第二章 デオキシリボ核酸の存在と現実ギャップ問題 9
九
「主任、ちょっといいですか」
隣から塚がちょこんと手を挙げた。少し、申し訳なさそうな顔もしていた。
「右折待ちだから、赤信号待ちのときにして欲しいな、右折待ちはちょっとな」
と、塚に目もくれず一息で言い切った仁楠は、そこまで運転が得意というわけではなかった。
「主任、やっぱりぼくが運転しますよ」
「たまには運転しておかないと、ってワガママ言ったのはぼくだから」
結果的には右折信号が点灯してからハンドルを切った仁楠は、塚に対して少し冷たかったな、と、どうフォローしようか思案していた。
だが運転中というのは、視界に入ってくる標識や、対向車や、歩行者など、情報量があまりにも多い。先ほどの李今への講釈のような、普段からの自分の考えや私見をつらつら話すのならまだしも、塚へのフォローをする余裕は、今の仁楠にはなかった。
広い国道に入り、当分道なりに進むだけ、となったタイミングで、ごめんごめん、さっきの話なんだっけ、と聞き返したが、戻ってからにします、との返答だった。機嫌を損ねてしまったか、と不安になってしまった。
事務所に戻ってきたころには、あと三十分で定時という時間になっていた。塚に話をしようかと思ったが、塚が賀臼に呼ばれたので、仁楠は李今と二人で議事録をまとめることにした。
「どうしましょう。低予算で、かつスピーディに、となると、何らかの対応が必要になりますよね」
「その、重機移植をしている会社に相談してみようか。名刺は持っている」
一回相談したときに、話にならない予算ですよ、って断られたっきりだけどね、と、仁楠は名刺入れを開きながら少し悪態づいた。同時に、それ以降、緑課から動きがあるまでこちらも動かなくていいか、と受け身になっていたことに、自身の仕事に誠実さがあっただろうか、とこれもまた少し悔いた。
「じゃあ、アポの電話だけ入れておきます」
うん、じゃあ今日はそれと、議事録をまとめたら終わっていいよ、と仁楠は自分のデスクに戻ろうとした。だが、賀臼と塚の姿がないことに気づいて、おもむろに李今のデスクに近づいて、
「ところで、部長に呼び出されているけど、やっぱり、あのことかな」
と仁楠はボソリと聞いた。
「あのこと、とは」
「いや、だからさ、」
塚は黒根の娘ではないか、その話を仁楠も知っている、だから取り扱いには気を付けて、って話だよ、と一息に言ってしまいそうになり、そこはさすがに思いとどまった。
「塚さんの昔の事情、ってことだよ」
「あ、ああ。いやー、でも部長もそこまで小さなことで、呼び出しまでしますかね」
「まあそりゃあ、業務中にする話ではないだろうけどね」
「ちょっとしたマナー違反ってだけですしね」
「マナー違反って言葉でカバーしきれることではなくないかな?」
仁楠が大きな声で聞いたことで、あ、何の話をしているか、に多分ズレが起きていますね、と李今から気づいた。
「この前部長と飲みに行きまして。塚さんと和井得さんと、あと主任との、小学校の話を聞いたんですよ。そこで、塚は困ったものだよ、現場を引っ掻き回したようだしね、って話をされていて。それで、主任が今朝、塚さんのことなんだけど、っておっしゃったものですから、塚さんがあれこれ口を出さないように気をつけて、ってことだろう、と思って」
あ、ああ、なるほどね、そうね、そのことね! と仁楠は胸をなでおろすように、安心した。李今はそれを見て、何の話だったんですか、といった野暮な話はしなかった。
仁楠は一人走って会社を出て、うおおおお、中間管理職、つらいぞ! と叫んで、ふう! と大きく息を吐いてから、ゆっくりとオフィスへ戻った。




