第二章 デオキシリボ核酸の存在と現実ギャップ問題 10
十
やはり、この会社で、今社長と塚との関係に気づいているのは、社長と、部長二人と、この自分だけだ、と改めて安心した仁楠は、帰り支度を始めた。
そのとき、視界の端で、誰かが自分を手招く姿が見えた。嘱託社員の、外流であった。
労働時間は短く、普段は他の社員の定時より二時間はやく退勤する外流は、すぐにあだ名をつける塚からは、『げる爺』と失礼な命名をされている。仁楠は外流と視線を合わせて、自分ですか? と無言で自分を指さしたところ、頷かれたため、不審がりながらも、外流に招かれるまま、一度オフィスを出た。
「きみが戻ってくるのを待っていたよ」
前身会社に勤めていたのは、先ほどの社長、部長二人と、このげる爺こと外流だけで、年齢だけで言えば一番上であった。仁楠は、再雇用の嘱託社員として会社に残っているのだろう、と解釈していた。
「クロのことなんだけどね」
外流は黒根のことをそう呼んだ。外流と話すこと自体ほとんどなかった仁楠は、その外流と黒根との距離感の近さに少し緊張した。
「この前、賀臼とベルと話していたらしいんだけど、ぼくにも相談されたんだ」
「すみません、ベルとは」
「あぁ、ごめんごめん。昼鈴だよ。ほら、鈴で、ベル」
会社のトップスリーまでを気安く呼べる外流に、引き続き緊張を抱きながら、どんな重い大きな話が飛び出てくるのかと、仁楠は身構えた。
「どうも、クロの娘というか、隠し子がいるらしいじゃないか」
解決したばかりのはずの、ド直球な話だったため、仁楠は、ひえっ、と甲高い声で飛び上がった。
「うん、驚くのも無理はない。ぼくも驚いたから」
外流の話しぶりから、自分の盗み聞きがバレた、という話ではないと分かり、ほんの少しの安堵をしたが、逆に、本格的に、この話に巻き込まれるということも分かり、全身をめぐる血液の温度が数度上がっていくのを感じた。
「初めに気づいたのはベルだった。塚の歓迎会の途中で、娘みたいな社員が入ってくるようになったな、ってクロの話から、自分で調べ始めたらしい。
クロのその話自体は、まったく根拠のない、本当に言葉のままの意味の、無意味なものだったんだが。
ベルは面接に際した調査資料のときに、塚の父がいなかったことを思い出したんだ。それで賀臼に相談して、ちょっと調べたらしい。もしかしてクロは、探偵や興信所を使って、塚を自分の隠し子だと見つけて、大学に斡旋させて入社させたんじゃないのか、って。
まあ、前の会社のときから、実際にあれこれ動いて仕事するのはベルと賀臼だったしね」
外流の話しぶりは、嘘偽りのない、誠実なものであった、仁楠は、盗み聞きから立てていた仮説に、裏付けや軌道修正ができて、興味深く聞き入った。
「二人は興信所を頼ろうとしたのだけど、それを使ったことをバレたら、クロの機嫌を損ねるだろうな、と思って。それで直接、鎌をかけるようにクロを問いただしたんだ。その日はぼくもいた」
「あ、三人で、社長を問い詰めたんですか」
あの日部屋から漏れてきた声には、外流の声はなかったが、うん、あれは五月の末の、と、外流が言ったその特定の日付は、仁楠が盗み聞きした日のそれと一致したため、聞き役に徹していたのだな、と理解した。
「結論から言えば、クロはシロだった。
シロ、と言っても、あいつの女癖の悪さは事実だし、塚が隠し子かどうか、というところはまだ分からない。ただ、クロが意図的に塚を斡旋した、というものではなかった。
クロの唯一の良いところは、大きく出たり、できもしないことを目標に掲げたりすることはあっても、嘘はつかない、っていうところだ。ベルも賀臼もそれは理解していたから、その日は念のためにしつこいくらいに鎌をかけただけで終わったんだ」
「鎌をかけた、というのは」
「無理難題を押し付けて、塚を退職に追い込みましょうよ、とかだね。本人に言ってないとはいえ、ひどいことを言ったよ」
「そ、それは、決して本当にそうしちゃおう、ということではなくですか」
「そりゃあね。ちょっと自由奔放なところは、ぼくから見ていてもあるし、賀臼もそれには苦言を呈していたけど、彼女も大事な社員なんだ。あくまで、クロの反応を見たかっただけだよ」
「あの、わたしの、結構なヤバい案件に、部長の指示で急遽塚さんが入ってきたことがあって」
「それは単に、場数を踏ませる、ってことじゃないかな」
仁楠は大きなため息をはいて、胸のなかのもやもやしていた黒い感情をすべて吐き出してしまいたかったが、不審がられると思い、下唇を噛んでなんとか我慢した。




