第四章 Background of Spirited Daughter予想 7
七
金曜日の夕方、ハンブルク研究所に来訪者があった。
「仁楠くんはいないのかい」
日田子であった。秘書を二十人も連れて。
タイミング悪く、仁楠は郡馬と一緒に埼玉へ出張であり、帰社予定ではあったが、まだ時間がかかりそうであった。そして運悪く、黒根、賀臼、昼鈴の三人も都内へ出張であった。
「どうしましょう、和井得さん」
今社内で一番役職が上なのは、サブの和井得であった。あとは課員の塚、李今、弥古尾の四人だけである。弥古尾は李今に言われるまま、すぐ近くのデスクで一人座っていた。
「事前にご連絡いただいていればよかったのですが。本日は離席しておりますので、また後日でもよろしいでしょうか」
「どうしようかな。ま、別に週明けでもいいんだけどさ」
日田子らの圧力は相当であった。塚は、耳鳴りのようなものも感じていた。ねぇ、そこの女の人、と日田子は塚を指さした。
「起訴って、誰がするか、知っている?」
「バカにしないでください。検察官です。だから、たとえばでっち上げの騒音問題なんて、起訴されるわけがないんです」
そう鼻息を荒げながら話す塚のことを、ずっとニヤつきながら聞いている日田子を見て、李今は勘づいた。
「ちょっと待ってください。訴訟、って、民事裁判でしょう? 騒音問題でしょう。それを、検察官だなんだって、もしかして」
日田子は、黙って李今を指さした。勘が鋭いじゃないか、という賞賛のものというよりは、早くその先を言え、と圧をかけるように。
「刑事裁判に持ち込むっていうの!」
塚の驚きはもっともだった。
「不可能だと思うかい? できるよ。いや、別に市議会議員の特権とか、裏工作とかじゃないよ。ようは、傷害罪だよ、きみたち。
立川市民はね、ついに頭痛を訴えると、【思う】んだよ。このままだとね。
もらい事故レベルで起きてしまう民事裁判と違ってさ。刑事裁判で訴えられている案件に携わっているっていうのは、会社として、どうだろうね」
ハンブルク研究所はこの一件から手を引け、ということなのだろう。和井得は、動揺する二人に、大丈夫、と小さな声で落ち着かせて、後ろへ退かせた。
「きみが代表かい? 違うだろう。生意気だったのはきみもそうだが、この件、決定権はあの仁楠ってやつだろう。あぁ、ごめんごめん、呼び捨てにしちゃった。
そうだなぁ、週明け。週明けに答えを聞かせてくれ、と伝えておいてくれよ」
君たちに反論はないだろう、と言わんばかりに、にっこり気持ち悪いくらいに口角を上げて日田子は四人をグルリと一人五秒ずつは見渡し、満足そうに、パン、と手を叩いた。
会社を脅した市議会議員は、大満足で帰っていった。
二十人分の秘書の退出も終わり、ドン、とドアが閉まる音がして、ようやく全員の肩の力が抜けた。
「あんなの、脅しじゃないか。議員だろ? 俺たちが録音していたらアウトじゃないか? そうだ、録音!」
「たぶん、できました」
李今に指示されて、弥古尾はスマートフォンのアプリで、一部始終を録音していた。
「でも、ボイスレコーダーほど高性能じゃありません。だから、どこまで録音できているか」
「頭痛を訴える【と思う】の一節だ! そこさえ聞き取れれば、窮地に追い込めるさ」
しかし、和井得の期待は砕かれた。
「なんだ、これ。スマートフォンの上に紙きれでも置いていたのか? ノイズばっかりじゃないか」
「和井得さん。さっき、なにか耳鳴りしていませんでした?」
あれだけの人数だから、圧力とかストレスからくるものかなと思っていたんですけど、と言いながら、塚はスマートフォンをずっといじっている。
「あぁ、ありました。これ!」
録音妨害音波。スマートフォンのアプリは、録音もできれば、妨害もできるようだった。
頭を抱えた四人であった。週明けとなれば、もう土日しか時間がない。たかだか会社員に、いったい何ができるのか。市議会議員を敵に回したのが間違いだったのではないか。
そのときだった。仁楠らが帰ってきたのは。
「ニクスさぁん!」
半ば泣きつくように仁楠のもとへフラフラと歩いていった塚を見て、ただごとではないとはすぐに気づいた。意気消沈した和井得と李今が、状況を詳らかに伝えた。
「やっぱり、敵が悪かったんですかね」
「何言っているんだ。月曜だっけ。大丈夫だよ」
ケロっと言う仁楠に、四人は目を丸くした。
「なめるなよ、ハンブルク研究所を」




