第1話 標準語の余所者
アラームより5分早く目が覚めた。
天井のシミが、昨日と同じ形をしている。
六畳一間の壁は薄く、隣室の誰かが昨夜焼いた魚の残り香が、朝になっても消えていなかった。
堺市西区、家賃38,000円。築30年の木造アパートは、その値段通りに、何一つ余計なものを持っていない。
布団を畳まずに立ち上がる。歯を磨く。カップ麺を1つ。
窓の外では、もう国道43号線が唸り始めていた。
ダンジョンの歴史は、春山より年上だ。
最初の「異界の口」が確認されたのは1971年、冷戦末期のことだった。ソ連とアメリカが核の引き金に指をかけていたあの時代に、全国の旧式工業地帯が静かに口を開けた。
大阪では後にフェリーターミナルとなる南港の埋立地。横浜では本牧の埠頭。川崎の製油所跡。政府は当初、工場廃液による地盤変質として処理しようとしたが、翌月に内部から最初の「魔石」が出てきて、その説明は永久に書き換えられた。
米ソ両政府は同時に情報を封鎖した。核より危険かもしれない未知の現象を、互いに手の内を見せないまま研究した。封鎖が解けたのは冷戦終結後、1991年のことだ。春山が物心つく前に、世界は初めて「ダンジョン」という単語を公式に使い始めた。
それから30年以上が経つ。
今では探索者が資格を取って潜る。強い者は魔法を使い、怪物を狩り、企業・ギルドの庇護を受けて梅田の高層ビルに事務所を構える。テレビには毎週、整った顔の若い探索者が出演する。ダンジョンは完全に「産業」になっていた。浅い階層は行政が管理し、間引き処理の入った安全な区画は観光地として整備されている。学校の遠足で訪れる子供もいる。
半世紀かけて、人類はダンジョンを飼い慣らした。そう思っている。
春山には、関係のない話だ。少なくとも今は。
軽自動車のエンジンは、3回目のキーで目を覚ました。
車体は白というより、年季で薄くなった灰色に近い。走行距離は20万キロをゆうに超えている。ドアの内張りに一箇所、補修テープが貼ってある。スピーカーの右チャンネルは半年前から音が籠もっている。それでも春山にとって、この車は動く。動くことが全てだった。
バックミラーで後ろを確認して、43号線に繋がる側道へゆっくりと出る。7時20分。43号線は予報通り詰まっていた。対向の大型トラックが、潮の匂いを乗せた排気を吐き出していく。
春山はウィンカーを出して車線変更し、コンビニで買っておいた120円の缶コーヒーのプルタブを、信号待ちの間に静かに開けた。
フロントガラスの向こうで、高架橋に貼り付いた大型広告が流れていく。整った顔の若い男女が、光の粒をまとって笑っている。
「スペクタクル所属、Aランク探索者・橘ライカ、新CM解禁」。キャッチコピーは「魔法は、才能だ!」
春山は一瞬だけそちらを見て、缶コーヒーを一口飲んだ。
安い砂糖の味が舌に残る。温くなっていた。
リストラの通知が来たのは、去年の10月だった。
「AI移行に伴う人員最適化」。社内メールの件名はそうなっていた。春山は三度読んで、返信せずに閉じた。怒りとか、悲しみとか、そういうものが来る前に、先に「ああ、そういう仕様変更か」という感想が来た。10年かけて身につけた物流センターの在庫管理システム保守の知識が、秋から冬へ移ろう頃に陳腐化した。それだけのことだった。
それだけのことだった、と半年経った今も、春山は思っている。思うようにしている、と言う方が正確かもしれないが、その違いを掘り下げることに意味はない。
清掃員の受付は、南港の倉庫街の一角にあるプレハブ小屋だった。
「ハイエナ」という呼称は、公式ではない。
しかし現場では全員そう呼ぶ。探索者が倒した怪物の残骸から魔石と素材を回収し、汚染物質を処理し、次の潜入班が入れる状態に整える。報酬は成果連動型だ。魔石の数、素材の質と量、回収物を専用の計量所に提出するたびに査定が入り、その日の報酬が決まる。何も拾えない日は、交通費も出ない。
資格は不要。危険手当もない。
受付のプレハブ小屋の前に、数人が集まっていた。春山が車を降りると、すぐに視線を感じた。
「あ、また来たわ。標準語の兄ちゃん」
作業着の男が、隣の男に何かを耳打ちした。低い大阪弁だった。笑いが混じっていた。春山は振り向かなかった。受付票に氏名と担当ブロックを書き込み、ハーネスと清掃用トングのセットを受け取る。
「春山さん、今日Cブロック、よろしゅうたのんます」
「……ありがとうございます。了解しました」
平坦な標準語が、プレハブ小屋の中に落ちた。誰かが、くぐもった笑い声を立てた。
ダンジョンの入口は、旧フェリーターミナルの三番バースにある。
金属のアーチが地面から三メートルほど浮いた高さで空間に固定されており、そこを通り抜けると世界の質感が変わる。光の色が変わる、と言う者が多い。空気の粘度が変わる、と言う者もいる。半世紀の研究を経て、学者たちは「異界エネルギーによる空間位相の変容」と名付けた。専門書が何千冊も書かれた。それでも誰も、根本的な仕組みを説明できていない。
春山には別の感想があった。
初めて入った日、アーチをくぐった瞬間に思ったのは「レイテンシが上がった。」だった。世界の応答速度が僅かに遅くなったような感触。前職でサーバーの過負荷を検知したときに近い、あの「詰まり」の感覚。岩盤の壁も、揺れる灯りも、魔石の淡い光も、全部が一枚の薄い膜の向こう側にあるような、奇妙な遅延。
気のせいだと思って、その日は黙っていた。今も黙っている。




