第53話 物理的限界(サーマル・ランウェイ)
結露が、ひどくなっていた。
天井から水滴が落ちている。一定の間隔ではない。あちこちから、不規則に落ちてくる。床に当たるたびに、小さな蒸気が上がる。視界の下の方が、白く濁っている。
春山はフィルターで端子の状態を確認した。
壁面の端子に、水滴がかかり始めているものがある。今のところ、ショートは起きていない。
しかし時間の問題だ。水滴が端子の接続部に届けば、電気的な短絡が起きる。短絡が連鎖すれば、春山の論理的な操作が届かない領域で、システムが壊れ始める。
物理的な破壊は、オーバーレイでは止められない。
「結露がひどくなってきました」
「これ、まずいですよね」
「端子に水がかかるとショートします。ショートが連鎖すると、制御できなくなります」
ライカが天井を見上げた。水滴が、また1つ落ちた。床で蒸発した。
「どうしますか」
春山はフィルターで空間全体を確認した。結露が発生している範囲、端子の密度が高い場所、水滴の落下方向。
問題は、結露の発生源が天井全体に広がっていることだ。1箇所だけを塞げば済む話ではない。空間全体の湿度が上がっている。気温差が大きいほど、結露は増える。
気温差。
柱の表面温度が高い。周囲の空気が温められる。しかし天井付近は、まだ冷えている。その差が結露を生んでいる。
解決策は2つだ。
全体の温度を下げるか、局所的に結露を止めるか。
全体の温度を下げるには時間がかかる。演算装置が止まっている今、冷却系統は補助的なものしか動いていない。
局所的に止める方が現実的だ。
「ライカさん」
「はい」
「氷魔法は使えますか」
ライカが少し間を置いた。
「使えます。ただ、細かい制御が必要なら、残量的に難しいかもしれません」
「端子の周囲だけ、結露を凍らせることはできますか」
ライカが壁面の端子を見た。水滴がかかり始めている端子を確認した。考えている顔だ。計算している。
「やってみます」
ライカが壁面に近づいた。
右腕を上げた。赤くなった皮膚が、袖の端から見えた。痛みがあるはずだが、動きに迷いがない。
魔力を細く絞った。
端子の周囲に、薄い霜が張った。水滴が凍った。白く固まって、端子の表面を覆った。
接続部への水の侵入を、氷が塞いでいる。
「できました」
「端子の接続部は生きていますか」
春山はフィルターで確認した。信号が通っている。氷が絶縁材として機能している。ショートは起きていない。
「生きています。有効です」
「他の端子も同じようにしますか」
「優先度が高い端子から順番にお願いします。全部は魔力が持たない可能性があります」
「どれが優先度高いですか」
春山はオーバーレイで端子の接続状況を確認した。再起動のプロセスに直接関わっている端子を特定する。それを優先する。
「今から順番に示します。私が指差した端子から処置してください」
「分かりました」
春山は壁面を移動しながら、端子を1つずつ指差した。
ライカが後ろからついて、魔力を絞って凍らせていく。
作業を繰り返した。
10分ほどかかった。
優先度の高い端子、12箇所。全部に薄い霜が張った。
「残量、大丈夫ですか」
「1割くらいです」
ライカが答える。声が少し乾いていた。
「まだ動けます」
「無理をしないでください」
「……してません」
春山はフィルターで端子の状態を確認した。12箇所、全部信号が通っている。
結露による短絡のリスクは、一時的に下がった。
ただし、氷は解ける。
温度が下がらない限り、時間とともに氷は溶けて、また水滴に戻る。この処置は30分も持たないかもしれない。
やはり、根本的には温度を下げなければならない。
春山は空間全体を改めて確認した。
結露の発生源は天井だ。天井付近の冷気と、柱が発する熱の気温差が原因だ。柱の温度を下げるか、天井付近の温度を上げるか。どちらも今すぐできることではない。
しかし待てない。
別のアプローチを探した。
フィルターで空間の気流を確認した。空気の動きがある。柱の熱で温められた空気が上に向かい、天井付近で冷やされて下りてくる。対流が起きている。
この対流が、結露を悪化させている。
対流を止めれば、気温差が均一化される。均一化されれば、結露の発生が遅くなる。
対流を止める方法を考えた。
空気の流れを遮断する何かが必要だ。物理的な仕切りを作る。
「ライカさん」
「はい」
「氷で、天井と床の間に薄い壁を作れますか。柱の周囲だけでいいです」
ライカが天井を見た。柱を見た。距離を測っている。
「壁、というのは」
「完全な壁でなくていい。空気の流れを遮断できれば。板状のものが数枚あれば十分です」
「高さはどのくらいですか」
「2メートルほどあれば」
ライカが魔力の残量を確認するように、少し目を閉じた。
「やってみます。ただし、長くは持ちません」
「氷が持つ時間でやるべきことをやります」
ライカが魔力を展開した。
先ほどより大きい出力だ。氷が形を作り始めた。柱の周囲、空気の流れを遮る位置に、薄い板状の氷が立ち上がった。透明だ。向こう側が透けて見える。厚みは数センチ程度だが、空気の遮断には十分だ。
4枚。柱を四方から囲むように。
対流が、緩やかになった。
フィルターで確認した。気温差が、わずかに縮まっている。結露の発生が、遅くなっている。
「効果が出てます」
振り返ると、ライカが柱の横の壁に手をついていた。
膝が、わずかに折れかけていた。気づかれないようにしているのか、春山が振り返った瞬間に背筋を伸ばした。
しかし顔色が、先ほどより白い。唇が乾いている。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
即答だった。
「少し、使いすぎました」
「座れますか」
「座ったら、立てなくなりそうなので、立ってます」
強がりではない。自分の状態を正確に把握した上での判断だ。
春山はそれ以上は言わなかった。
「これ、どのくらい持ちますか」
「温度次第です。柱の表面温度が下がらなければ、20分から30分だと思います」
「その間にどうしますか」
「再起動の続きを進めます。パージが必要です」
「パージ」
「メモリを解放するために、蓄積したデータの一部を削除します。負荷が下がれば、温度も下がります」
ライカが春山を見た。
「一部、というのは」
「失敗データです。棚のスロットに収まっているシミュレーションの記録を、削除します」
「あの家族のデータも」
春山は少し間を置いた。
「対象になり得ます」
ライカが柱を見た。氷の壁越しに、青白い光が透けて見えている。
「削除したら、戻せませんか」
「戻せません」
「……そうですか」
ライカは短く言った。それ以上は言わなかった。
春山はその沈黙の意味を、今は問わなかった。問う時間がない。
春山はメインコンソールに向き直った。
パージの手順を確認する。
削除対象の選択方法、実行コマンド、確認ステップ。手順は把握している。問題は、何を削除するかの判断だ。
全部を消せば、負荷は確実に下がる。
しかし棚のスロットに収まっているデータの中に、再起動後のシステムが必要とするものが含まれている可能性がある。必要なものまで消せば、再起動後に別の問題が起きる。
必要なものと、不要なものを分けなければならない。
フィルターで棚のデータ構造を確認した。
分類が見えてきた。
日常の記録データと、シミュレーションの計算結果データに大別される。
シミュレーションの計算結果は、さらに細かく分かれている。処理済みのものと、未処理のものと、エラーで停止したものと。
処理済みの計算結果は、再起動後も参照される可能性がある。削除対象から外す。
未処理のものとエラーで停止したものは、再起動後に改めて処理されるか、あるいは不要と判断されるものだ。こちらが削除対象になる。
日常の記録データは。
春山は少し手を止めた。
滅んだ世界の最後の記録だ。システムが失敗の参照用として保持し続けたものだ。
再起動後のシステムが必要とするかどうかは、分からない。
しかし熱の原因になっているのは、主にこのデータの蓄積だ。
削除すれば、負荷が大きく下がる。
削除しなければ、温度が下がらない可能性がある。
春山は指先をパネルの入力端子に当てた。
削除対象の選択画面が展開された。
「春山さん」
ライカが隣に来た。
パネルを見た。選択画面を見た。
「始めるんですか」
「始めます」
「……準備、できましたか」
「……ええ」
ライカが選択画面を見た。
春山が何をしようとしているかは、もう分かっているはずだ。
「私に、できることはありますか」
「今は、待っていてください」
「それだけですか」
「それだけです」
ライカが頷いた。
春山は選択画面に向き直った。
指が、少し重かった。
判断は出ている。やることは決まっている。
しかし出ている判断と、実際に手を動かすことの間に、わずかな距離があった。
氷の壁が、軋む音を立てた。
溶け始めている。
時間がない。春山は指先に力を入れた。
選択を確定した。




