第36話 残響の解析(トレース)
管理局の発表は、演習の翌週に出た。
『Hブロック第8区画における特異現象は、深層に存在する未踏領域、通称『聖域』が開放される予兆と判断する。聖域とは、過去の探索記録において複数回その存在が示唆されながらも到達者のない特異空間を指す。各探索者事務所は、Iブロック以降への段階的進出に備えた設営準備を開始されたし』
春山はその文書を、軽自動車の中で読んだ。
聖域。
管理局がそう呼ぶのは今回が初めてではないらしい。過去の探索記録に複数回登場する言葉だ。
しかし到達者がいない以上、その実態は誰も知らない。名前だけが先行して、中身が空のまま使われてきた言葉だ。
深層の異変を、ランクアップの前兆と解釈した。演習で特級魔物が零れ落ちてきた原因を、システムの限界ではなく、扉が開く兆しと読んだ。
解釈が、根本から違う。
保守されていないサーバーが限界に近づいているとき、現場の人間は知っている。
しかし知らせる言葉を持っていない。あるいは知らせても、聞く側が別の解釈を当てはめる。前職でも同じことがあった。
春山はエンジンをかけた。
管理局の判断は変えられない。しかし設営作業の現場には入れる。Iブロック以降の構造を、自分の目で確認する機会ができた。
設営作業の初日、春山は清掃員として申請した。
Iブロック設営チームには、複数の事務所から清掃員が動員されていた。設営資材の搬入、通路の確保、照明魔石の設置。それぞれに清掃員が割り当てられている。
春山はその一人として、資材搬入の列に加わった。
Iブロックへの入口は、Hブロック第8区画の最奥にある。
先日の演習が行われた場所だ。魔物が消えた場所だ。
春山は入口を通りながら、オーバーレイを薄く展開した。
ノイズの残滓が、まだある。
あの演習で消えた特級魔物のデータが流れていった方向、あの「下」に向かう流れが、かすかに残っている。完全には消えていない。データのパスは、一度形成されれば痕跡が残る。
前職でサーバーのネットワーク経路を確認するとき、一度でも通信が走ったルートにはログが残るのと同じだ。
春山はその残滓を、フィルター越しに追いながら歩いた。
Iブロックに入った。
空気が変わった。
Hブロックより密度が高い。圧力が違う。照明魔石の光が、Hブロックより青白い。壁の色は黒に近い灰色だ。
壁に手を触れた。
指先に、妙な感触があった。岩の表面なら、多少の凹凸や湿り気がある。
しかしここは違う。
均一で、乾いていて、細かい粒子のようなザラつきがある。ドット感、とでも言うべき感触だ。滑らかに見えて、拡大すれば格子状に分割されているような。
前職で古いディスプレイの画面を間近で見たときの、ピクセルの粒が見えてしまう感覚に近い。
壁の角を確認した。
直角だった。岩が自然に形成された角ではない。計算で出した直角だ。丸みがない。カミソリのように鋭い。Hブロックの壁は多少の不規則さがあったが、ここは角という角が同じ精度で切り揃えられている。描画の簡略化だ。細部の計算を省いた結果、かえって不自然な精度が出ている。
高解像度の描画を維持するリソースが、ここには足りていない。その代わりに、余計な正確さが露出している。
設営チームが資材を広げ始めた。
春山は清掃の動作をしながら、オーバーレイの枚数を増やした。
ノイズの残滓の密度が、Hブロックより高い。あの流れがここを通過した量が多い。深層に向かうほど、パスの密度が上がっている。
データの経路が、確実にこの先に続いている。
3日目に、別の清掃員から声をかけられた。
「兄ちゃん、どこの事務所?」
「南港の個人登録です」
「個人か。珍しいな。こんな深いとこまで来るか、普通」
「仕事なので」
男が少し笑った。40代半ば、日焼けした顔だ。
「俺は堺の事務所。Iブロックなんて初めてや。空気が重くてかなわん」
「そうですね」
「兄ちゃんは平気そうやな」
「慣れています」
男が作業に戻った。春山も作業を続けた。
会話をしながら、春山はフィルターの確認を続けていた。
Iブロックの第3区画で、ノイズの残滓が濃くなった。
足を止めずに確認する。フィルター越しに、床下の方向を見る。この区画の床の下に、パスが集中している。ここが経由点だ。深層に向かうルートの、中継地点になっている可能性がある。
床材の隙間に、何かある。
資材の搬入ルートから外れた壁際に、床の継ぎ目が一か所だけ不自然に広い箇所があった。通常の施工ではない。後から手を入れた跡だ。
春山はトングで継ぎ目を軽く突いた。
抵抗がない。
床材が、浮いている。
周囲を確認した。設営チームは前方の区画に移動している。誰も見ていない。
春山は床材を持ち上げた。
下に空間があった。
深さは30センチほどだ。その中に、何かが通っている。管のようなものだ。直径5センチ程度の、半透明の素材で覆われた管。中に、かすかな光が走っている。脈打つように、光が移動している。
前職で光ファイバーを扱ったことがある。光が信号として移動する、通信用のケーブルだ。目の前のものは素材が違うが、光が信号として移動しているという構造は同じだ。
これが、データのパスの実体だ。
誰かが、物理的にこれを設置した。
春山は床材を元に戻した。
設営チームの方向へ歩きながら、頭の中で情報を整理した。
データのパスは、物理的な構造として存在している。デジタルな流れではなく、何かが実際にここに設置した回路だ。
いつ設置されたかはわからない。しかし使われている素材の状態から見て、新しいものではない。
誰かが、ずっと前にここにいた。
5日目に、本田から連絡が来た。
「来週からスペクタクル社もIブロック設営に参加します。春山さんには引き続き随行をお願いしたい」
「了解です」
「何か気づいたことはありますか」
春山は少し考えた。
床下の管のことは、言わない。見せてもいいものと見せてはいけないものの境界線は、まだ有効だ。
「Hブロックより空気が重いです。密度が高い」
「そうですか」
「設営作業に支障はないと思います」
「わかりました」
通話が切れた。
本田には今のところ、「清掃員として設営に参加している」という事実しか渡していない。それで十分だ。
翌週、スペクタクル社が合流した。
ライカが設営チームの前に立って、カメラに向かって言った。
「Iブロック設営、始まります。これが完成すれば、さらに深層への扉が開く。今日もよろしくお願いします」
コメント欄が流れた。
春山は資材の整理をしながら、その様子を横目で見た。
ライカの声が、Iブロックの黒い壁に反響した。
この壁の裏側に、誰かが設置した管が通っている。
ライカはそれを知らない。設営チームの誰も知らない。春山だけが知っている。
オーバーレイ越しに、ノイズの残滓を確認した。
パスは、まだ先に続いている。
床下の管が光を脈打たせながら、ダンジョンの深い方向へ向かっている。
次の区画へ進む前に、もう少し確認が必要だ。設営作業はまだ数週間続く。その時間を、有効に使う。
春山はトングを作業ベルトに戻して、次の区画へ向かった。
Iブロックの天井は、Hブロックより低かった。
圧力が、また少し上がった気がした。




