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第三章 カーボンニュートラルの存在と滑らかさ 10




 仁楠が亜院と会ったのは、その翌日であった。




「メールをした次の日にいきなり会えるとは、思ってもいませんでした」


「君こそ、いきなり休日を指定されても空いているなんてね」




 すでに定年退職済みの亜院と仁楠は、立川の昭和公園で待ち合わせをした。例の、小学校に一部組み込まれそうな公園だ。




 かつては基地だったはず、すべて人工で一から作ったはず、そんな歴史の浅い緑でも、鼻奥にささる空気は瑞々しいものであった。




「これはクスノキの匂いだな。きみ、クスノキの匂いは、葉っぱと枝、どっちの匂いだったかな」


「どっち、なんてあるんですか」


「えっへっへ。枝、葉、花。どこから匂いを出すかは、植物によって違うんだよ。


 人間もさぁ、多分同じだと思うんだよな」




 はぁ、としか言い返せない仁楠をよそに、公園のベンチに、よっこいしょ、と腰かけた亜院は、空を見上げながら、肩まで伸びる長い白髪をかき上げた。




「クロから聞いてね。ここ、小学生が買収しようとしたんだって?」


「買収、も真意を得ているんですかね」




 そういえば、その後の増真くんたちの進展はどうなったか、和井得に詳細を聞いておかないとな、と仁楠は思った。




「さて、クロの過去の女性関係を聞きたい、とのことだけど」




 仁楠はうなずいた。




 亜院は、黒根がハンブルク研究所の前身の会社を立ち上げる前、つまり黒根が新卒で入社した会社での元上司であった。




 その会社は環境とは関係ない、一般的なコンサルタント会社であった。黒根が起業をした後も何かと気にかけ、何度か顔も出していたそうで、昼鈴が覚えていたのもそこにあった。




「わたしたちは、黒根社長の過去について、環境コンサルタント会社を立ち上げた後からしか知りません。それよりも前の話を聞きたいのです」


「それはどうしてだい?」




 仁楠は、塚と黒根との話を洗いざらい話した。とはいえ、高木に依頼したDNA鑑定には言及しなかったが。亜院はある程度うなずいて、




「つまり、その塚さんについて、きっかけがあったであろう二十四年前ごろのクロの女性関係を疑っている、と」




 亜院はニヤニヤしながら、仁楠に一つ問うた。




「モンティ・ホール問題って知っているかい」


「はい。わたしの好きな数学パラドクスです」




 モンティ・ホールとは、の説明をしなければいけない。




 三つの扉が用意されており、正解の扉を選ぶと商品がもらえるとする。正解の扉は一つだけ。回答者は仮で一つ選ぶと、その扉を開く前に出題者が、残った二つの扉から、外れの扉を開ける。さて、回答者は、扉を選びなおす方がいいだろうか、という問題である。




 直感で考えると、選びなおさなくてもそうでなくても、確率としては三分の一だから変わらないのでは、と思ってしまうが、問題の答えとしては、選びなおすと正解の確率は二倍になる、というものである。




 どうしても違和感のある事実ではあるが、たとえば扉が十枚あったとすれば、初めに選んだ扉が正解である確率は十分の一で、選びなおして一つの扉を選ぶとき、残り九つの扉が正解である確率の十分の一の九つ分がその扉に集約され、正解である確率は十分の九になる、という例えをもって納得をさせることが多い。




「うん。直感的にまちがっていると思っていても、数式としては合っているってことだよね」




 亜院は引き続きにやにやしながら仁楠に語り続けた。




「クロはね。確かに女性関係はだらしなかった。みんな疑うし、彼も自分を疑っているだろう。


 でもね。自由奔放さが似ている、塚さんは片親、そういえば塚さんの父親として年齢がちょうどいい、なんて、そんなパーツとパーツを組み合わせて、思い込んでいるだけじゃないかな。


 ちゃんと立証したかい。DNA鑑定も百%じゃない。かつて、三つの鑑定機関から、親子関係はありませんと断定されたのに、結果としては親子だった、という話もある。


 クロと彼女の母とを引き合わせたのかい。クロと彼女とを、その話をして引き合わせたのかい。興信所を使ったのかい。あらゆる手段を使い果たしたのかい。


 外野がプライバシーを解明するのなら、本人に遠慮なんてしていられないのだから。全面協力を彼女に告げて、二人で解明したらいい」




 一気にまくしたてられた仁楠は面食らってしまった。




「ごめん、ごめん。今のは、対話じゃないね。勢いでしゃべっちゃった」




 手を軽く振りながら、亜院は謝った。




「まぁ、ぼくに会いに来た、ということは、解明したいんだろう。この謎を。いいよ。クロの今の奥さんとぼくとは面識がある。少し会ってくる。なに、上手くやるさ」




 亜院は、よっこいしょとベンチを立った。




「外流は元気かい」


「はい、このDNA鑑定についても、きっかけは外流さんでした」


「そうか、それは良かった」




 あ、間違えた、と仁楠に背を向けたまま、亜院は指を立てて続けた。




「クスノキは、葉っぱからも枝からも匂いがするんだった」




 そして亜院はそのまま去りつつ、




「クスノキの根っこさ、真っ黒なんだよ」




 と吐いて捨てた。

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