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グリッチワーカー~歪んだ理のその先で、独り世界の綻びを繕う~  作者: かんぱく


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第40話 聖域のアイコン

配信の2日前、春山は単独で聖域前室に入った。

本田の許可を取っていた。「事前の清掃確認」という名目だ。

実際に清掃もするが、目的は別のところにある。


通路を歩きながら、オーバーレイを展開した。

2週間で、辞書登録を大幅に増やした。管の構造の解析も進めた。床下と壁裏の管が隔壁に集まっていることは確認済みだ。

今日は隔壁そのものの状態を、もう一度確認する。


聖域前室に入った。

黄金の隔壁が、照明魔石の光を受けて輝いている。

誰もいない。春山だけだ。

フィルターを最大まで展開して、隔壁を見た。


前回と変化はない。コンクリートの構造は維持されている。データの流れも続いている。管から集まった何かが、隔壁の内部で処理され続けている。

温度を確認した。

フィルター越しに、隔壁の表面温度を確認できる。周囲の壁と比べて、隔壁の表面はわずかに高い。2度から3度の差だ。内部で何らかの処理が継続的に行われている証拠だ。

2日後に、ここにライカの魔力が流し込まれる。


前職でデッドロック寸前の現場に入ったとき、サーバーの筐体が通常より熱を持っていた。あのときと同じ温度の感触だ。すでに余裕がない状態で動いている。そこに外から負荷をかければ、どうなるか。

予測はできる。しかし確証はない。


春山は清掃作業を始めた。床の破片を拾いながら、通路の状態を確認する。退路の確保だ。何かが起きたとき、どこを通れば外に出られるか。障害になりそうな場所はないか。

1時間かけて、通路の全区間を歩いた。

問題はない。退路は確保できている。

春山は聖域前室を出た。




配信当日。

聖域前室への通路は、朝から人が多かった。

スペクタクル社のスタッフが機材を搬入している。

照明の追加設置、通信機器の配置、ドローンの起動確認。

本田が後方の観察ポイントから全体を管理している。管理局の担当者も2名が同席していた。

春山は清掃員として、通路の端で作業をしていた。


ライカが来た。

配信用の装備を整えている。白を基調にした探索服だ。普段の実戦装備とは異なる。配信映えを意識した構成だ。

ユウリが隣に立っている。セイラが端末を操作しながら後方についている。


「春山さん、今日もよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

ライカが聖域前室の方向を見た。


「緊張しますね」

「そうですか」

「春山さんは緊張しないんですか」

「していません」

ライカが少し笑った。

「頼りになりますね」

スタッフから声がかかった。配信開始10分前だ。

ライカが前に向いた。配信者の顔に切り替わった。




配信が始まった。

ドローンが前室の全景を映している。ライカがカメラに向かって話している。


「みなさん、今日は特別な日です。スペクタクル社として、人類未踏の聖域への扉を開ける瞬間を、みなさんと一緒に体験します」

コメント欄が流れている。

春山は通路の端で、オーバーレイを展開して隔壁を監視していた。

現時点での温度は変化なし。データの流れも通常と同じだ。

ライカが隔壁の前に立った。


「それでは、始めます」

ライカが両手を前に出した。魔力のチャージが始まった。白い光が、ライカの手のひらから広がり始めた。

春山はフィルター越しに、隔壁の表面を見た。

変化はない。まだだ。

ライカの出力が上がった。

光が強くなった。ドローンのカメラが自動で露出を調整している。コメント欄が速くなった。


隔壁の表面温度が、0.5度上がった。

春山はその数値を確認した。

ライカの魔力が隔壁の表面に到達し始めている。隔壁が反応している。

セイラが端末を操作しながら、小さく声を上げた。

「……数値が上がっています」

ユウリが振り返った。

「問題が?」

「様子を見ます」

セイラの端末に何が映っているかは見えない。

しかし反応している、ということはセイラも確認している。


ライカの出力がさらに上がった。

隔壁の表面に、光のパターンが現れた。黄金のテクスチャの上に、さらに別の光が走り始めた。観客には「聖域が反応している」と見えているはずだ。コメント欄が爆発的に増えた。

春山のフィルター越しに見ると、様子が違った。

隔壁の表面温度が、急激に上がっている。

2度。3度。5度。

1分も経っていない。

管から集まるデータの流れが、速くなっている。ライカの魔力に反応して、内部の処理が加速している。処理が加速するほど、熱が上がる。熱が上がると、処理の精度が落ちる。


似た状況を見たことがある。

冷却が追いつかなくなったサーバーは、処理速度を落として熱を逃がそうとする。

しかし処理速度が落ちると、積み上がったタスクがさらに熱を生む。

悪循環だ。そのまま放置すれば、サーバーは保護のために自動シャットダウンする。

しかしここはサーバーではない。

シャットダウンしたとき何が起きるか、前職の経験では予測できない。


「セイラさん」

春山は声をかけた。

セイラが振り返った。

「数値はどうですか」

「……空間の魔力密度が上昇しています。想定より速い」

「温度は」

セイラが端末を確認した。


「計測しています。隔壁付近の温度が上がっています」

「上昇のペースは」

「……加速しています」

セイラの目が、春山を見た。数値を読む目だ。春山が何を心配しているかを、数値の文脈で理解しようとしている。

「誰が止める判断をするんですか」

「本田さんです」


春山は後方の観察ポイントを見た。

本田がモニターを見ている。複数の映像を同時に確認している。ドローンの映像、セイラの端末データ、コメント欄の反応。全部を把握している。

しかし本田の表情は、変わっていない。

ライカの出力が、ピークに近づいていた。

隔壁の表面に、光のパターンが激しくなっていた。観客には神秘的な演出に見えているはずだ。

春山のフィルターには、別の映像が見えていた。

隔壁の表面温度が15度上がっている。管から集まる流れが乱れ始めている。均一だった流れに、乱流が発生している。圧力が上がっているときの流れの変化だ。


空間の端で、壁の継ぎ目が露出し始めた。

それだけではなかった。

照明の光が、壁の角で折れ曲がっていた。物理的にあり得ない角度だ。

光は直進するか、反射するかのどちらかだ。しかし今見えているのは、壁の角を曲がって伸びている光だ。

Jブロックで見た劣化が、この前室でも発生し始めている。

しかも速い。Jブロックでは数日かけて進んでいた劣化が、ここでは数分で出ている。



まずい。



春山は本田の方へ歩いた。

「本田さん」

本田が振り向いた。

「温度が上がっています。空間に乱れが出始めています」

本田の目が、春山を見た。

「セイラの端末でも確認しています」

「このペースで続けると、空間の状態が変わる可能性があります。管の圧力が上がっています」

本田が少し止まった。

「……根拠は」

「フィルター越しに見えています。管から集まる流れが乱れ始めています。前に懸念をお伝えしたのと同じ構造です」


本田が端末を確認した。

コメント欄が爆発的に流れている。視聴者数が過去最高に近づいている。ライカの配信史上最大の瞬間が、今まさに起きている。

本田が春山を見た。

何かを計算している目だ。リスクとリターンを、今この瞬間に天秤にかけている。

ライカが声を上げた。


「……熱い」

ライカが一歩後退した。

「空間が、熱い」

配信のマイクが拾っていた。コメント欄に「大丈夫?」「熱い?」という文字が流れた。


セイラが前に出た。

「ライカ、一度下がって」

「でも、もう少しで」

「下がってくれ」

ユウリがライカの肩を引いた。

ライカが後退した。

魔力のチャージが止まった。

隔壁の光のパターンが、弱まった。

コメント欄が「え?」「止まった?」という反応に変わった。


春山はフィルター越しに、隔壁の状態を確認した。

温度の上昇が止まった。数値が横ばいになっている。管の流れの乱流が、少しずつ収まっている。

間に合った。

セイラが端末を見ながら言った。

「温度、安定し始めています」

ライカが振り返った。

「どういうこと?」

「空間の魔力密度が上がりすぎていたわ。一時的に魔力の流入を止めた方が安全よ」


ライカがドローンのカメラを見た。配信はまだ続いている。

「……わかった」

ライカがカメラに向かって言った。

「みなさん、聖域の反応が想定より強かったので、一度状況を確認します。これも聖域の力の証明だと思います」

コメント欄が「すごい」「熱いってどういうこと?」という反応に変わった。

本田がスタッフに指示を出した。

「配信は継続。ただしライカは隔壁から距離を取る。次のアクションは状況確認後に判断する」

「了解です」

スタッフが動いた。




春山は通路の端に戻った。

フィルターで隔壁の状態を確認し続けた。

温度は15度上昇したまま、横ばいになっている。元の温度には戻っていない。管の流れの乱流は収まったが、完全には消えていない。

止まった。しかし解決したわけではない。

内部の状態は、ライカが魔力を流し込む前より悪くなっている。

前職でサーバーの負荷を一時的に下げたとき、状態が改善したように見えても、内部に熱が残っていれば再び上昇する。根本的な原因を取り除かなければ、次に負荷をかけたとき同じことが起きる。あるいは、それより速く。

本田がこの状況をどう判断するかは、わからない。

配信は続いている。

ライカが隔壁から距離を取った状態で、コメント欄に向かって話し続けている。

春山は壁際で、隔壁の温度を監視し続けた。



数値が、ゆっくりと上がり始めた。

ライカが魔力を止めても、上がっている。

誰も気づいていない。

セイラの端末は温度を計測しているはずだが、セイラは今ライカの状態確認に集中している。

春山だけが見ていた。

1度。また1度。

ゆっくりと、確実に。

隔壁が、熱を持ち続けていた。


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