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第三章 カーボンニュートラルの存在と滑らかさ 3




 デスクに戻ってきた仁楠の傍らには、郡馬が控えていた。




「主任、大型案件になりそうですね。なんたって、ローザンヌ社ですよ」


「うん、でも」




 郡馬もそれ以上は言わなかった。




 そう、カーボンニュートラルとは、塚の言葉を借りれば無理ゲーに限りなく近い。




 カーボンニュートラルを目指すとして、たとえば製造業であれば、設備の見直しと、電力会社を再生可能エネルギー社に切り替えて、高額になる電力出費に耐えうる経営、組織変革をするように、ほとんど抽象的な話をすれば形になる。




 だが、今回のように、流通業になると話は大きく変わる。




「ローザンヌのサイトで、注文したことあるかい」


「はい。配達に来たのは、地元の配達パートナーでしたね」




 流通業が、自前の車両で全国ネットワークを持っていることはあり得ない。各エリアの協力会社と提携して配送網を確保している。




 つまり、いくらローザンヌ社が気を付けても、下請けや、孫請けが電気自動車を使っていなければ、カーボンニュートラルは達成どころか、目指すことさえ不可能になる。




「なかなか厄介ですね。でも、主任と仕事できるのは久しぶりなので、勉強させていただきます。今日は、お先です」




 郡馬は、明日からの作業は骨が折れることを早々に予期し、今日は定時でさっさと帰ることにした。




 一方の仁楠も、さて、今日こそやってやるぞ、と意気込んだ。




 黒根の髪の毛の採取である。




 社長室にごく自然な流れで入る必要があるが、がさつなイメージの黒根は、部屋を出るときは必ず施錠をして出るので、黒根と会う口実をつくりながら、髪の毛を拾い集める必要があった。だがそれはあまりにも不自然で、難題であった。外流に協力を仰ぐこともできず、万事休すに思われた。




 しかし仁楠は、今日という日を待っていた。正確には、黒根が帽子をして出社してくる日を、である。仁楠は社長室をノックして、




「親の体調が悪く、ご迷惑をおかけしますが、今の案件がひと段落すれば、少し長めにお休みをいただきたく」




 と、直接黒根に申し出た。これは前もって賀臼にも言っていたことではあるが、日を改めて社長にも直接伝えておきたい、と賀臼に言っていたため、自然に会話を始めることができた。




「賀臼から聞いているよ。ご両親共に、なんだってな」




 当然嘘である。




 だが仁楠は、自身のもやもやを解決するためには、親を空想上で危篤にするしかなかった。あとは、黒根の横にあるコートラックにハンチングがかかっているのを横目で確認して、




「ちょっと容体があまりよくなくて」




 と、小声で相談するのが当然だ、と言わんばかりに、大げさに黒根のデスクを回り込んで、まるで黒根の耳元で話そうとしているかのように近づいた。




 あとは、軽くかかとでコートラックを蹴り、落ちてくるハンチングを、床に落ちる前にキャッチすれば、目的は達成された。




「すみません、足が当たってしまって」


「ああ、いいよ、落ちてないなら。またかけておいて」




 謝りながら、握りしめた右手で、ハンチングの裏をかきまわすだけかきまわして、ラックに戻した。一定の手ごたえを感じた仁楠は、それでは、と部屋をあとにしようとした。




「あぁ、待ってくれ」




 体中の筋肉と脂肪が硬直した。




「そういえば、塚なんだが」




 心臓が喉まで飛び出てくるような感覚は、人間人生で一度経験するかしないかだろう。仁楠のそれは、まさにこのときだった。




「歓迎会第二弾でも、しようじゃないか」


「は、はい」




 引きつるようにでもしないと口角が上がらず、仁楠は何とか愛想笑いで返答できた。




「も、もう行ってもいいですか?」


「おう。終わりだ、終わり。神に誓ってもいいぞ」




 一週間分くらいの体力を吸われたような気がしながら、ふらつきながら仁楠は部屋を出た。




 髪の毛を握る右手は仁楠の汗でベトベトであった。また、採取できたのは十本にも満たなかった。これでは検出されないのでは、と不安になったが、ひとまず封筒に髪の毛を入れて、バッグに仕舞いこんだ。




 冷静に考えれば、黒根の髪の毛を採取する必要はないのである。




 仁楠か黒根、どちらかのDNAが塚と一致したのだから、仁楠は、自分の髪の毛や体液を十分に採取して、高木に渡せば、判明する話なのである。




 それで塚と一致しなければ、晴れて黒根と塚とは親子と判明する。




 だがそれを、仁楠は拒んだ。万が一、仁楠と一致するという結果が出てきた際、とても受け入れられる自信がなかった。




 それでは何も解決しないのである。あくまで、黒根のDNAと一致するかどうかを調べるべきであって、そこに仁楠のDNAを単独で提供することには大きな抵抗があった。




 この数日、仁楠は、二十数年前の出来事を必死に思い出していた。仮にもしも万が一、塚が、仁楠の父であった場合、いったい原因は何なのか、心当たりはあるか、と、いうところを突き止めておく必要があった。




 しかし当時はまだ学生の年齢で、ろくにスケジュール帳もつけておらず、仁楠は何も思い出せない。学生の頃、先輩に連れられて遊んだ店ではめを外しすぎたのだろうか、と邪推するが、どうしても心当たりはなかった。




 とかく、この黒根の数本の髪の毛で判明すれば、すべてのモヤモヤから解放される、と仁楠は切り替えることにして、封筒に高木のあて名を書いて、ポストに投函した。




 誰に祈るともなく、パン、パン、と手を打った仁楠であったが、無宗派の彼が祈るのは、むしろろくな結果にならないジンクスなのかもしれない。




 八月の夜、熱を帯びた夜である。

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