかし再起動に必要な電力量は、パネルに「HIGH」と書いてあった。
軽くは済まないかもしれない。
春山はその可能性を、頭の中で確認した。確認した上で、手順を変えなかった。
他に方法がない。
「ライカさん」
「はい」
声の方向が、さっきより近かった。
1メートルほどだったのが、50センチほどになっている。暗闇の中で、ライカが近づいていた。
「お願いがあります」
「何でしょう」
「魔力を、私の腕に流してもらいます。腕からコンソールの端子まで、私の体を経由して電力を届けます」
少しの沈黙があった。
「春山さんの体を通すんですか」
「そうです」
「無事じゃすまないと思いますが」
「ええ」
「……どのくらい」
「分かりません。ただ、高い出力が必要です」
また沈黙があった。今度は少し長い。
「やりたくないです」
ライカは言った。
春山は返答しなかった。
「……やりたくないけど、やります」
ライカは続けた。
「春山さんが他に方法がないって言うなら、やります。でも、やりたくないということは言わせてください」
「……ええ」
「痛かったら、声を出してください」
「はい」
「我慢しないでください。我慢されたら、加減できません」
「分かりました」
ライカの気配が、さらに近づいた。呼吸が、はっきり聞こえる距離だ。整えようとしているが、少し速くなっていた。
春山はコンソールに向き直った。
暗闇の中で、指先で端子の位置を最終確認した。焼き切れた断面の位置。マザーボード側の端子の位置。2点の間の距離。
右手の人差し指と中指を、断面に当てた。
金属の鋭い感触が、指先に刺さるように触れた。
親指を、マザーボード側の端子に当てた。
3点、接触した。
「準備ができました」
「左腕でいいですか」
「どちらでも構いません」
ライカの手が、春山の左腕に触れた。袖の上から、肘の少し上あたりを、両手で包むように握った。
「いつでも、いいですか」
「はい」
「春山さん」
「はい」
「信じてください。私を」
春山は少し間を置いた。
「信じています」
ライカの手から、熱が来た。
最初は、温かさだった。
肘の上から、熱が広がっていく。腕の内側を伝って、手首へ、指先へ向かっていく。
温かい。温かいが、圧力がある。何かが通っていく感触だ。
指先が、熱くなった。
断面に当てた人差し指と中指から、マザーボード側の親指へ向かって、何かが走った。
その瞬間、痛みが来た。
温かさとは別の、鋭い痛みだ。神経を直接触られるような、内側から焼けるような痛みだ。指先から肘まで、一瞬で広がった。
春山は声を出さなかった。
出さなかったのではなく、出す前に意識が痛みに持っていかれた。息を吸う動作が、止まった。
「春山さん!」
ライカの声が聞こえた。遠く感じた。
「声を出してください!」
声を出せ、と頭が命令した。
しかし口が動かなかった。痛みが、神経の経路を塞いでいる。
かろうじて、息を吐いた。
「……続けてください」
声になっていたかどうか、分からなかった。
しかしライカに届いたらしい。魔力が、また来た。
2度目の方が、強かった。
指先から肘まで、内側から燃えているような感覚だ。皮膚の外側は、温かい程度だ。
しかし内側が、神経の1本1本が、電流に近い何かを伝えている感触がある。
春山は端子から手を離さなかった。
離せば、経路が切れる。経路が切れれば、最初からやり直しになる。今の状態でやり直しは、できない。
オーバーレイが、ない。
フィルターが、ない。
確認する手段が、何もない。
指先の感触だけが頼りだ。端子に触れている感触。電力が流れているかどうかを示す、わずかな熱の変化。
熱があった。
端子が、温かくなっていた。電力が届いている。
「もう少し、強くできますか」
絞り出すように言った。
ライカの手の力が、少し強くなった。
熱が、また上がった。
肘から先が、感覚を失い始めていた。痛みが、一定のレベルを超えると、痛みとして処理されなくなる。ただ、熱い。ただ、何かが通っている。
コンソールの端子が、振動した。
かすかだが、確かに振動した。
マザーボードに、電力が届いている。
暗闇の中で、何かが変わった。
音がした。
機械的な音だ。低い、起動音に近い音だ。コンソールの内部から、何かが動き始めている。
春山はその音を聞きながら、端子に触れ続けた。
肘から先の感覚が、ほとんどなかった。
痛みが、熱が、遠くなっていた。意識が、薄くなっていく感触がある。
まずい、と思った。
思ったが、手を離さなかった。
起動音が、少し大きくなった。
オーバーレイが、現れた。
システムが動き始めている。フィルターが、戻ってきた。表示がぼやけている。しかし確認できる。
POWER INPUT : DETECTED
FINAL BOOT SEQUENCE : INITIATING
PROGRESS : 99% → PROCESSING
動いている。
FINALIZINGから先に、進み始めた。
「もう少しです」
声が、掠れていた。自分の声だとわかるまでに、少し時間がかかった。
「いけます、絶対!」
耳のすぐ近くで、ライカの声がした。震えているが、力があった。
魔力が、また来た。
春山の視界が、白くなった。
痛みが、また鋭くなった。しかし今度は、別の感触も混じっていた。
温かさだ。
ライカの手のひらの温かさが、腕を通して伝わってくる。魔力と一緒に、体温が伝わってくる。電力に近い何かと、人間の温度が、同じ経路を通っている。
春山はその感触を、意識の端で確かめた。
オーバーレイの進捗が、動いていた。
99.1%。
99.3%。
99.5%。
遅い。しかし動いている。
視界が、また白くなった。
意識が、薄くなっていく。
まずい。このままでは、完了を確認する前に意識が落ちる。
数値を見続けた。
99.7%。
ライカの手が、少し震えていた。魔力の残量が、限界に近づいているのかもしれない。
「もう少しです。あと少しだけ」
自分でも、声が出ているかどうかわからなかった。
しかしライカの手が、また力を込めた。震えたまま、しかし離さなかった。
99.8%。
99.9%。
春山の意識が、端に寄った。
端子に触れている指先の感触だけが、はっきりしていた。それ以外が、遠くなっていた。
「春山さん!」
ライカの声が、耳の近くで聞こえた。
「もう少しだから」
低い声だった。春山に言っているのか、自分に言っているのか、どちらともとれた。
100%。
FINAL BOOT SEQUENCE : COMPLETE
SYSTEM RESTART : INITIATING
春山は端子から手を離した。
それから、オーバーレイが爆発するように広がった。
システム通知が、一斉に流れ込んできた。棚のスロットの状態、温度、データの流れ、冷却系統の復旧状況。止まっていた間に積み上がった処理待ちの情報が、一度に展開される。辞書登録の再接続。フィルターの再起動。座標の再取得。普段は意識しない情報の洪水が、春山の視界を埋め尽くした。
目が痛くなるほどの情報量だった。
しかし確かに、戻ってきていた。
柱の光が、戻った。
青白い光が、層を伝って広がっていく。天井から垂れるケーブルの束が、明滅を始めた。重低音が、低いところから戻ってきた。冷却ファンが、回り始めた。空調の音が、戻ってきた。
非常灯が、点いた。
橙色の光が、空間を照らした。
春山は床に膝をついていた。
いつ膝をついたのか、分からなかった。気づいたら、そうなっていた。
腕が、重かった。肘から先の感覚が、まだ戻っていない。腕を持ち上げようとしたが、思うように動かなかった。
「春山さん」
ライカが、隣に膝をついていた。
春山の左腕を、両手で支えていた。顔色が白い。唇が乾いている。しかし目が、しっかりしていた。
「腕、見せてください」
春山は左腕を差し出した。
袖をめくった。ライカの手が、そっと触れた。赤くなっていた。腕の内側に沿って、筋状に赤みが出ていた。表面の損傷だ。深くはない。
しかし痛みは、感覚が戻れば来るだろう。
「ごめんなさい」
ライカが謝罪を口にする。
「謝らなくていいです」
「でも」
「お願いしたのは私です。ライカさんがやったことは、正しかった」
ライカが春山の腕から手を離さなかった。支えたまま、俯いた。
その手が、まだ震えていた。魔力を使い切った後の震えとは、少し違う。
春山には分かった。
怖かったのだ。
痛がる春山の隣で、それでも手を離さなかった人間の、後から来る震えだ。
春山はその震えを、黙って受け取った。
しばらく、2人とも動かなかった。
冷却ファンが回っている。空調が動いている。システムが、戻ってきている。
「魔力」
「戻ってきました」
「そうですか」
「さっき言うように、言われてたので」
「ありがとうございます」
春山はオーバーレイを確認しようとした。フィルターが、ぼんやりと展開された。まだ安定していない。しかし読み取れた。
SYSTEM RESTART : COMPLETE
ALL FUNCTIONS : NORMALIZING
TEMPERATURE : DECREASING
温度が、下がっていた。
49度。
47度。
数値が動いている。冷却が、正常に機能し始めている。
「終わりましたか」
「システムは、再起動しました」
「……よかった」
ライカが顔を上げた。非常灯の橙色が、ライカの顔を照らしていた。疲労の色が、はっきりと出ていた。しかし笑っていた。
弱い笑い方だったが、笑っていた。
春山はその顔を見た。
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
ありがとうございます、と言うべきかもしれない。
しかしその言葉が、今感じていることに対して、少し小さい気がした。
「……立てますか」
ライカが尋ねる。
「……少し待ってください」
2人は床に膝をついたまま、しばらくそのままでいた。
システムが、静かに起動し続けていた。




