第46話 アーカイブの重圧
部屋を出て、また棚の通路に戻った。
春山は歩きながらオーバーレイを展開していた。データの流れを追う。
演算装置に向かう流れとは別に、棚のスロット全体を循環している流れがある。
細い。しかし途切れていない。この循環がある限り、スロットのデータは保持されている。
ライカが隣を歩いていた。さっきより黙っている。部屋での会話が、まだ尾を引いているのかもしれない。春山は特に声をかけなかった。
通路を曲がった。また棚が続く。
曲がった。また棚だ。
スロットの数を数えることはとうにやめていた。数えても意味がない。それより、中身の方が問題だ。
春山はフィルターで、通路の棚を流し見した。スロットに収まった黒い物体の一つに焦点を当てる。バイナリ解析を走らせる。
画像データだ。
屋外の風景。青い空と、白い洗濯物が干されたベランダ。洗濯物の影が、コンクリートの床に短く落ちている。夏の昼間だ。誰かが窓から外を撮った、ただそれだけの一枚。
別のスロットを確認する。
室内。食卓の上に料理が並んでいる。茶碗、味噌汁、焼き魚。箸が二膳。二人分の食事だ。
また別のスロット。
子供が砂場で遊んでいる。膝に泥がついている。カメラの方を向いて笑っている。
春山はフィルターを閉じた。
全部、誰かの日常だ。
コンテナでの解析作業で気づいていたことだ。中身が人々の日常の画像データであることは、もう分かっている。
しかし今、棚の通路に立って、スロットの数を目で追うと、それが別の重さを持って迫ってくる。
一つのスロットに、何枚のデータが入っているのか。一つの棚に、何個のスロットがあるのか。この通路に、何列の棚があるのか。
計算したくなかった。しかし頭が勝手に動く。
膨大だ。比喩ではなく、物理的に、この空間を埋め尽くすほどの量がある。
「春山さん」
ライカが立ち止まっていた。
棚の一角を見ていた。視線の先を確認する。スロットが一つ、他より強く光っている。青白い光が、脈打つように点滅している。
「これ、他と違いますね」
「そうですね」
春山はフィルターで確認した。データが活性化している。循環の流れが、このスロットに集中している。なぜここだけ、という理由はわからない。
「見られますか、中身」
「試してみます」
春山はメニューからアクセスコマンドを走らせた。
データが流れ込んできた。
画像ではなかった。
動画データだ。フレームが連続している。音声も含まれている。
オーバーレイの中に、映像が展開された。
夏だ。川沿いの公園だと思われる。木の下に、レジャーシートが広げられている。シートの上に、家族がいる。父親と母親と、小学校低学年くらいの子供が1人。女の子だ。
父親がスイカを切っている。包丁が赤い果肉に入るたびに、女の子が歓声を上げる。母親が笑いながら何かを言っている。音声が小さくて聞き取りにくい。
女の子が走り出した。川の方へ向かっている。父親が慌てて立ち上がる。母親がそれを見て、また笑う。
何でもない、夏の午後の記録だ。
春山はしばらく、その映像を見ていた。
以前コンテナで解析した、あの家族のデータだ。
コンテナで断片として見てきたデータと、映像の雰囲気が重なる。断言はできない。
しかし川辺で笑っているこの家族が、この棚のどこかに、一行のデータとして収まっている。
春山はアクセスを切った。
「何が見えてたんですか」
ライカが聞いた。スロットの光を見たまま、春山の方は向いていない。
「動画データです。家族の記録だと思います」
「私には見えないんですよね、それ」
「そうですね。フィルター越しにしか確認できません」
ライカがスロットに手を近づけた。触れる寸前で止めた。
「どんな映像でしたか」
「夏の公園です。川沿いで、家族がスイカを食べていました」
ライカが手を引いた。棚を見渡した。通路の左右、前後、見渡す限り続く棚のスロット。
「ここにあるの、全部こういうデータなんですか」
「そう思います」
「全部、誰かの」
「はい」
ライカが息を吸った。ゆっくりと、深く。
「何人分、あるんですか」
春山は答えなかった。
正確な数は分からない。
しかし棚の規模から逆算すれば、桁の見当はつく。口にすべき数字ではないと判断した。
「分かりません」
「でも、すごく多い」
「そうです」
ライカが通路の先を見た。棚が続いている。終わりが見えない。
「この人たちは、自分のデータがここにあるって知らないんですよね」
「知らないと思います」
「ずっと前から、知らないまま」
「そうだと思います」
ライカが腕を胸の前で組んだ。寒さではない。春山には分かった。
しばらく、2人とも動かなかった。
非常灯の橙色が、棚の金属を鈍く照らしている。
データの循環が、スロットの中で静かに続いている。この空間は何も変わらない。春山たちがここに来る前も、来た後も、同じように動き続けている。
春山はオーバーレイを展開し直した。
データの流れの全体像を確認する。棚から演算装置へ向かう流れ。演算装置の手前で止まっている流れ。棚の内部を循環している流れ。そして、さらに深い方向へ向かっている流れ。
深い方向への流れが、わずかに太くなっていた。
さっきより、密度が上がっている。
何かが変わり始めている。
演算装置が停止しているにもかかわらず、データの流れが変化している。どこかで、何かが動いた。
あるいは、限界に近づいている何かが、別の経路を探し始めている。
春山はフィルターで温度を確認した。
室温、21度。
さっきより2度上がっていた。
熱が上がっている。
演算装置の冷却管が潰れていた。循環が止まれば、熱は逃げない。時間の問題だ。
「ライカさん」
「はい」
「魔力残量を確認してもらえますか」
ライカが目を閉じた。少し間があった。
「3割くらいだと思います。正確には分からないですけど」
「分かりました」
「何かありましたか」
「温度が上がっています。急ぎではありませんが、長居はしない方がいい」
ライカが天井を見上げた。
「上には戻れますか」
「経路を探します。ここに来た入口が使えるかどうか、まだ分からない」
「使えなかったら」
「別の経路があるはずです。データが流れている方向に、出口がある可能性があります」
「可能性」
「はい」
ライカが小さく笑った。さっきと同じ、息が漏れるような笑い方だ。
「また可能性ですか」
「すみません」
「謝らなくていいです」
ライカが笑った。
「慣れてきました」
春山はオーバーレイで経路を確認し始めた。
データが深い方向へ流れている。その流れを遡れば、根幹に近づく。根幹の近くに、この空間の外へ続く何かがある可能性がある。演算装置が停止している今、データの流れが変化していることが、むしろ手がかりになる。
ライカが隣に立った。
「さっきの家族のデータ」
「はい」
「消えたりしませんよね」
春山は少し考えた。
「今のところ、循環は維持されています」
「今のところ」
「演算装置が止まっている状態が続けば、いずれ影響が出る可能性があります」
ライカが黙った。
「直せますか、あれ」
「調べます」
「さっきからずっと調べるか、やってみますか、可能性があります、ですよね。春山さんって」
「そうですね」
「でも全部、やる気はあるってことですよね」
春山はライカを見た。
「そうです」
ライカが頷いた。一度、短く。
「なら、いいです」
春山はオーバーレイに向き直った。データの流れを追う。深い方向へ、また深い方向へ。熱が、じわじわと上がり続けている。
棚の通路の奥で、かすかに何かが鳴った。
機械的な音だ。低く、断続的な。春山はフィルターで方向を確認した。
演算装置のある部屋ではない。もっと先だ。
「聞こえましたか」
ライカが春山に問いかける。
「聞こえました」
「何ですかね」
春山は音の方向を見た。通路の先は暗い。非常灯の橙色が届かない。
「冷却ファンだと思います」
「それが鳴るのは、良いことですか」
「悪いことではない」
「どっちですか」
「まだ分かりません」
ライカが春山の隣に並んだ。暗い通路の先を見た。
「行きますか」
春山はメニューを閉じた。
「行きましょう」




