第二章 デオキシリボ核酸の存在と現実ギャップ問題 4
四
仁楠は緑課のフォルダを開いて、『過去』という名前のフォルダをクリックして開いた。これまでの会議録はすべてこのフォルダに入っている。
他の継続案件だと、このフォルダにはこれまでのプレゼンファイルも入っているのだが、緑課に対してはまだ具体的な提案に至った例がなく、逆に配布された江東区のファイルがいくつか整理されず保存されているだけであった。
「成果を出すって言っても、何をするんですか」
「今からプレゼン資料を作るんだよ」
「ええ! もう出発まで一時間しかありませんよ。不可能ですよ」
「不可能じゃないよ」
仁楠のその言葉は、それくらいやったことあるよ、と同じトーンで発せられた。
事実、仁楠は一時間程度で資料を作り上げたことが何度かあった。賀臼が直前まで放置していた顧客へ、急に訪問させられることになった、ということがこれまで何度かあり、仁楠はなんとかそのすべてで対応しきることができた。仁楠の出世の早さにはそうした理由があった。
手順としては、顧客が求めている内容を把握して、類似案件の資料を引っ張ってきて、顧客の数値にデータを上書きしてしまう、というだけのことであったが、そこに仁楠の、相手を傷つけないように、相手を立てて、という、奉仕の態度が加わるので、当日のプレゼンは概ね好評を得ていた。
「とはいえ、埋め立て地の緑地化の事例はないんだよなあ」
仁楠の知る限りでは、意図的な前例はなかった。
意図的ではない前例といえば、大田区の野鳥公園である。七十年ごろに形成した埋め立て地域のうち、いったん空き地として放置していた場所で自然発生的に森林や池が形成され、野鳥がこれもまた自然発生的に集まった、というのが起こりである。今では整備されているが、整備する側からすれば、無から生み出した緑ではなく、すでにあった緑を維持管理しているということになる。
ところが緑課の要望としては、新たに、かつなるべく早く緑地化を完了したい、というものだ。前例がないと、即席での資料作成は到底取り掛かることができない。
「部長に相談しようか」
仁楠より社歴が長いのは、黒根と、昼鈴、賀臼の三人だった。正確には、嘱託の外流も相当長い、というのは仁楠は分かっていたが、今重要なのは、仁楠の知らない前例案件を知っている人間であった。そうなると、今は清掃員でしかない嘱託の外流は外れる。
昼鈴は、仁楠が入社してすぐ、管理側へまわり現場から一線を引いていた。社長にはそう軽々と相談ができるわけがない。
となると、最適な相談相手は賀臼であった。前身の会社の創立時からずっと第一線で顧客対応をしており、仁楠を主任として、郡馬、和井得をサブとして動かす今の体制になる最近まで、部長、という役職にあるとは思えないほど外回りもしていた。生き字引、という言葉が社内で一番あてはまるのは賀臼であった。
だが同様に、今仁楠が一番話しかけづらいのも賀臼であった。盗み聞きがバレていた、と思い込んでいる仁楠にとって、賀臼、黒根、昼鈴とはなるべく接触を避けたかった。
「主任、なにか手伝いましょうか」
李今が仁楠へトコトコ歩み寄ってきたので、賀臼に何か聞いてきて、と指示しようとした仁楠だったが、仁楠はまだ管理職の立場の自覚がなく、無茶な指示をして嫌われたくないな、と思い遠慮した。
「え、え! 急に忙しそうにしているから、何事かと思ったら、今からプレゼン資料ですか。何もすることがないから、今日は引き継ぎがてらの顔合わせ程度、じゃなかったですか」
「そう、そうなんだけど」
結果を出さないといけないんだ、とまでは言えず、
「引継ぎの第一印象が大事だからね。ぼくらも積極的な態度を見せておいて、李今くんに好印象を持ってもらっておきたいから」
ありがとうございます、主任、と李今はご機嫌になった。うまくごまかせた、と仁楠はホッとしたが、その安心は束の間に終わり、
「じゃあちょっと前例がないか部長にも聞いてきますね」
と、李今は賀臼のデスクへトコトコと歩いて行った。仁楠は、止めるのも不自然になると思い見送ることしかできなかった。横で塚が受話器を取り電話対応を始めたこともあり、李今と賀臼との会話はまったく聞き取れるものではなかった。
それでも、立ったまま話をする李今の背中越しに、ちらりと賀臼の視線が仁楠の方へ向かった時、慌てて視線を別の方向へそらしてしまった。
今の一瞥は、急にこの一件にやる気になったということは、俺の思惑に気づいたんだな、とか、そういう含みのある一瞥に違いない、と仁楠は少し緊張した。そのうちにすぐ李今は戻ってきて、
「緑地化自体、土地開発の開始時に上がる話で、長期的な展望で進める例ばかりだから、このケースだと知らないね、とのことでした」
「ほかに何か言ってなかったかい?」
「いえ、それだけです。もう、今日は緑課に提案するのは難しそうですね」
ぼくの好印象、とか気にされなくて大丈夫ですから、と李今は自分のデスクに戻っていった。ひとまず他愛のない話だったのなら良かった、と仁楠は胸を撫でおろした。そしてそのまま自分のパソコンの画面を見て、今日の緑課とのミーティングはどうしたものか、と思案に暮れた。




