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グリッチワーカー~歪んだ理のその先で、独り世界の綻びを繕う~  作者: かんぱく


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第54話 不要ログのパージ

選択画面が、展開されたままだった。

削除対象の一覧が、オーバーレイに並んでいる。

未処理の計算結果データ、エラーで停止したシミュレーションの断片、そして日常の記録データ。3種類に分類されている。

それぞれの容量が、数値で示されている。

日常の記録データの容量が、圧倒的に大きい。

他の2種類を合わせても、日常の記録データの1割にも満たない。棚のスロットを埋め尽くしている膨大な記録が、そのままメモリを圧迫している。熱の原因の大部分が、ここにある。


未処理データとエラーデータだけを削除した場合の、負荷軽減の見込みを計算した。

10%程度だ。

温度への影響は、誤差の範囲に近い。

日常の記録データを含めた場合の見込みを計算した。


70%を超える。

数字が、答えを示していた。


春山は選択画面を見たまま、動かなかった。

動けないわけではない。手順は分かっている。選択を確定して、実行コマンドを入力する。それだけだ。

しかし指先が、次の動作に進まなかった。

氷の壁が、また軋んだ。

溶けている。時間が削られている。

それでも、春山は動かなかった。




「春山さん」

ライカが壁から手を離して、隣に立った。

顔色はまだ白い。しかし目は、しっかりしていた。

「止まってますね」

「……ええ」

「珍しい」

「そうですか」

「いつもは判断が早いのに」

ライカは言った。責めている声ではない。ただ、観察している。


春山はオーバーレイの選択画面を見た。

日常の記録データ。夏の川辺の家族。2人分の食卓。砂場の子供。

それだけではない。棚のスロットを埋め尽くしている無数のデータが、ここに一覧として並んでいる。容量の数値として。削除対象の候補として。


「消したら、戻せません」

春山は言った。ライカに向けた言葉ではなく、自分に向けた確認だった。

「そうですね」

ライカが答える。

「このデータが何かは、分かっています。滅んだ世界の最後の記録です。誰かが笑っていた記録で、誰かが食事をしていた記録で、誰かが子供と遊んでいた記録です」

ライカは短く頷いた。

「それを削除することが、正しい判断だということも、分かっています」

「……はい」

「分かっていても」


春山は続けられなかった。

続ける言葉が、出てこなかった。正確には、出ているのに、口にすることに意味を見出せなかった。

分かっている。やるべきことは分かっている。それでも指が動かない、という事実を言語化することに、何の意味があるのか。

ライカが春山の横顔を見た。


「指、震えてますよ」

春山は自分の右手を見た。

震えていた。わずかだが、確かに。




春山は手を下ろした。

オーバーレイを閉じなかった。選択画面は展開されたままだ。

しかし一度、手を下ろした。

「前の仕事でも、似たようなことがありました」

春山は言った。

ライカが何も言わずに聞いた。

「物流センターのシステムに、長年蓄積されたログがありました。エラーログ、アクセスログ、処理の記録。古いものは参照されなくなっていた。容量を圧迫していた。削除すべきだということは、最初から分かっていました」

「でも、できなかった」

「時間がかかりました。ログの1つ1つに、誰かの作業の跡があった。エラーを修正した人間の跡、対処を考えた人間の跡。データとしては不要でも、誰かがそこで何かをしたという記録です」

「結局、どうしたんですか」

「削除しました。仕事でしたから」

ライカが少し間を置いた。


「今回は、仕事じゃないですよね」

「はい」

「でも、やるんですよね」

春山はオーバーレイに向き直った。選択画面が、まだ展開されている。

「やります」

「なんで」

春山は少し考えた。


「このシステムが止まれば、私たちの世界もおそらく止まります。データを残したまま世界が終わるより、データを消して世界が続く方がいい。そう判断しています」

「判断はしているけど、指が震えた」

「そうです」

ライカが頷いた。

「それでいいと思います」

ライカが返す。

春山はライカを見た。


「震えないまま消せる人間より、震えながら消す人間の方が、ちゃんと分かってる気がします。何を消してるのか」

春山は返答しなかった。

返答の言葉が見つからなかった。

しかしライカが言ったことは、何か春山の中で固まっていたものを、少し動かした。




「1つ、お願いがあります」



「何ですか」

「削除する前に、私に見せてもらえますか。本物の映像は見えないのは分かってます。でも、春山さんが読み取ったものを、教えてもらえませんか。どんなデータが消えるのか」

「全部は伝えられません。量が多すぎる」

「全部じゃなくていいです。春山さんが見たもので、印象に残ってるものだけ」


春山はフィルターで棚のデータを流し見した。

削除対象に含まれているもの。日常の記録。棚のスロットを埋め尽くしている無数の断片。




「夏の川辺の家族です。父親がスイカを切っていて、子供たちが歓声を上げていました。母親が笑っていました。女の子が川の方へ走り出して、父親が慌てて立ち上がる場面がありました」

ライカが目を閉じた。

「他には」

「2人分の食卓です。茶碗と味噌汁と焼き魚。箸が2膳。誰のものかは分かりません」

「他には」

「砂場で遊んでいる子供です。膝に泥がついていました。カメラの方を向いて笑っていました」

ライカが目を開けた。

「覚えました」

短く言った。

「他にも、たくさんあります」

「全部、教えてもらえますか。削除が終わるまで」

「時間がかかります」

「構いません」


「私が全部、覚えておきます。だから教えてください」


春山はライカを見た。

20歳の探索者が、世界の底で、消えていくデータの証人になろうとしていた。

スペクタクル社のAランク探索者でも、配信者でもない。

ただの20歳の女の子が、暗いサーバー室で目を閉じて、春山の声を聞いていた。




「分かりました」

春山はオーバーレイに向き直った。

削除対象のデータを、1つずつ読み取り始めた。読み取りながら、ライカに伝えた。


夕暮れの海岸で、老人が1人、釣り糸を垂らしていた。

小さなアパートの窓から、雨の日の街が見えていた。

子供が描いた絵が、冷蔵庫に貼ってあった。太陽と、家と、棒人間が3人。


ライカは目を閉じたまま、黙って聞いていた。

春山は読み上げ続けた。

声が、少し変わっていることに気づいた。淡々としていたはずの声が、どこか違う。自分でも、うまく説明できない変化だった。


10分ほどかかった。

読み取れた範囲で、春山はライカに伝え続けた。

ライカは1度も口を挟まなかった。ただ、聞いていた。




「ありがとうございます」

ライカが目を開けた。

「覚えましたか」

「全部は無理です」


「でも、覚えようとしました。それで十分だと思います」


春山はオーバーレイに向き直った。

選択画面が、まだ展開されている。


「やります」


春山は選択を確定した。

実行コマンドの入力端子に、指先を当てた。

確認のダイアログが現れた。


DELETE SELECTED DATA?

THIS ACTION CANNOT BE UNDONE.

CONFIRM : YES / NO


春山はYESの端子を押した。


DELETING...


オーバーレイの中で、データが消えていった。

棚のスロットの光が、1つずつ落ちていく。遠くから見れば、夜空の星が消えていくように見えるかもしれない。



音が、聞こえた。



カチッ、と小さな音が、棚の方向から響いた。また、カチッ。また、カチッ。不規則に、しかし止まらない。スロットのアクセスが切れるたびに、物理的な接続が1つずつ落ちていく音だ。静まり返った空間の中で、その音だけが続いていた。

ライカには、スロットの光は見えない。しかし音は聞こえているはずだ。

それでもライカは、春山の隣に立っていた。目を開けたまま、前を向いていた。

その視線が、静かに動いていた。春山が読み上げた暗闇の一角を、まるでそこに誰かが立っているかのように、1人ずつ見送るように。川辺の家族がいた方向へ。食卓のあった方向へ。砂場の子供がいた方向へ。


削除が、続いていた。

氷の壁がまた軋んだ。今度は大きい音だった。亀裂が入っている。もうすぐ崩れる。

しかし温度のフィルター表示が、少しずつ動き始めていた。


63度。


62度。


下がっている。

削除が、効いている。

春山は削除の完了を待ちながら、ライカの方を見なかった。見なくても、隣にいることは分かった。


61度。



データが、消えていく。



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