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グリッチワーカー~歪んだ理のその先で、独り世界の綻びを繕う~  作者: かんぱく


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第41話 暗転

隔壁の温度が、上がり続けていた。

ライカが魔力の入力を止めてから10分が経っていた。それでも温度は下がらない。フィルター越しの数値は、1分ごとに0.5度ずつ上がっている。

配信はまだ続いていた。

ライカが隔壁から距離を取った状態で、コメント欄に向かって話し続けている。聖域の神秘性について、次のアクションへの期待について。配信者としての言葉が、滑らかに続いている。


しかし春山が見ているものは、その言葉とは無関係に進行していた。

照明魔石の光の折れ曲がりが、さらに激しくなっていた。

前室の奥の方では、壁の面が一部消えている。テクスチャが読み込めなくなっている箇所だ。岩肌の描画が失われて、均一な灰色の面が露出している。

床の応答が、さらに悪くなっていた。

春山が歩くたびに、足元の座標が正しい数値を返さない箇所が増えている。踏み込むと、本来の床面より数センチ上か下で判定が返ってくる。

ドローンが、揺れ始めた。

通信信号のノイズが増えているのかもしれない。機体が安定した飛行を維持できなくなっている。スタッフがドローンの制御端末を操作しているが、揺れが収まらない。


セイラが端末を見て、眉をひそめた。

「魔力密度が、また上がっています。ライカは何もしていないのに」

「自然上昇ですか」

本田が尋ねる。

「原因がわかりません。ライカが止めても、空間の魔力が増えています」


春山は内心で、その情報と自分が見ている数値を重ねた。

隔壁の内部の処理が加速している。処理が加速するほど、外部に放出されるものが増える。魔力という形で空間に滲み出ている可能性がある。

止める方法は、内部の処理を落とすことだ。

しかし外からそれをやる手段が、今の春山にはない。


前室の奥の壁が、明滅した。

光が点滅するように、壁の描画が一瞬消えた。また現れた。消えた。現れた。

ライカが振り返った。

「……何ですか、今の」

「壁が、点滅した」

ユウリが呟く。

コメント欄が「え?」「壁が消えた?」という反応で埋まった。


ドローンが大きく揺れた。

映像がノイズに切り替わった。ドローンのカメラが、通信エラーで映像を送れなくなっている。スタッフが叫んだ。

「ドローン2番、シャットダウンしました!」

「3番も」

「1番、信号が不安定です」


本田が観察ポイントから前に出た。

しかし春山が予測したような「止める」動作ではなかった。

本田が、まだ辛うじて映像を送っている1番ドローンのレンズに向かって立った。

声のトーンが、変わった。

「みなさん、スペクタクル社統括マネージャーの本田です。今まさに目撃していただいているのは、聖域が人類の立ち入りを拒んでいる瞬間です。これは失敗ではない。聖域が、我々にその不可侵性を示してくれています。スペクタクル社は今日、人類が聖域の扉に手をかけた歴史的な瞬間を記録しました。次は、聖域が我々を迎え入れるその日まで、準備を続けます」

コメント欄が流れた。「神回」「鳥肌」「ライカ大丈夫?」。


本田がドローンから視線を外すと同時に、スタッフへ向けて低く言った。

「機材は置いていい。全員、出口へ」

スタッフが動いた。彼らは観察ポイントや通路の入口付近に固まっていた。

隔壁からの距離が最も遠い位置だ。本田の指示が出た数秒後には、全員が通路へ滑り込んでいた。

ライカが本田を見た。

「本田さん、でも」

「終了です」


本田の声は、反論を受け付けない温度だった。

ライカが口を閉じた。




その瞬間、前室の照明魔石が全部消えた。

完全な暗闇だった。

暗闇と同時に、空間の座標が狂った。

春山のフィルター越しに、異常が見えた。

前室全体の座標値が、一斉にノイズを発している。正しい位置に正しいオブジェクトが存在しなくなっている。壁の座標が、実際の壁の位置からズレている。床の座標が、複数の高さに重複して登録されている。

ノイズが最も激しいのは、隔壁の周辺、つまりライカたちが立っていた場所だ。隔壁に最も近かった分、座標の乱れが直撃している。




音が、おかしくなった。

ユウリの声が、発生源と違う方向から聞こえてきた。

「ライカ、どこだ」

声は左から聞こえた。しかし春山のフィルターが示すユウリの座標は、右後方だ。音の方向が、座標のズレに引っ張られている。

「ここです」

ライカが答えた。

しかしライカの声も、発生源がわからない。前室の壁に反響して、どこから来たのか判定できない。

「ライカ、声を出し続けて」

セイラが呼びかける。

「セイラさん、どこですか」

「わからない」

セイラの声に、普段にない乱れがあった。

「魔力探査が……狂っている。どこを向いても、同じ反応が返ってくる」

ユウリも同じ状況のようだった。

「空間把握が使えない。壁を触っても、手の感覚とずれている」


普段、ライカたちは五感だけでなく魔力で空間を把握している。しかし今の前室は魔力密度が異常に高く、座標はノイズだらけだ。魔力探査を使えば使うほど、誤った座標データが流れ込んでくる。精度が高いスキルほど、ノイズを拾う量が多い。

出口付近にいたスタッフは、機器も魔力も使わず、ただ物理的に壁を手探りで伝いながら逃げた。余計な情報を持たなかったことが、逆に助けになった。

ライカたちは、自分たちの能力が仇になっていた。


フィルター越しに、ライカの座標を確認した。

春山から3メートル、やや右前方だ。

春山は慎重に、その方向へ歩いた。座標が狂っているため、足元の感触を確認しながら進む。床の実際の位置と座標のズレが激しい箇所では、一歩ごとに高さが変わる。

2メートル。

1メートル。


「ライカさん」

「春山さん?」

「ここです。作業ベルトのストラップを掴んでください」

手探りで、春山の右腕を探る気配があった。ストラップに指がかかった。

「掴みました」

「離さないでください。出口の座標は把握しています」

春山はフィルターで出口の方向を確認した。通路の座標値は、室内のノイズに比べると安定している。2日前に退路を確認しておいたデータが、今役に立っている。


「ユウリさん、セイラさん」

春山は声を上げた。


「ここだ」

「はい」

ユウリとセイラが同時に応える。

「出口はまっすぐ前方です。壁に沿って歩いてください。私が先を歩きます」

「わかった」

春山は歩き始めた。

ライカがストラップを握ったまま続いている。


背後で、ノイズが走った。

隔壁の方向から、高周波の音が空間を震わせた。壊れかけたスピーカーが鳴るような音だ。しかし今回は、消えた音ではなかった。


何かが、始まった音だ。

春山はフィルター越しに、後ろを確認した。

隔壁の表面が、変化していた。

黄金のテクスチャが、崩れ始めていた。

剥がれる、という表現ではない。ピクセルが粗くなって、色情報が失われていく。金色が、灰色のノイズに変わっていく。解像度が落ちて、形が崩れていく。データが読み込めなくなったテクスチャが、ブロック状の塊になって、それも消えていく。

コンクリートの灰色が、ノイズの向こうから現れ始めていた。

しかし暗闇の中では、誰も見えない。

春山だけが、フィルター越しに見ていた。

出口の通路に入った。

通路の壁も、明滅している。暗闇の中で、壁の継ぎ目が発光と消灯を繰り返している。描画の崩壊が、通路にまで広がっている。


「春山さん」

ライカがストラップを握ったまま言った。

「何が起きているんですか」

「わかりません」

「わからないのに、どうして落ち着いているんですか」

「わからないから、落ち着いています」

ライカが黙った。

前方に、Iブロックの照明魔石の光が見えてきた。




通路を抜けた。

Iブロックの空気に戻った。全員が通路から出たことを確認した。

本田がスタッフに指示を出していた。機材の確認、ケガ人の確認、ドローンの回収。


セイラが端末を操作している。

「空間の魔力密度、急低下しています。隔壁から離れたためだと思います」

「記録は残っているか」

ユウリが問う。

「配信が止まる前の映像は残っています。その後は記録がありません」

ライカが振り返って、通路の入口を見た。


暗い穴が、Iブロックの壁に空いている。

「……中は、今どうなっているんですか」

誰も答えなかった。


本田が春山を見た。

一瞬だけ、視線が止まった。ライカが春山のストラップを握ったまま出てきたことを、確認している目だ。何も言わなかった。

春山も何も言わなかった。

フィルター越しに、通路の方向を確認した。

隔壁の温度は、まだ上がっている。テクスチャは、まだ崩れ続けているはずだ。

暗闇の中で、独りで。


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