第三章 カーボンニュートラルの存在と滑らかさ 5
五
「お待たせしました」
プレゼン発表が終わると、尾怒が入室してきた。タイミングがちょうどだったので、途中からは外から中の様子を見ていたのかもしれないな、と仁楠は思った。尾怒は、顔の右半分、いや右目のあたりまでを隠すようなヘッドバンドをしており、何かの治療中なのか、と心配になった。
「ちょうど、我が社としての見解を話したところです」
そうか、と、尾怒の反応は薄かった。そして目くばせをした。美女縫が退室する合図なのだろう、と思ったが、どうやら逆のようで、尾怒に連れられて仁楠と郡馬は部屋を出た。そして今度は、部屋の外から中の様子を見ることはまず不可能であろう、通常の応接室に通された。
「先ほどの話、どう思われましたか」
尾怒は、声をひそめながら二人に聞いた。低い声は、内緒話をするように声量は小さかったが、二人の耳にズシンと響いた。
尾怒は先述のヘッドバンドをしており、右目は完全に隠されている。右目は失明しており、義眼で対応しているのだが、定期的に交換する必要があり、今はその交換期にあたった。交換と交換とのインターバルは、クーリングが必要なため、今のこのバンドの奥は何もない状態である。その事実は二人は知らないが、異様な雰囲気だけは十分感じ取れた。
「そのまま、思ったことをお聞かせください。また補助金目的だ、イメージアップのためだ、あるいは、実現不可能だ、あたりでしょうか」
「いや、それは」
「賀臼さんのいるあなた方の会社に依頼したのはわたしの判断です。美女縫を始め、本気で何とかできると思っている社員もおりますが、わたしは、少なからず今のこの会社の体制では不可能だと思っている。それを会社に分からせるためにあなた方を呼びました。賀臼さんが陣頭指揮をとっているのだから、先ほどの説明程度は、子供のかたる夢語りのようにとっていただけたのではないでしょうか」
想定していた態度と真逆だったため、仁楠ら二人は目を丸くした。
「流通業である限り、トラックの使用は必定。自車を持たないわたしどもの経営スタイルでは、排出量ゼロを掲げることが間違っている。それでも、経営陣がSDGsを掲げ始めたものですから、我々サプライチェーン部としては、何かしらの回答を出さないといけない。
でも、わたしどもの仕事として、排出量を減らそうなんて考えていたら、仕事になりませんよ」
郡馬は、それでは、お言葉ですが、と切り出して、そもそもESG経営を目指す姿勢というのが乏しく、と演説を始めてしまった。仁楠は止めるかどうか悩んだが、尾怒はじっくりと郡馬をみつめ、ゆっくりうなずき続けていたので、よほど失礼なことを言わない限りはそのままにしておくことにした。
ひとしきり話し切り、満足したのか、郡馬は仁楠の顔を見た。ずいぶんな無茶ぶりだな、と驚きながら、
「もちろん、カーボンニュートラルを目指すことがすべてダメ、とは言いません。それに、流通業として、それを掲げること自体は今や標準的と言っても過言ではありません。社外に、実際は無理だよ、なんて本音を掲げる必要などありませんから。
ただ、掲げるにとどめるに越したことはない、というのも現状の事実ではあります。
実際に方策を立てても、一企業の中で対応できるのは、せいぜい排出抑制程度。それ以上を目指すと、企業経営に支障をきたすレベルの方策になってしまい、それこそ投資家からの視線も厳しくなります。ESG経営が揺らいでしまう、とでもいいましょうか」
と続けた。尾怒は仁楠に対しても、好感を持ちながらうなずいた。
「よく分かりました。いえ、十分です。あとはわたしが社内で検討します」
「本日ヒアリングはできましたから、排出抑制まででしたら、わたしどもで協力できます」
「本当に、十分なんです。先ほども申しましたが、我が社がこの経営スタイルを通す限り、排出量を減らすことを掲げることがちゃんちゃらおかしいのです」
恐らく尾怒は、今日の会議について、だいぶオーバーな表現で上に報告するのであろう。ハンブルク研究所でもお手上げだったようです、といった具合に。そしてそれは賀臼も了承済みなのであろう。
利用されたのだ。小学生にされたように。
帰路につく前、ローザンヌ社オフィスのトイレでそんな愚痴を仁楠はこぼした。郡馬は、じゃあ部長の、これは大型案件だぞ、っていうのも、ぼくらを騙したんですかね、と悪態づいた。
しかし、そう言われると少し引っかかるところがあった。賀臼からすれば、あの場で自分たちを完全にだます必要性はあっただろうか。
「裏がある、かな」
「というと?」
「大型案件になるぞ、というのも本当で。そして、尾怒さんに、仁楠と郡馬がお手上げだと言えばそれでいい、みたいなことを言ったのも本当、とかかな」
「それって、尾怒さんからの、ダメだというお墨付きをください、みたいな依頼を受けた時点で、賀臼さんは、ぼくらが形勢逆転の一手を打って、ローザンヌ社を救う方策を打ち出そう、と思っていた、ってことですか」
あくまで推測だけどね、と仁楠はいたずらっぽく笑った。帰ったら、そこまで気づいたんですけど、と部長に言ってみるか、と仁楠は思った。
トイレから戻ってきた二人に、下まで見送ります、と尾怒はエレベーターへ二人を案内した。
「ところで、亜院さんは、まだ御社にお見えになりますか」
初めて聞く単語だったので、二人とも、それが会社名なのか人名なのか、見当がつかず、リアクションをとれなかった。
「あぁ、その様子だと、もういらっしゃってないようですね。また、賀臼さんにお話を伺ってみてください」
尾怒から意味深な言葉を投げかけられた。そのまま別れるつもりだった仁楠だが、クルリと踵を返した。
「尾怒さん。また後日、少しお時間をください。わたしどもからも、何か提案はさせていただきたいのです」
驚いた様子の尾怒だったが、すぐに表情を崩して、ご厚意ありがとうございます。それでは、また日を改めて、とにこやかに送り出した。
「主任、いいんですか。当てはあるんですか」
「一応、ね。郡馬くん、明日空いているかな。一つ同行してほしいところがあって」
さすがです、どこまでもついて行きますよ、今日は作戦会議ですか、と意気込む郡馬に、ああ、誤解させてしまってごめん、と仁楠は少し謝った。
「ぼくと、じゃないんだ。明日、塚さんと行く予定だった場所に同行して、ローザンヌ社への提案の情報収集をして欲しいんだ。ぼくは明日から、ローザンヌ社の倉庫をあたってみる」
塚ですか、と郡馬は明らかに嫌な顔をした。




