第4話 型落ちの軽という聖域
その日の稼ぎは、5,200円だった。
計量所の伝票を受け取って、春山は数字を1度だけ見て、ポケットに入れた。
文句を言う相手もいないし、言う気もない。Cブロックの残滓密度が薄くなってきている。
エリートのパーティが入った直後でなければ、この程度が相場だ。仕様の範囲内だった。
駐車場に戻ると、隣にワンボックスカーが停まっていた。側面に「ギルド・スペクタクル」のロゴが入っている。洗車されたばかりらしく、ボディが夕日を反射して白く光っていた。春山の軽自動車は、その隣で一回り小さく、一段階くすんで見えた。
乗り込む。シートベルトを締める。
エンジンをかける前に、少しだけそのワンボックスカーを見た。
それだけだ。
コンビニで半額の幕の内弁当と、缶の緑茶を買った。
駐車場の端に車を停めて、エンジンを切る。外の音が遠くなる。
シートに背中を預けると、今日1日の疲れが重力に従って下へ落ちていくような感覚がある。この瞬間だけが、春山にとって完全に自分のものだった。
6畳一間のアパートに帰っても、壁は薄く、隣室の生活音が聞こえる。ダンジョンの中では常に周囲を警戒している。受付でも、計量所でも、どこかに「他人」がいる。
この車の中だけが、違った。
20万キロ走った古い軽自動車。補修テープの貼られた内張り。籠もった音のスピーカー。狭い。古い。それでも、ここは春山が1人でいられる唯一の場所だった。
弁当の蓋を開ける。白米、鮭、きんぴら、玉子焼き。半額シールが貼られていても、内容は変わらない。箸を割って、食べ始めた。
食べながら、スマートフォンを立てかけた。
ダンジョン関連のニュースをスクロールしていると、推薦動画に見覚えのあるサムネイルが流れてきた。
橘ライカの配信アーカイブだった。
タイトルは「深層直前エリアに潜入してみた!装備の新しいエフェクトもチェックして!!!」
再生数は1日で420万を超えていた。
春山は箸を止めずに、音量を下げて再生した。
映像は鮮明だった。撮影ドローンが複数台飛んでいるらしく、画角が次々と切り替わる。ライカが魔物に向かって踏み込む瞬間、スローモーションになる。装備が発光する。魔法のエフェクトが広がる。コメント欄が流れていく。「かわいい」「強すぎ」「エフェクトやばい」「推せる」。
ライカ本人の声が、明るく流れた。
「いやーこのエリア、処理が重いのかなって思ったら魔力密度が高いだけでした!むしろ強い魔物がいっぱいいて素材も豊富で最高です!」
春山は玉子焼きを口に入れながら、画面を止めた。
処理が重い。
本人は何気なく言っている。笑顔で言っている。コメント欄も誰も気にしていない。視聴者にとってそれは「探索の臨場感を伝える表現」に過ぎない。魔力密度が高いエリアに踏み込んだ若い女性が、可愛らしく言い直した、それだけの話だ。
だが春山の頭の中で、その言葉だけが、他の言葉と違う場所に引っかかった。
処理が重い。
魔力密度が高い、ではない。本人が最初に口にしたのは、「処理」という言葉だった。
スペクタクル社のプレスリリースには「最新鋭の魔導装備はダンジョンの法則を極限まで引き出す」とあった。ダンジョンの法則。世間はその言葉を、神秘的な自然現象の名前として使っている。魔力の流れを制御する摂理。異界のエネルギー体系。誰もがそう信じている。
前職の言葉に変換すると、どうなるか。
演算リソースの集中。特定のプロセスが大量の計算命令を要求し、サーバー全体の処理能力を占有する。その結果、優先度の低い他のプロセスが遅延する。物流センターで大規模な在庫更新バッチが走ったとき、別部門のシステムが軒並み重くなる。あれと同じ構造だ。
ライカが華麗に戦えば戦うほど、演算資源が彼女の周囲に集中する。
割を食うのは、常に優先度の低い領域だ。
先週からCブロックの残滓密度が薄くなっているのも、計量所の査定額が下がっているのも、偶然ではないかもしれない。スペクタクル社のチームが南港ダンジョンに本格参入してきた時期と、重なっている。
「……リソースの競合」
箸が止まった。
春山は弁当のきんぴらを見つめながら、その言葉の重さを確認した。
誰も気づいていない。魔力密度が高い、というのは観測事実であって、その「なぜ」を誰も問わない。世界がファンタジーの文法で動いていると信じている限り、「なぜ特定の場所の魔力密度が上がるのか」という問いは、「なぜ山に霧がかかるのか」と同じ種類の問いになる。自然現象には、問う必要がない。
「……理不尽な分配だな」
誰かが決めた世界のルール。スペクタクル社のような『持てる者』が派手に振る舞うほど、その周囲の摂理が歪み、余波が春山のような末端に押し寄せる。
世間はそれを「魔力の奔流」や「ダンジョンの機嫌」と呼ぶが、春山の目にはもっと安っぽく、出来の悪いシステムに見えた。
強いプロセスが動けば、弱いプロセスが弾き出される。ただそれだけの、救いのない椅子取りゲームだ。
「……結局、どこへ行っても同じか」
10年間、バグと格闘し続けた脳が勝手に答えを出そうとする。目の前の光景を、無理やり前職のロジックに当てはめようとする。それはもはや、春山にとっての呪いのようなものだった。
緑茶を1口飲んで、別の動画を開いた。
お気に入りフォルダの中に、古い動画が1本入っている。再生回数は4万。今となっては誰も見ない、10年前の格ゲー大会のアーカイブだった。
再生する。
『さあ始まりました、東日本オープン決勝戦!注目は昨年からずっと無敗を続けているこのプレイヤー、「HAL」!強さの秘密はその異常なまでの反応速度と、1フレーム単位の精密なコマンド入力にあるとされていますが』
画面の中で、対戦台の前に座っている人間が映し出される。
フードを被った、細い男だった。表情が見えない。膝の上に置かれたアケコンをピアノを弾くような指の動きで叩いているさまが、画面に近い位置に映っている。
『ここでHAL、起き攻めに対してまさかの逆択!相手の暴れを読み切った完璧なカウンター!いや、これ人間の反応速度で対応できるんですか!?』
春山は弁当の最後の一口を食べながら、その手元を見ていた。
激しいレバー操作の音と、ボタンが底を打つ鋭い打鍵音。
コンマ数秒の間に複数の入力を叩き込んでいる。画面上のキャラクターが、相手の攻撃をすり抜けるように動く。1フレーム。1000分の16秒。人間が意識で制御できる限界の、さらに下の領域。
『HALさん、また無表情ですね。勝っても全然喜ばない。こういうところが逆に怖いんですよね』
実況者が笑っていた。
春山は動画を止めた。
弁当の空き容器を袋に入れて、緑茶の残りを飲み干す。フードの中の男が何を考えていたか、今でも説明するのが難しい。あの頃は世界が狭かった。コントローラーと、モニターと、1フレームという単位の中に、全部があった。
格ゲーを辞めたのは、就職してからだ。時間がなくなった。それだけだった。
ただ、指先だけが覚えている。
リズムを刻む感触。入力のタイミング。1フレームの隙間を突く、あの感覚。身体に染み付いたものは、10年経っても消えていなかった。
ふと、ウィンドウを開閉する感触が、頭に戻ってきた。
閉じる。開く。閉じる。開く。
信号待ちで繰り返していたあのリズム。コントローラーを握っていた頃の指の動きと、構造が似ていた。入力する。システムが応答する。次の入力までの間隙。その隙間に何かを差し込む。
「……メニューを開いている間」
春山はステータスウィンドウを展開した。
薄い光の膜が、ハンドルの前に浮かぶ。
閉じる。
消える。
その「消えた瞬間」に、何かがある気がした。画面が切り替わる、あの一瞬。システムが次の状態へ移行する直前の、ほんの短い空白。ゲームで言うなら、コマンド受付の開始と終了の間にある、処理の継ぎ目。
「……滑るな」
ウィンドウを閉じた瞬間、指先に残る微かな違和感。
格ゲーのバグ技を探していた時、世界の壁がほんの一瞬だけ「透ける」ような、あの不気味な感触。
理屈じゃない。ダンジョンがどういう構造をしていようが知ったことではない。ただ、この世界には作り込みの甘い継ぎ目が確実に存在する。
「……ラグ」
言葉が出た。
根拠はまだない。ただの感触だ。だが前職でも、格ゲーでも、この感触が「何かある」と告げてきたときは、必ず何かがあった。
春山はウィンドウを閉じて、スマートフォンをポケットに入れた。
エンジンをかける。43号線へ出ると、夜の渋滞がまだ続いていた。街灯が濡れたアスファルトに滲んでいる。
「……今日も、混んでるな」
標準語が、静かに車内に落ちた。
アクセルを踏んで、赤いランプの列に加わる。頭の隅で、またフラグが立った。
「要観察」が、また少し重くなった。




