第47話 残された「遺言」
音の出所は、棚の通路の外れにあった。
通路が途切れる手前、壁に近い位置に、低い構造物があった。
横長で、高さが腰ほどしかない。表面に細かい格子状の穴が開いている。その奥で、羽根が回っている。低く、断続的に、時おり引っかかるような異音を混じえながら。
冷却ファンだ。
春山はフィルターで確認した。回転数が安定していない。規則的に落ちている。物理的な詰まりか、電力供給の問題か。どちらにしても、長くは保たない。
「これが鳴ってたんですね」
ライカが構造物の前にしゃがみ込んだ。格子の穴から中を覗こうとして、暗くて見えないと判断したのか、すぐに立ち上がった。
「止まりそうですか」
「いずれ止まると思います。今すぐではない」
「止まったらどうなりますか」
「熱が逃げなくなります。スロットのデータに影響が出る前に、対処する必要があります」
ライカが構造物を見下ろした。断続的な音が続いている。
「今できることはありますか」
「内部を確認してから判断します」
格子の穴に指を差し込んだ。羽根の付け根に触れる。指先にざらついた感触がある。
埃だ。長い時間、積もり続けたものが、羽根に絡まっている。パネルは外せない。届く範囲で、少しずつほぐすしかない。
物理的な詰まりだ
春山は指先で慎重に、埃の塊をほぐし始めた。
10分ほどかかった。
完全には取り除けなかった。格子の奥、指が届かない位置にまだ残っている。
しかしファンの回転数がわずかに上がった。断続的だった音が、少しだけ安定した。
「直りましたか」
「気休め程度です。根本的な対処ではない」
「でも、さっきよりいい音がします」
「そうですね」
室温、21度。変化なし。上昇が止まっている。
時間は買えた。
どれだけの時間かは分からない。しかし今すぐ熱暴走が起きる状況ではなくなった。
春山は立ち上がった。
通路の先を確認した。
ファンの構造物の向こう、壁に近い位置に、小さな作業台があった。さっきの広い作業台とは別のものだ。見落としていた。
近づいた。
台の上に、薄い金属板が1枚置かれていた。
他のパネルと素材が違う。棚の側面に固定されていたものより、一回り大きい。
端が丸く処理されている。持ち歩くことを想定した形状だ。
表面に、文字が刻まれていた。
春山は文字を読み取った。
英語だった。
他のパネルより文字数が多い。刻み方は細く、均一だ。急いで書いたものではない。
しかし途中から、線が微妙に乱れている。疲労か、あるいは別の何かが手元に影響していた。
TO WHOM IT MAY CONCERN :
CYCLE : 01847
THIS SYSTEM IS BEYOND OUR UNDERSTANDING.
WE TRIED TO MAINTAIN IT.
WE COULD NOT FULLY RESTORE IT.
WHAT WE KNOW :
THE DATA FLOWS TO THE CORE.
THE CORE PROCESSES AND RETURNS.
WITHOUT PROCESSING, DATA ACCUMULATES.
ACCUMULATION GENERATES HEAT.
HEAT DESTROYS.
WHAT WE COULD NOT FIX :
THE PRIMARY PROCESSOR HAS FAILED.
WE REPLACED COMPONENTS. IT RETURNED.
WE REPLACED AGAIN. IT RETURNED AGAIN.
THE FAILURE IS NOT IN THE PARTS.
THE FAILURE IS IN THE LOAD.
TO WHOEVER READS THIS :
WE DID WHAT WE COULD.
THE REST IS YOURS.
-- THE LAST MAINTENANCE LOG
春山はしばらく、金属板を見ていた。
引き継ぎ書だ。
保守記録ではない。誰かに向けて書かれた、作業の終わりの言葉だ。
自分たちには手に負えなかった。しかし誰かがここに来ることを、信じていた。だから書いた。
THE REST IS YOURS。
続きはあなたに任せる。
「何が書いてあるんですか」
ライカが隣に来ていた。金属板を見ている。春山は少し考えてから、訳した。
「このシステムは自分たちには手に負えなかった。保守しようとしたが、完全には直せなかった。分かったことと、直せなかったことが書いてあります。最後に、読んだ人間へのメッセージがある」
「メッセージ」
「自分たちにできることはやった。続きはあなたに任せる、という意味のことが書いてあります」
ライカが黙った。金属板の文字を目で追っていた。声に出さずに読んでいる。
しばらくして、ライカが口を開いた。
「直せなかったって、どの部分ですか」
「演算装置です。部品を交換しても、また壊れる。部品の問題ではなく、処理の負荷が問題だと書いてある」
「負荷が問題、というのは」
「処理すべきデータの量が、演算装置の限界を超えている。交換しても、また同じ負荷がかかれば、また壊れる」
ライカが演算装置のある方向を見た。扉の向こうだ。直接は見えない。
「じゃあ、直しても意味がないってことですか」
「負荷を下げない限り、同じことが繰り返されます」
「負荷を下げるには」
「データの量を減らすか、処理の方法を変えるか」
「データを減らすって、消すってことですか」
春山は答えなかった。
答えは出ている。しかし口にする前に、整理が必要だった。
棚のスロットに収まっている膨大なデータ。誰かの夏の記録。二人分の食事。砂場で笑う子供。それを削除することが、システムの負荷を下げる最も直接的な方法だ。
「可能性の一つとして、そうなります」
ライカの表情が変わった。怒りではない。何かに気づいた顔だ。
「さっきの家族のデータも」
「対象になり得ます」
ライカが金属板に視線を戻した。
THE REST IS YOURS。
「この人たちは」
ライカは言った。
「それをしなかったんですね」
「できなかったのか、しなかったのかは、分かりません」
「どっちだと思いますか」
春山は少し考えた。
「両方だと思います」
ライカが春山を見た。
「両方」
「削除する技術的な手段がなかった可能性もある。あったとしても、しなかった可能性もある。記録を見る限り、この人たちは長い時間をかけてここを保守し続けた。データを消すという判断が、どれほど難しかったか」
ライカが金属板から目を離した。通路の棚を見た。スロットが並んでいる。その一つ一つに、誰かの日常が収まっている。
「私には、無理だと思います。知らない人のデータでも」
「そうかもしれません」
「春山さんは」
春山は答えなかった。
答えを持っていないわけではない。
しかしその答えを、今ここで口にすることに、まだ踏ん切りがつかなかった。
ライカが金属板を手に取った。両手で持って、もう一度文字を読んだ。
「WE DID WHAT WE COULD」
声に出して読んだ。発音が正確だった。
「自分たちにできることはやった、ですよね」
「そうです」
「それって、後悔してるんですかね。それとも、納得してるんですかね」
春山は金属板を見た。刻み方が、途中から乱れている。線が細くなっている。疲れていたのか。あるいは、書きながら何かを感じていたのか。
「分かりません」
「どっちにも読めますよね」
「そうですね」
ライカが金属板を台に戻した。元の位置に、丁寧に置いた。
「春山さんって、これを読んでどう思いましたか」
「どう、というのは」
「感情的に、です。分析じゃなくて」
春山は少し間を置いた。
「先輩の引き継ぎ書だと思いました」
ライカが春山を見た。
「先輩」
「前の職場でも、似たようなものがありました。自分には直せなかった、続きは頼む、という記録が。読む側は、書いた人間のことを知らない。でも何をしようとしていたかは、分かる」
「それで、どうしたんですか。前の職場で」
「できる範囲で引き継ぎました」
「今回も、そうするつもりですか」
春山はフィルターで温度を確認した。室温、二十度。ファンの応急処置が効いている。わずかに下がっていた。
「そのつもりです」
ライカが小さく息を吐いた。
「根拠はないんですよね」
「今のところ、ありません」
「でもこの人たちより、春山さんの方が有利だと思います」
「どうしてですか」
「この人たちは、このシステムを完全には理解できないまま保守してた。でも春山さんは、仕組みが分かってきてる。それって、全然違うと思います」
春山は返答しなかった。
否定はできなかった。構造の理解という点では、先人たちよりも深いところまで来ている。
しかし理解していることと、直せることの間には、まだ大きな距離がある。
「行きましょう」
春山は言った。
「行くって、どこへ」
「データの流れを追います。演算装置が止まっている今、流れが変化している。その先に、何があるかを確認します」
ライカが頷いた。
金属板が台の上に残されている。
THE REST IS YOURS。
春山は通路の先へ向き直った。
非常灯の橙色が届かない暗がりの向こうで、ファンの音が一定のリズムを刻み続けていた。




