幕間 遠き夏の残光(アーカイブ)
セミが鳴いている。
どこかの夏だ。
縁側のある家だ。畳の匂いがする。扇風機が、首を左右に振りながら回っている。羽根が風を切る音が、セミの声の隙間に混じっている。
庭に、男がいる。
ビニールプールを膨らませようとして、うまくいっていない。空気入れのポンプを踏むたびに、プールがずれる。
踏んで、ずれる。踏んで、ずれる。
男が小さく舌打ちした。
縁側に、女の子がいる。
5歳か、6歳か。白いワンピースを着ている。男の悪戦苦闘を、縁側に腰かけて眺めている。足をぶらぶらさせながら、口元に笑いをこらえている。
「パパ、ずれてる」
「分かってる」
「またずれた」
「分かってる」
台所から、氷の音がした。
女が麦茶を持って縁側に出てきた。グラスに氷が3つ入っている。汗をかいたグラスが、夏の光を受けて光った。
「できそう?」
「できる」
「さっきからずっとそう言ってる」
男が振り返って、女を見た。女が笑った。
女の子が縁側から降りて、男の背中に飛びついた。男がバランスを崩した。ポンプが倒れた。プールが、また大きくずれた。
「こら」
「えへへ」
3人の笑い声が、夏の庭に広がった。
空が、一瞬だけ暗転した。
青い空が、一フレームだけ黒くなって、また青に戻った。
誰も気づかなかった。
台所のテレビから、ニュースキャスターの声がしていた。昼のニュースだ。
気象情報に切り替わる前の、短い沈黙。その沈黙の中で、ニュースキャスターが一瞬だけ意味不明な文字列を口走った。そのまま固まった。2秒ほどして、また動き出した。
女がテレビをちらりと見た。
「また電波が悪いね」
それだけ言って、麦茶を飲んだ。
庭では男がようやくプールを膨らませ終わり、ホースで水を入れ始めていた。女の子が水着に着替えて走ってきた。まだ水が10センチも入っていないプールに、そのまま飛び込んだ。
「冷たい!」
「まだ入るな」
「もう入った」
男が笑った。
日が傾いてきた。
縁側で3人が並んで座っている。プールは片付けられた。西日が庭を橙色に染めている。女の子が麦茶を両手で持って、少しずつ飲んでいる。
「明日、どこか行こうか」
男が言った。
「パパ、動物園がいい」
「暑いから、水族館にしない?」
「水族館も好き」
「じゃあ水族館にしよう」
女が縁側から立ち上がりながら言った。
「夕飯、何がいい」
「カレー」
少女が答える。
「昨日もカレーだったでしょ」
「好きだから」
男が女を見て、少し笑った。女が肩をすくめた。
「カレーにするか」
台所から、包丁の音がしはじめた。セミの声が少し遠くなった。扇風機が、まだ回っている。
夕暮れの光が、畳を斜めに切っていた。
カメラを持ち出したのは、女だった。
「ねえ、写真撮ろう」
「急に」
「いいから。そこに立って」
男が庭に立った。女の子が男の隣に走ってきた。男の手を両手でつかんで、カメラに向かって笑った。
「パパ、笑って」
「笑ってる」
「もっと」
男が笑った。
女がカメラを構えた。
ファインダーの向こうに、夏の庭と、男と、女の子がいる。西日が2人を照らしている。女の子の白いワンピースが、光を受けて輝いている。
シャッターを切ろうとした、その瞬間。
空が、また暗転した。
今度は戻らなかった。
庭が、ブロックノイズに飲み込まれた。男の輪郭が崩れた。女の子の笑顔が、ピクセルの塊に変わった。色が反転した。セミの声が、高周波の電子音に変わった。扇風機の音が、ホワイトノイズに溶けた。
カレーの匂いが、消えた。
西日が、消えた。
畳の感触が、消えた。
すべての音が、一点に収束して、無音になった。
明日へのポインタが、消えた。
0と1の海に、夏が溶けていった。
暗いコンテナの中で、メニュー画面の光だけが春山の顔を照らしていた。
画面には文字が表示されていた。
Recovery Complete (100%) Status: Object Deleted (Original Path Lost)
春山は画面を見ていた。
解析が完了した画像が、ウィンドウに静止している。ビニールプールの横で、男と女の子が並んで笑っている写真だ。解像度は低い。顔の細部まではわからない。しかし笑っていることだけは、はっきりわかる。
春山はその写真を、しばらく見ていた。
コンテナの外から、港の方角の音が聞こえる。工場の機械音。船のエンジン音。この街は止まらない。夜中も動いている。
右手に持っていた缶コーヒーが、いつの間にか空になっていた。
「……これが、『燃料』の正体か」
声が、暗いコンテナに落ちた。
春山は缶を握りつぶした。金属が変形する音がした。
ウィンドウを閉じた。
写真が、消えた。
Object Deleted の文字も、消えた。
暗闇の中で、春山は少しの間、動かなかった。
息を吐いた。
長い息だった。
それだけが、静かにコンテナの中に残った。




