第2話 時給2,000円のデッドライン
翌朝も、アラームより5分早く目が覚めた。
体内時計が狂っているのか、それとも正確すぎるのか、どちらかわからない。布団の中で天井を5秒見て、起き上がる。歯を磨く。昨夜の残りのカップ麺の汁を捨て、新しいのを1つ作る。
窓の外で、43号線が唸っている。
昨日と同じ朝だった。おそらく明日も同じ朝が来る。春山はそれを不満に思うでも、安堵するでもなく、ただ仕様だと思いながら、コンビニで缶コーヒーを買い、軽自動車に乗り込んだ。
南港の受付に着くと、今日は見慣れない顔がいた。
二十代前半と思しき男が2人、ピカピカの作業着を着て、受付票の記入欄を見ながら小声で話し合っていた。新人だ、と春山は一瞬で判断した。作業着の折り目が残っている。靴が綺麗すぎる。そして何より、ダンジョンの入口の方をちらちら見ながら、微かに興奮している。
「ハイエナって、実際どんな感じなんすかね」
「Aブロックとかやったら、結構稼げるって聞きましたよ」
「魔物ってポリゴンになって消えるんやろ。間近で見てみたいわ」
春山は2人の横を通り過ぎ、受付票に記入した。
「春山さん、今日もCブロックお願いします。昨日の続きのエリアです」
「……了解しました」
振り返ると、新人の2人がこちらを見ていた。春山の平坦な返事が、何か珍しいものに聞こえたらしい。目が合うと、片方がぎこちなく会釈した。春山も、ほんの少し頭を下げた。
Cブロックへの道順は、もう体が覚えていた。
3番バースのアーチをくぐり、中層部への降下路を進む。壁面の岩盤は湿っており、足元は細かい砂と炭化した何かの残骸が混じった、黒っぽい土になっている。ライトを点けると、天井の低いトンネルが奥へ続いていた。
この道を歩くとき、春山はいつも同じことを確認する。
音の反響の仕方。空気の流れ。足元の感触の変化。
前職でサーバールームを巡回するとき、機械の音の微妙な変化でトラブルの予兆を掴んでいたのと同じ要領だ。異常を見つけるのではなく、「正常の輪郭」を頭に入れておく。それが春山の癖だった。
今日の空気は、昨日より少し重い。気のせいかもしれない。保留にした。
Cブロックの清掃区画に入ると、すでに先行して入っていた別のハイエナが2人いた。
1人は四十代とおぼしき、背の低い丸顔の男だった。もう1人は三十代くらいの、日焼けした女性。2人とも、慣れた手つきでトングを動かしている。
「おう、兄ちゃんも今日Cか」
丸顔の男が春山に声をかけた。
「……そうです」
「ほんなら西側頼むわ。うちら東側やるから。昨日エリートのパーティが荒らしてったエリアやから、ドロップがぎょうさん残っとるで」
「分かりました」
それだけ言って、春山は西側へ向かった。
男が女性に何かを呟き、また笑い声がした。標準語の返事が面白いらしかった。
春山は気にしなかった。こういう反応には半年で慣れた。大阪に来て7年経つが、標準語は直す気がない。直す理由がない。
西側エリアに踏み込むと、すぐに規模が分かった。
昨日のCブロックより広い。天井が高く、壁面には大きな亀裂が走っている。床には焦げた岩の欠片、黒い油状の液体が固まったもの、そして魔物が残していった素材と魔石が、あちこちに散らばっていた。
魔物の「死骸」は、ない。
それがダンジョンの、春山にとって最初から引っかかっていた点の1つだった。
魔物は倒されると、その場でポリゴン状に砕けて消える。骨も、肉も、血も残らない。残るのは素材と魔石だけだ。世間はそれを「魔法的な昇華現象」あるいは「マナの還元」と呼んでいる。
春山には別の言葉があった。
……いや、言葉にするにはまだ早い。
ただ、魔物の消え方があまりに「手際が良すぎる」のが気になった。
命の終焉というよりは、最初からそこになかったことにされるような、無機質な抹消。
10年間、モニター越しに眺めてきた「データの消去」によく似た手触りだった。
とはいえ今日の仕事は、その哲学的考察ではない。
春山はトングを持ち直して、作業を始めた。
素材の回収は、魔石より手間がかかる。
魔石は光っているから見つけやすい。しかし素材、つまり魔物が落としていく鱗や牙や結晶片の類は、岩盤と色が近いものも多く、見落としやすい。それを1つ1つ確認して、種類ごとに分けて袋に詰める。査定員は素材の「仕分け精度」も評価に入れる。雑に詰めると単価が下がった。
春山は丁寧にやった。丁寧にやる方が、結果的に効率がいい。
作業をしながら、床の状態を観察する。
エリートのパーティが通った後は、いつも地面に焦げ跡がある。魔法の余波だ。しかしその焦げ跡の形が、春山には気になった。不規則に見えて、よく見ると一定のパターンがある。発動した場所から、等距離で放射状に広がっている。いつも同じ半径。いつも同じ形。
「……判定が、一律で固定されているのか?」
声に出てから、春山は少し立ち止まった。
物理現象ならもっとムラがあるはずだ。だがこれは、あらかじめ決められた「範囲内」だけにフラグを立てて、一括でダメージを処理しているようにしか見えない。
複雑な拡散計算を省き、ただの円形範囲で処理を済ませる。その「サボり方」には、既視感があった。
誰もが神秘と呼ぶその現象の裏側に、春山は、納期に追われた設計者が無理やり妥協点を見出したような、投げやりな合理性を感じ取った。
前職で触れた、スパゲッティ状態の古いコード。
1000分の1秒を稼ぐために、世界の質感を切り捨てたあの設計思想。
「……雑だな」
あるいは、ただ単に古いのかもしれない。
だが、何に対して古いのか。そこまで考えが至る前に、春山はまた無機質な作業へと指を動かした。
昼過ぎに、昨日と同じ光景を見た。
壁際の岩の崩れた場所に、緑色の魔石が3つ。等間隔。地形と無関係な配置。昨日のCブロック東側で見たものと、全く同じパターンだった。
春山はしゃがみ込んで、今度は計測した。
石と石の間隔を、指で測る。拳1個分、ほぼ正確に等間隔。壁からの距離も、昨日見たものとほぼ同じだ。
「……またか」
昨日と同じ場所に、同じような角度で魔石が転がっている。
偶然にしては、少しだけ数字が綺麗すぎる。まるで、乱数テーブルの出来が悪い古いゲームを遊んでいるような、そんな安っぽい既視感だ。
だが、それを「再現性」と呼ぶには、まだサンプルが少なすぎた。
断定はできない。情報の断片を「保留」から「要観察」へ。 ステータスを更新した。
昼休憩は、ダンジョンの外に出て取る決まりになっている。
入口付近の休憩スペースで、春山は持参したおにぎりを2つ食べた。隣のベンチでは、朝の新人2人組が座っていた。
片方の顔色が、優れなかった。
「……大丈夫ですか」
春山が聞くと、新人は少し驚いた顔をして、「あ、はい、なんか思ってたんと違くて」と答えた。
「何が違いましたか」
「いや……魔物がポリゴンで消えるのはテンション上がったんですけど、結局あとは地味な拾い作業で。もっとこう、なんか、あるかなと思ってたんで」
春山はおにぎりを一口食べた。
「ポリゴンで消えるのは、最初だけ驚きます。3日で慣れます」
「そんなもんすか」
「そんなものです」
もう1人の新人が、春山に聞いた。
「先輩って、今日いくらくらい稼げそうですか」
「……今日の進捗だと、8,000円前後です」
「え、それだけですか」
「Cブロックはそんなものです」
「でも、うまくやったら一日3万とか稼げるって聞いたんですけど」
春山はおにぎりの最後の一口を飲み込んで、包みを畳んだ。
「Aブロックの話ですね。あそこは探索者が入った直後に清掃に入れれば、ドロップの密度が高い。でも先行権は古参が持っています。新人が入れる頃には、おいしい部分は終わっています」
「……じゃあ、どうすれば」
「地道にやるか、辞めるかです」
突き放したように聞こえたかもしれない。しかし春山には、これ以外に正確な答えがなかった。仕様の話をしているだけだ。
新人2人は黙った。春山も黙った。
午後の作業を終えて、計量所に向かった。
今日の成果は魔石が14個、素材が中量。査定員が無言で計算し、伝票を差し出した。
8,400円。
昼食代と交通費を引いて、手元に残るのは6,000円ほどだった。
外に出ると、朝の新人2人組が帰り支度をしていた。顔が疲れていた。今日の稼ぎはおそらく、春山より少ない。
春山は彼らの横を通り過ぎ、軽自動車に乗り込んだ。
シートに背中を預け、目を閉じる。
今日見たものを頭の中で並べ直してみる。地形を無視したあの不自然な魔石の配置。魔法が描いた、あまりに正確すぎる真円の焦げ跡。そして、命が尽きると同時に「無かったこと」にされる魔物たちの末路。
バラバラだった断片が、春山の古い記憶と、嫌な手触りで符号し始めていた。
1971年。世界を書き換えたダンジョンの誕生と、自分が保守し続けてきた、あの忌々しい『遺物』のルーツ。
「……いや、考えすぎだ」
春山は独り言と一緒に、その思考を意識的に遮断した。仮説を立てるには、まだ決定的な「証拠」が足りない。
だが、アクセルを踏む指先には、かつてモニターの前でバグの予兆を掴んだ時と同じ、微かな痺れが残っていた。春山はエンジンをかけた。43号線へ出ると、夕方の渋滞がすでに始まっていた。赤いランプの列が、先まで続いている。
「……今日も、混んでるな」
標準語が、静かに車内に落ちた。
アクセルをほんの少し踏んで、列の中に入っていく。頭の隅では、まだ「要観察」のフラグが点滅していた。




