第19話 オフサイト・バックアップ
夜中の3時に目が覚めて、春山はしばらく天井を見ていた。
特に理由はなかった。ただ、頭の中で何かが引っかかっていて、眠りが浅くなっていた。
引っかかりの正体を探って、気づいた。
全部、車に積んである。
圧縮した袋が、トランクに入っている。数ヶ月分の稼ぎが、型落ちの軽自動車のトランクに積まれている。
前職でインフラ保守を担当していたとき、上司から繰り返し言われた言葉があった。
「バックアップのないサーバーは、サーバーじゃない」
単一障害点。一箇所に全てを集中させると、そこが壊れた瞬間に全てを失う。交通事故、盗難、管理局の一斉検問。どれか一つでも当たれば、終わりだ。
「……バックアップが要る」
翌日から、春山は保管場所を探し始めた。
最初に銀行の貸金庫を検討した。
セキュリティは高い。しかし身分証の提示が必須で、入退室の記録がデジタルで管理される。契約者情報は当局が照会できる。税務署も動ける。
却下。
次に、梅田と難波のトランクルームを複数見て回った。
清潔で、アクセスも良い。しかし入館時にICカードを使い、監視カメラが死角なく配置されていた。誰がいつ来たか、全て記録に残る。
却下。
問題は、春山の要件が一般的なセキュリティの要件と逆だということだ。
通常、保管場所に求めるのは「記録が残ること」だ。誰が何をしたか追跡できることが、セキュリティの本質だ。
しかし春山が求めているのは、記録が残らないことだ。監視されないこと。アナログな無関心。
「……デジタルの死角に隠す」
3日かけて、尼崎の工業地帯を歩いた。
古い工場と倉庫が並ぶ区画に、貸しコンテナが数棟あった。
管理人は七十代と思しき男で、事務所と呼ぶには狭すぎる小屋に座っていた。春山が声をかけると、老眼鏡を外しながら立ち上がった。
「空いてるのは、あそこの端の一つだけや」
指差した先に、錆の浮いた金属コンテナがあった。
「料金は月いくらですか」
「月1万5,000円。前払いで3ヶ月分」
「契約書は」
「書いてもらうけど、まあ簡単なもんや。住所と名前だけ」
「身分証の提示は」
「いらん。前払いしてくれたら、それでええ」
春山は管理人を見た。監視カメラは、入口の上に1台あった。しかしレンズが曇っていた。配線が、端で切れていた。
機能していない。
「……借ります」
手書きの契約書に記入した。住所は正確に書いた。しかし名前は、漢字を一字だけ変えた。春山、ではなく、別の字を使った。管理人は確認しなかった。
現金で3ヶ月分を払った。
管理人が鍵を渡して、また小屋に戻った。
春山はコンテナの鍵を開けた。中は暗く、鉄錆の匂いがした。床に古いパレットが1枚残っていた。
「……アナログな無関心、か」
これが、今の春山に必要なファイアウォールだった。
その夜、深夜2時に軽自動車でコンテナへ向かった。
周囲に人気はなかった。工場の夜間稼働の音だけが、低く響いていた。
トランクを開けて、圧縮した袋を取り出す。
袋を手に持った瞬間、冷気が指先に伝わった。
圧縮された袋は、いつも冷たい。慣れたつもりだったが、今夜は特に冷たかった。指の感覚が、すぐに鈍くなっていく。重さは消えている。しかし冷たさだけは残っている。これが、中身が存在することを示す唯一の手がかりだ。
袋を1つコンテナに入れるたびに、冷気が積み重なっていく。20袋目を置き終えたとき、コンテナの中の空気が、外との温度差をはっきり感じさせるほど冷えていた。
袋を1つずつ、コンテナの中に移した。
パレットの上に並べる。10袋。15袋。20袋。
全部で20袋、移し終えた。残り3袋は車に残した。
コンテナに全てを移せば、今度はコンテナが単一障害点になる。バックアップとは複製だ。ムーブではない。車とコンテナで資産を分散する。どちらか一方が潰れても、もう一方で再起動できる。最悪、車が管理局に没収されてもコンテナの分がある。コンテナが発覚しても、車の分で次の手が打てる。
コンテナの中で、袋が静かに並んでいる。外見は、どこにでもある回収袋だ。管理人が中を見ても、空の袋が積まれているようにしか見えない。
春山はコンテナを閉めようとして、一瞬止まった。
自分の吐いた息が、白かった。
コンテナの中の空気が、外より明らかに冷えていた。20袋分の冷気が、この密閉空間に溜まっている。錆びた鉄の匂いと、あの冷たさが混じり合っていた。
春山は鍵をかけて、コンテナの前に立った。
一生遊んで暮らせる価値が、この錆びた鉄箱の中に収まっている。
その事実を、頭の中で確認した。
喜びはなかった。安堵も、達成感も、何もなかった。あるのは「これで紛失リスクが分散された」という、無機質な計算結果だけだった。
「……バックアップ、完了だ」
独り言が、夜の工業地帯に落ちた。
アパートに戻ったのは、深夜4時近かった。
台所で水を飲んで、コンビニで買っておいた半額の弁当を温めた。
座卓の前に座って、食べながら天井を見た。
六畳一間。家賃38,000円。変わっていない。
コンテナには、莫大な資産がある。しかし使えない。使えば目立つ。生活水準を上げれば、隣人が気づく。税務署が動く。ブローカーの「把握」の網に引っかかる。
前職で数千万円規模のシステム保守予算を管理しながら、自分の手元には残業代しかなかった。予算は会社のものだ。自分のものではない。どれだけ大きな数字を動かしても、自分の生活は変わらなかった。
今も、構造は変わっていない。
資産はある。しかし使えない。コンテナの中にあるものは、春山の「生活」には届かない。
「……前職と、何が違うんだ」
呟いた。
白米を口に入れた。コンビニの弁当は、いつも同じ味がする。
食べ終えて、袋を捨てようとしたとき、気づいた。
服から、匂いがした。
カビと鉄錆が混ざったような、ダンジョン特有の匂いだ。今日はダンジョンには入っていない。しかし昨日の清掃の残り香が、まだ作業着に染み付いていた。
コンテナを借りた。資産を分散させた。管理局の目を意識して、ブローカーとの記録を残さないよう動いている。
しかし。
自分自身は、ダンジョンの清掃員のままだ。
服に染み付いた匂いは、どんなに資産を積み上げても変わらない。コンテナを借りても、神戸のブローカーと取引しても、この匂いは消えない。
春山は作業着を脱いで、洗濯機に入れた。
翌朝には、また同じ服を着てダンジョンへ行く。
「……フラグは、自分には立てられない」
独り言が、六畳一間に落ちた。
システムのフラグは、外から書き換えられる。しかし自分自身の「属性」は、自分では変えられない。どれだけ資産を積み上げても、どれだけ巧妙に動いても、春山は春山だ。型落ちの軽自動車で43号線を走る、元保守員の清掃員だ。
電気を消した。
布団に横になると、指先にまだ冷気の感触が残っていた。
圧縮された袋の冷たさだ。
しばらくして、眠りに落ちた。




