第56話 シャットダウンの静寂
「一度、全部止めます」
春山は言った。
ライカが春山を見た。
「全部、というのは」
「このシステム全体です。再起動を完遂させるためには、電力の経路を確保してから改めて起動する必要があります。今の状態のまま進めても、FINALIZINGから先に進めない」
「止めたら、どうなりますか」
「ダンジョンの機能が止まります。魔法が止まります。スキルも、ステータス画面も、全部消えます」
ライカが少し間を置いた。
「私の魔力も」
「止まると思います。システムが出力を止めれば、その出力に依存しているものは全部消える」
「どのくらいの時間ですか」
「分かりません。電力の経路を確保して、再起動が完了するまでです。数秒から、もっとかかるかもしれない」
ライカが柱を見た。FINALIZINGで止まったまま、光が揺れている。水が床を広がり続けている。
「止めなかったら、どうなりますか」
「電力不足のまま時間が経てば、システムが再び緊急停止に向かいます。そうなれば、また最初からやり直しになる。今度は間に合わない可能性が高い」
「間に合わない……」
「水がコンソールに達してショートが起きます。そうなると論理での対処ができなくなります」
ライカが床を見た。水が、コンソールの底部に触れている。じわじわと、広がっている。
春山はオーバーレイを展開した。
シャットダウンのコマンドを探す。通常の停止手順ではない。緊急停止とも違う。システム全体を、制御された形で完全停止させるコマンドだ。
メインコンソールの深い層に、それはあった。
先人たちが使った形跡がある。CYCLEの数値が刻まれたパネルの記録と、同じ形式だ。過去に何度か、同じ手順が実行されていた。保守作業の一環として。
入力端子に指先を当てた。
コマンドを入力した。
確認のダイアログが現れた。
INITIATE FULL SYSTEM SHUTDOWN?
ALL OUTPUT WILL CEASE.
MAGIC FIELD : OFF
SKILL INTERFACE : OFF
DUNGEON STRUCTURE : SUSPENDED
CONFIRM : YES / NO
春山はYESの端子を押した。
SHUTDOWN SEQUENCE : INITIATED
COUNTDOWN : 10
カウントダウンが始まった。
9。
柱の光が、弱くなり始めた。層を伝っていた青白い光が、端から順に消えていく。
8。
天井から垂れるケーブルの束の明滅が、遅くなった。
7。
重低音が、下がった。振動が、弱くなった。足の裏から伝わっていた感触が、薄れていく。
「消えていきますね」
ライカが小さく言った。
6。
ライカが自分の手を見た。手のひらを開いて、閉じた。
「魔力が、引いていく感じがします」
「そうですか」
「こういう感覚、初めてです」
春山の方を向かずに言った。
「生まれてから一度もなかった」
5。
春山はカウントダウンを見ながら、ライカの横顔を確認した。
怖がっているわけではない。ただ、何かが変わっていく感触を、正確に受け取っている顔だ。
4。
冷却ファンの音が、止まった。空調が、止まった。空間が静かになった。これまで常に背景にあった機械音が、消えた。
3。
非常灯が、消えた。
完全な暗闇になった。
2。
春山は何も見えない中で、端子に当てた指先だけを意識した。最後の入力が必要になるまで、この位置を保持する。
1。
SHUTDOWN COMPLETE
ALL SYSTEMS : OFFLINE
0になった。
静かだった。
完全な静寂だった。
機械音がない。データの流れがない。重低音がない。振動がない。光がない。
春山のオーバーレイが、消えた。
フィルターが、消えた。
メニューを開こうとした。開かなかった。スキル画面がない。何もない。
春山は暗闇の中に立っていた。
目が慣れるのを待った。非常灯も消えた今、光源が何もない。目が慣れても、見えるものはないかもしれない。
「春山さん」
ライカの声が、暗闇から聞こえた。
「ここに」
「よかった」
少しの間があった。
「真っ暗ですね」
「そうですね」
「魔力の感覚、消えました」
「そうですか」
「こんなに静かなダンジョン、初めてです」
春山は何も言わなかった。
暗闇の中で、自分の呼吸が聞こえた。ライカの呼吸が聞こえた。水が床を流れる、かすかな音が聞こえた。それだけだった。
「怖くないですか」
ライカが尋ねる。
「何がですか」
「真っ暗で、何も見えなくて、スキルも魔力も使えなくて」
春山は少し考えた。
「怖いとは思いません。状況は変わっていません。やることも変わっていません」
「私は少し怖いです」
「そうですか」
「怖い、って言っていいですか。春山さんに」
「構いません」
ライカが息を吐いた。
暗闇の中で、その音がよく聞こえた。
「怖いです。魔力がなくて、何もできなくて、真っ暗で。でも」
「でも」
「春山さんの声が聞こえるから、大丈夫です」
春山は返答しなかった。
暗闇の中で、返答の言葉を探した。
しかし見つからなかった。見つからないまま、少しの時間が流れた。
「春山さんは、怖くないんですか。本当に」
「本当に、怖くはありません」
「なんでですか」
春山はもう少し考えた。
「暗くて、何も見えなくて、スキルが使えない。それは事実です。しかしやることは変わらない。電力の経路を確保して、再起動する。それだけです。見えなくても、手順は頭の中にある」
「手順があれば、怖くない」
「そうです」
「羨ましいですね、それ」
「私には手順がないから」
「あります」
「え」
「私の隣にいて、何かあれば動く。それがライカさんの手順です。ここまで、そうしてきたじゃないですか」
暗闇の中で、ライカが黙った。
しばらくして、小さく笑う気配がした。声ではなく、気配だ。暗闇の中で、それでも分かった。
「確かに、そうしてきました」
水の音が、少し大きくなった。
チャプ、と音がした。チャプ、またチャプ。
さっきより近い。さっきより高い音だ。
水位が上がっている。暗くて目では確認できないが、音が教えてくる。
靴の甲に、冷たいものが触れた。
水だ。床を広がってきた水が、春山の足元まで届いていた。薄い、膜のような冷たさだ。しかし確実にそこにある。フィルターなしの、物理的な現実として。
コンソールに、水が触れている。端子に水が届けば、ショートする。ショートすれば、直接入力端子も死ぬ。そうなれば、もう経路がない。
時間が、削られている。
「春山さん」
「はい」
「次は何をするんですか」
「電力の経路を確保します。物理的な作業が必要です」
「私は何をすればいいですか」
「隣にいてください。それと」
「それと」
春山は少し間を置いた。
「魔力が戻ったら、教えてください」
「戻りますか、魔力」
「システムが再起動すれば、戻ります」
「再起動したら、分かりますか。魔力が戻ったかどうか」
「感覚で分かると思います。引いていく感じがした、とのことでしたから」
「なるほど」
ライカが続ける。
「戻ってきたら、言います」
「お願いします」
暗闇の中で、2人の呼吸が重なっていた。
水の音が続いている。機械の音は何もない。世界の音が、止まっている。
春山は暗闇の中で、コンソールの位置を確認した。目では見えない。
しかし手順は頭の中にある。どこに端子があるか、どこに焼き切れた配線があるか、どこに直接入力端子があるか。
暗くても、わかる。
「行きます」
春山は暗闇の中で、コンソールに向かって手を伸ばした。
指先が、金属の感触を捉えた。
冷たい。水が触れている部分は、少し湿っていた。
端子の位置を、指先で確かめた。1つ、2つ、3つ。焼き切れた配線の端を探した。
あった。
断面が、指先に当たった。熱で溶けた金属の、鋭い断面だ。
春山は断面の位置を確かめた。もう片方の端子の位置を確かめた。
2つの端子の間に、自分の手を置く。
それが、唯一の方法だ。
「ライカさん」
「はい」
「もう少し、待ってください」
暗闇の中で、ライカの気配が近くにあった。
足音ではない。呼吸だ。
春山の右後ろから、規則的な呼吸が聞こえていた。速くはない。意識して、整えている呼吸だ。怖いと言っていたのに、乱れていない。
それから、わずかな温度だ。暗闇の冷気の中で、人間がそこにいることで生じる、ごくわずかな温かさ。春山の感覚が、普段は気にも留めないその温度を、今は確かに拾っていた。
春山は深く息を吸った。
次に何が起きるかは、分かっている。
手順は、頭の中にある。




