第42話 座標跳躍(グリッチ・ジャンプ)
Iブロックに出てから、10分が経っていた。
スタッフの安否確認が終わった。ドローンの回収も済んだ。怪我人はいない。機材は一部を放棄したが、人員は全員揃っている。
本田が後方でスタッフと何かを話している。声が低い。内容は聞こえない。
ライカが通路の入口を見ていた。
暗い穴が、Iブロックの壁に空いている。照明魔石の光が届かない深さに、暗闇が続いている。
「……隔壁は、今どうなっているんですか」
ライカが問う。
「……わからない」
セイラが端末を操作しつつ答える
「中に戻る必要はありますか」
ユウリが本田に聞いた。
「今は戻らない」
本田がユウリに返す。
「状況が安定してから判断する」
春山はフィルターで通路の方向を確認していた。
隔壁から伸びている細いパスが、まだ続いている。
隔壁とライカの間の接続だ。前室を出ても切れていない。
前職でセッションの切断に失敗したサーバーが、クライアントに向けてデータを送り続けた事例があった。サーバー側が接続を維持していると認識したままになるケースだ。
今起きていることは、それに近い。
「ライカ、顔色が悪い。バイタルを確認するわ、じっとして」
セイラが端末をライカに向けた。
「魔力残量が低い。消耗が激しすぎる」
「そんなに使ったつもりはないんですけど」
「使った量より、引き出された量が多い可能性がある。しばらく魔力の使用は控えて」
ライカが頷いた。
その瞬間、ライカの足元が消えた。
一瞬だけ、足の輪郭が通路の方向に伸びた。座標が引き伸ばされるような、ノイズが走るような。遅れて体がついていった。
「え?」
ライカが足元を見た。自分の意思で動いたわけではない。
また起きた。今度は2歩分。
足の輪郭が通路の方向に瞬間的にズレて、体がそこに引き寄せられた。フィルター越しに見ると、ライカの座標が通路側の座標に断続的に上書きされている。システムがライカというオブジェクトを、別の場所に戻そうとしている。
「ライカ!」
セイラが前に出た。
ライカの腕を掴もうとした。
しかしその瞬間、空間が弾いた。音はなかった。だが明確な反発があった。セイラの体が、通路から遠ざかる方向に強制的に移動した。
「セイラ!」
ユウリが叫んだ。
セイラが床に倒れた。すぐに立ち上がろうとした。
ライカがまた引っ張られた。3歩。通路の入口に近づいている。
ユウリが前に出た。盾を構えて踏み込んだ。
弾かれた。
ユウリの体が壁まで吹き飛んだ。白銀のアーマーが壁に激突する音が響いた。
スタッフが駆け寄った。本田が前に出た。
しかし本田も、通路に向かって1歩踏み込んだ瞬間、静かに後退した。弾かれている。
ライカが引っ張られながら振り返った。
「なんで、なんで体が」
声が乱れていた。足で踏ん張っているが、じりじりと通路に向かって引かれている。
「誰か、止めて」
叫び声ではなかった。困惑と恐怖が混じった、切迫した声だった。
春山は一歩、踏み込んだ。
弾かれた。
壁まで飛ばされた。背中に衝撃があった。
春山は立ち上がって、フィルターで反発の構造を確認した。
均一ではない。前室の座標崩壊の影響で、反発の判定自体が不安定になっている。ゲームのフレームレートが落ちたとき、当たり判定の更新が遅れて壁をすり抜けるような現象がある。
あれと同じだ。判定が更新される瞬間と、次の更新までの隙間がある。その隙間が、今は広がっている。
隙間を突く。改造ではない。処理の遅れを読んで、その間に通り抜ける。
春山はウィンドウを展開した。
判定の更新周期を読む。隙間が来るタイミングを待つ。
1秒。
2秒。
判定が揺らいだ。
ウィンドウを開いた。
その瞬間に踏み込んだ。
弾かれなかった。
通路に入った。
ライカが通路の中で引っ張られ続けている。春山はライカの後を追った。
「ライカさん、ストラップを掴んでください」
ライカが振り返った。暗闇の中で、春山の声がした方向に手を伸ばした。作業ベルトのストラップに指がかかった。
「……掴みました」
「離さないでください」
通路の奥に向かって、引力が続いている。
春山もライカと一緒に引っ張られながら、フィルターで前方の座標を確認した。
前室の方向だ。床の一角に、座標の欠落がある。その欠落に向かって、ライカは引っ張られている。
欠落の先に、別の空間がある。
ライカの足が、欠落に差しかかった。
「春山さん、床が」
「わかっています」
春山はウィンドウを開いたまま、欠落の座標を確認した。フラグが不安定だ。タイミングを計算する時間はない。
ライカの足が欠落に踏み込んだ。沈んだ。
春山はストラップを握るライカの手ごと、踏み込んだ。
2人の座標が、同時に欠落に吸い込まれた。
落下が始まった。
座標値がエラーを返した。フィルターの表示がノイズに埋まった。
ライカが叫んだ。
落ちている。
フィルターが機能していない。
しかし下から光が来ている。近づくほど光が強くなる。床がある。
春山はノイズの中でウィンドウを開いた。
輝度の変化から距離を読んで、着地点の座標を叩き込む。フィルターが断片的に反応した。床の座標が、ノイズの隙間に薄く現れた。
着地の直前、膝を曲げた。
衝撃があった。
叩きつけられる衝撃ではなかった。膝が折れた。ライカが隣に倒れ込んだ。
静寂があった。
春山は床に膝をついたまま、息を整えた。
ライカが先に口を開いた。
「……生きてますか」
「生きています」
ライカが床に手をついて、上半身を起こした。
周囲を確認した。
広い空間だ。天井が高い。壁は遠い。照明は魔石ではない。
青白い光が、空間全体に均一に広がっている。光源が見えない。温度が低い。冷気が、床から伝わってくる。
壁に沿って、棚が並んでいる。
天井まで届く棚が、等間隔に配置されている。棚にはスロットが均一な間隔で並んでいる。各スロットに、黒い矩形の物体が収まっている。素材はダンジョンの壁材に近いが、形状が違う。自然物ではなく、何かの意図で成形されている。棚そのものは金属に近い素材だ。
しかし表面に、深層で見かけた古い管の残骸と同じ素材が、細い筋状に埋め込まれている。かつては何かを通していたのか、今は光を失って灰色に変色している。
棚の足元に、魔石の欠片が散らばっている箇所があった。いつ落ちたのかわからない。砕けた形が、長い時間をかけて欠けていったような風化の跡だ。
春山はフィルターで、最も近いスロットを確認した。
データが流れている。床下の管から集まってきた流れの、終点だ。
ライカが立ち上がった。
「これ、なんですか」
春山は答えなかった。
答えが、まだない。
「黄金の祭壇はどこに」
ライカが言った。
「ここではないようです」
「ここは、何ですか」
春山はもう一度、空間全体を見渡した。
「わかりません」
春山は答える。
「ただ」
「ただ?」
「入っていい場所ではないと思います。私たちがここにいることは、想定されていない」
ライカが棚を見た。
青白い光の中で、無数のスロットが並んでいる。黄金の祭壇だと思っていた場所の、真下にある空間。
「……祭壇じゃなかった」
「違うようです」
ライカが少し黙った。
「ユウリとセイラは」
「確認してみます」
春山はオーバーレイを全展開した。この空間の外の座標を確認した。
上方に、2つの反応がある。動いている。Iブロックに近い方向だ。
「2人はIブロック方向にいます。動いています」
ライカが息を吐いた。
「よかった」
春山は空間の構造を記録し始めた。
棚の配置。スロットの数。データの流れの方向。温度の分布。出口の可能性がある箇所の座標。
入っていい場所ではない。しかし、来てしまった。
来てしまったなら、確認する。
保守員の習性は、変わらない。
あらすじ修正しました。




