19 陰謀の最中へ
街道筋の井戸のある水飲み場を過ぎると白っぽい奇岩群が見えてきた。百年前までは、この奇岩の洞窟に大勢の人が暮らしていたという。馬を酷使して移動したおかげで、翌日の正午に椰子の木に囲まれた小さな村に着いた。
『ああ、王子様なら、今朝、出られましたよ』
王子は、小さなオアシスの農村で灌漑工事の様子を視察することになっており、昨日、王子一行は予定通りにここ訪れて一泊している。そこの視察は、毎年、王族がやっていることである。
本当なら、王子は村に午後まで滞在して、ここから近い別の村にある役所の視察をする予定だったのだが、反乱軍との講和を呼びかける為に移動している。
よし、王子のあとを追いかけよう。
潅木とサボテンの生えた荒野が続いている。口と頭に布を巻いているけれども全身は埃まみれになっていた。照りつける日差しと砂のせいで目がしょぼしょぼする。サボテンの前まで来ると、兄が止まった。
「サボテンの実がなってるぞ」
「うん、よく熟してるね」
馬から下りると、ディディの前髪にこびりついた砂粒を払いながら言う。
「喉がカラカラだわ」
「馬達が疲れている。数時間、ここで眠るぞ」
午後の日差しを避けるようにして大きな岩の影に入った。屈強な兄の顔にも疲労の色濃く滲んでいる。
「ディディ、岩塩を齧りながら水を飲むんだぞ。馬も塩も舐めさせなくゃならねぇ。あまり無茶をすると馬が動けなくなってしまう」
兄は、馬の足元でしゃがみ込んでいる。おまえのこと、こき使ってごめんと言いながら、丁寧に馬の蹄の手入れをしている。それから、まだ移動した。馬の脚が心配だが、無理してでも前に進むしかない。
「そう言えば、今日は断食の日だったよな。まぁ、無神論者のオレ達には関係ないけどな」
ヤズジュ教徒は断食の期間になると昼間に何も食べない。水さえも飲んでいけないとされている。王子達は水場で休息する予定のようだが、連なる岩が邪魔をしており野営地らしきものは、まだ先のようだ。人影など何も見えない。
「オレの部下が王子の馬丁と仲がいい。聞いたところによると、明日の午後、遊牧民の首長と王子の二人だけで話し合うらしいぜ。拝火神殿跡近くにあると言われている秘密の場所を指定してきた。死者の塔という名の廃墟があるだろう。鳥葬の場所なんだ。おまえ、鳥葬って分かるか?」
「知ってるよ」
遺体を鳥達に食べさせる。やがて骨さえもカラカラになり、朽ち果てるのを待つ。それが彼等の葬儀だ。
「死者の塔に近い秘密の洞窟とやらで話をする。一対一の話し合いだ。頭目以外の遊牧民はその場に入らないが、離れた岩の隙間に耳を寄せると話し合う声は聞こえる仕組みになっているのさ」
その洞窟の話なら資料で読んだことがある。大昔、盗賊達が洞窟でお宝の隠し場所を話す声が聞こえきた。それで、羊飼いの男の子が先まわりをして宝を横取したという。
「洞窟への正確な道筋を知っているのは彼等だけなんだ。道案内役の少年が誘導することになっている。その洞窟の奥は中で複数の道に分かれているから、何かあれば、頭目は逃げ出すことも出来るという訳さ」
ちょうど、明日の朝、遊牧民と王子の和平会談が行なわれる。
「つまり、暗殺するなら、今夜か明日の朝だ。オレがカルゴなら王子を殺した罪を遊牧民になすりつけるだろうよ」
王子一行がいる場所は、ここからそう遠くない。だが、セルディーが連れてくる援軍が間に合うかどうか分からない。岩だらけの荒地を走りながらディディは目を眇めて前を見据えていた。
「死なせない。レイ王子は次の王になるべき人なのよ」
「レイ、あいつが俺達に食料を送っていたのか。おかしいと思ったぜ。やけに食料の質が良かった。その食料を分けたから遊牧民も納得して襲撃を止めてくれたんだぜ」
兄も王子には恩がある。
「あいつ、一人でカッコ付けやがって……。待ってろよ」
見渡す限り、目の前には荒地がひろがっている。この辺りに人は誰も住んでいない。どんどん、日が傾いており、気温が急速に落ちている。
ディディは赤く色付く大地を駆け抜けながら思い出していた。
昔、ルビトリアかに移動する際に、兄と二人で夜の砂漠を移動したことがある。あの時、遊牧民の世話になった。明け方、彼等の天幕を見つけた。寒さに震えながら飲んだコーヒーは芳醇で美味しかった。
遊牧民の女達は、昼間、ディディが慣れない砂漠の暑さに参っていると濡れた布を頭に被せてくれた。夜、ディディは彼女たちと一緒に眠ったのだが、寝る前に、未婚の若い娘が夢見るように呟いた。
『もしも、今夜、あたしが、見知らぬ若い男に攫われても気にしないでね。我々の世界には、誘拐婚という儀式があるのよ。愛する娘をさらいに来るの。あたし達は恋人に略奪される運命なの。みんな、その日を夢見て暮らしているのよ』
誘拐婚という遊牧民特有の儀式。親も公認の婚約者が娘の寝床に入ってきて連れ去る事で結婚が成立する。
なんて不思議な世界なのかしらと、子供ながらに想ったものである。
牧草地を求めて旅する遊牧民達は定住することを嫌がる。毎日、例え数百歩であろとも天幕をどこかに移そうとする。
『あたし達はずっと同じ場所にいると穢れてしまう。地面が汚れてしまうの。砂漠は刻々と動き続ける。だから、人間も風のように漂いながら暮らさなくちゃいけないの。そうしないと、息が詰まってしまうのよ』
それから数年後。
王都近隣の小さな村で犠牲祭で羊を屠る光景を見た事があった。火を囲み、肉を皆で食べることで連帯感が深まっていく。頚動脈を切り、木の枝に逆さに吊るして綺麗にツルリンと皮を剥ぐのだ。そして、屠られた羊の血は畑に注がれていく。
屠られる瞬間の羊は、死ぬ前に何を想ったのかしら。
ビクッ。どういう訳なのか、王子の血が大地に飛び散る光景を浮かべてしまい、身体がゾクッとなった。
色々と考えながら移動してるうちに夜になっていた。完全なる漆黒の世界だ。
「おっ、いたぞ」
先を行く兄が前方の篝火に気付いたようだ。野営地の明かりが見えてきた。
近付いて気付いた。ハッとなる。複数の馬が杭に繋がれたまま横向きに伏せていた。
恐ろしい事に、馬が泡を吹いて死んでいる。ディディは恐怖を抱いて立ち竦む。
「おい、しっかりしろ」
馬の遺体の近くで、一人の馬丁が横たわっていた。デイディは、おやっと思った。この人はどこも怪我していない。健やかなイビキが聞える。しかし、兄は、馬丁を揺り動かしているというのに、いっこうに目覚める気配が無い。
(馬は死んでいるのに馬の世話をする者は死んでないのね……)
ディディ達は違和感を覚えていた。色々と妙だ。
焚火の周辺には雑穀の粥の入った鍋が湯気を立てたまま無造作に置かれている。食事を取っている途中に何らかの異変が起こったに違いない。護衛と役人の計十二人は宴に興じた状態のままダランと地べたに伏せている。
「飯か飲み物のいずれかに眠り薬を入れたに違いないぞ。だが、なぜ、わざわざ生かしているんだ。馬と同じように殺せば済むことなのに」
考え込みながらも、やけに険しい顔つきになっている。
「何なんだ、これは?」
ふと、脇を見ると、なぜか、首のない遺体が転がっていた。衣服や身体つきから察するに雑用をこなす少年のようだった。残忍きわまりない行為にディディの心臓は潰されたかのように軋んだ。
(なぜ、この少年の首を切り落とすのよ? 訳が分からないわ。誰が、こんなむごいことをするの)
兄は少年ターバンの飾りを見て凍り付いた。
「こいつ、赤の砂漠の部族だぞ。こいつが案内役の少年なんだな……。それなのに酷いことしやがる……。というか、首はどこにあるんだ?」
デイディは血の気を失うほどのショックを受けていた。
(こんなことをするのはカルゴに違いない……)
それにしても、王子はどこにいるのだろう? 王子の豪奢な天幕を覗いてみたが姿はどこにもなかった。しかし、王子の護衛を任されている若い護衛官は天幕の前で倒れている。
「何なの、これは……」
夜陰に潜む敵の動きを警戒するかのように、兄が篝火をかざし、周囲に視線を配りながら推測している。
「考えられることは二つ。王子は何者かに連れ去られたか、あるいは危険を察知して一人で逃げたか。どっちにしても近くにいる。こっちに足跡があるぞ」
兄の野生の勘がひらめいたのか、茂みへのある方へと自分の馬を向かわせている。デイディもあとをついていく。
毒殺された馬。眠り続ける護衛。首の無い少年の遺体。
明らかに、ここに何者かが来ている。何か大変なことが起きている。早く会いたい。王子に謝りたい! 自分のせいで窮地に追いこんでしまっている。
砂漠にはこんな諺がある。
『踏まない限り蠍は刺さない』
王子はカルゴという蠍を踏んでしまった。蠍は王子に毒針を向けながら迫っている。
王子を探し回っていると、目の前にコビトヤシの群落が見えてきた。これは、この時期になると枯れてしまう小川に沿って生えているものなのだ。
小さな泉に辿り着こうとした時だった。なぜか、不意に、サリンダの馬が横転していた。
「えっ?」
ディディは目の前で起き事が信じられないかのように、馬上で目を見開いた。
そのまま、放り出されたサリンダが地面に叩きつけられていく。
兄の馬に何か異変が起きたようだ。可哀想に馬は痛みに悶絶している。
馬から降りて、兄の顔を覗き込む。良かった、息はしている。幸いな事に兄は気絶しているだけのようだ。しばらくすれば兄は目を覚ますだろう。
(もう、馬は、ここから先は進めそうにないわね)
刺さると痛い棘のある潅木の隙間をぬって進むのは馬には難しい。だから、デイディは徒歩で進もうとしていた。
「あのう、レイ王子、どこかにいますかーー」
潅木と岩。他には何もない。隠れるとしたら潅木の陰に伏せるようにしてしゃがみ込むしかない。
あちこち覗き込む。
おかしい。なにか妙だ。グルグルと疑念の渦がまわっている。王子はカルゴに殺されたのだろうか。でも、それなら、わざわざ、どこかに連れ出したりしない。馬と同じようにあの場に残すはずだ。
(きっと、王子は一人で逃げたんだわ……)
すると、ヒョイと、背後から何者かに襟首をつかまれてしまった。デイディの足が止まる。男臭い息が首筋にかかり、ゾワッとなる。
「おいおい、おまえ、王子はここにはいないぜ」
「あっ……」
こいつらは何者なんだろう。二人の男がディディを前にしてニヤついている。
「レイ王子の周りをウロウロしている変なガキはおまえか……。サリンダの妹だよな。ガゼルのように可愛い顔だな。なかなかの上玉だぜ」
どうやら、カルゴの手下のようだ。一人は顔に傷痕があり、もう一人は細面で縮れた赤い髪が特徴的だった。軍部の汚れ仕事をする奴なのかもしれない。
「ニースカ、まだ殺すなよ。その前にジックリとおいら達で可愛がってやろうぜ」
逃げたい。それなのに、あっ……。ディディの上着の裾が潅木の枝に引っかかってしまい無様に転んでいた。
「おらおら、ジタバタすんなよ。可愛いお嬢ちゃん、おいらと遊ぼうぜ。なぁなぁ、いいことしようぜ」
顔に傷のある男がディティの太股を撫で回しながら笑っている。周囲に誰もいやない。自分独りで何とかしなければならない。チリチリ頭の男が楽しげに囃し立ててている。
「ニースカ、早く犯してしまえ。いひひ。いいか、次はオレの番なんだからな」
ディディは、ニースカに腕を捕まれて引き寄せられそうになりゾワッとなった。
キスされそうになり、ディディは顔を歪め。そうはさせまいとして、踏ん張りながら悲鳴をあげる。
「いやーーーーーーーー」
「おい、おまえら、まだ手を出すな」
冷静な声だった。第三の男が後方の潅木の中から顔を出している。
軍用犬を思わせる鋭い目付きをしていた。雰囲気や口調も、今目の前にいる二人とは違っている。
独特の帽子と顔立ちから察するに彼は少数民族のメイア人なのだろう。メニア人は狡猾で商売上手で計算高いと言われている。
そんな彼が、少し離れた場所から褪めた顔つきで言う。
「こいつらはニースカとトーホリだ。二人とも女に飢えている。油断していると獣のように襲い掛かってくるぞ。愛しい王子様の名前を大声で呼んでみたらどうかね? お嬢ちゃんを助けに来るかもしれないな」
ディディはハッとなった。そうか、そういうことか。
苦しい程の鼓動を感じた。良くない予感が渦巻いている。もしかしたら、王子が近くにいるのかもしれない。彼等も王子を探している最中なのだ。
(あたしを痛めつけたならば、どこからともなく王子が飛び出してくると予測しているのよ)
険しい顔のメニア人が自分の部下に向かって尋ねている。
「おい、おまえ等、サリンダが死んだかどうかを確認したのか?」
「してねぇよ。あんな落ち方をしたんだぜぇ。くたばっているさ。あんたは、サリンダよりも小娘を生け捕りにしろって言ったじゃないかよ」
「馬鹿者! 早く確認しろ! いや、わたしが確認する。おまえ等はお嬢さんを見張っておけ。貴重な人質だぞ。まだ手を出すなよ」
剣を携えたまま、素早い足取りでメニア人が去っている。ディディとしてはこの隙に何とかしたい。
「あっ、あのっ! ちょっと待ってください! あ、あたしは娼婦なんですよ!」
「はぁ?」
思いがけないことを言われたせいで二人ともポカンと口を開けている。
「命を助けて下さい。御奉仕しますよ。あたし、こう見えて、いやらしいことが得意なんです。何でもやっちゃいますよ。ささっ。ズボンを脱いでください。さぁ、どうぞ!」
「お、おい。マジかよぉ。人は見かけによらねぇな」
そう言って、その気になったのは顔に傷のある男はニースカだった。
ニースカには、どこかお人好しな雰囲気が残っている。ディディは膝をついて見上げながら、媚びるように懇願していた。
「目を閉じて下さい。その方がうんと感じますよ」
「ほんとか……。へーえ、そりゃいいぜ」
ニースカが目を閉じたままズボンを下ろそうとしている。その様子を見ていたトーホリは、ケッと唾を吐いて馬鹿にしたように笑っている。
「覗きの趣味はねぇんだよ。おれはションベンしてくるぜ」
言いながら背後で立ちションをしている。ニーカスの股間を殴って倒したとしても後ろに控えているトーホリに襲われたらお終いだ。それでも、ディディはニースカの金玉を潰そうと決意する。
と、その時、風など吹いていないのに周辺のガサゴソと潅木が音を立てた。おかしい。トーホリの周辺で何かが動いている。
「うっ!」
突然、呻き声が洩れたので振り向くとトーホリが倒れていた。斬られたらしい。首から大量の血を流している。
(お兄ちゃんなの? ううん、それなら、あたしに話しかけてくるよね)
一体、誰がトーホリを倒したのだろう。敵か味方が分からない誰かが近くにいるみたいだ。
「誰だ!」
異変に気付いたニースカはズボンを上げて臨戦態勢をとろうとするが、ディティは股間を蹴り上げていた。
「うぎゃーーーーーーーーーーーーっ!」
ニースカの悲鳴が荒地に響き渡った。
股間を押さえながら前に倒れている。ディディはとどめをさすために頭の上を踏みつける。すると、背後から何者かがディディの腕を引いた。
懐かしい香りがした。いつのまにか、優しく抱き寄せられていたのである。
「ディディ、オレだよ……」
良かった。王子は生きている。しかし、彼が左腕をダランとさせて、何だか苦しそうにしていることに気付いた。左手は麻痺しているようだ。
「その腕、どうされたんですか?」
「偶然、蠍に腕を噛まれた。かげで、痛みで目が覚めた。天幕から出ると全員が眠っていたよ。飲み物に眠り薬を入れたらしい。裏切り者が同行者の中に混ざっていたようだ」
「王子、カルゴが罠を仕掛けています。早く逃げましょう!」
けれども、金玉を蹴られたニースカは、もう、早々と復活している。悔しそうに起き上がり、ディディ達が潜む繁みを掻き分けている。怒りの形相で、うおーーーっと剣を振り上げてレイ王子に斬りかかっている。
「このやろうーーー。てめぇ、ふざけやがって! てめぇら、今すぐ、ぶっ殺してやるからな!」
王子も剣を持ってかわしているのだが、ニースカは俊敏だった。細身で小柄だというのに手ごわい。不利なことに王子は利き腕を毒によって負傷している。ニースカの攻撃がら身を守る事で精一杯のようだた。
(どうしよう! レイ王子を助けなきゃ!)
ディディは木の枝を握りしめて加勢しようとしたのだが、斜め後ろから腕が伸びてきた。閃光のようだった。いつのまにか、ディディの喉元に剣の切先が突きつけられていたのだ。
メニア人の男の低い声が耳朶に響いた
「おっと、お嬢さん。無駄に動くと怪我をしますよ。王子、あなたも観念するといい。その剣を捨てなさい」
ディディはメニア人に腕を回されて拘束されている。メニア人は薄く微笑みながら王子に告げている。
「余興はここまでですよ。麗しき王子様、やっと、出てきてくださいましたね」
不気味な程に丁寧で静かな言葉遣いだった。逆に、この丁寧さが怖くてゾクッとなる。
「王子、安心しなさい。この娘がニースカに陵辱されないように、わたしが先に殺してあげますよ」
「その子は関係ない! オレを消せば充分だろう。頼む、その子だけは……」
「あなたを殺すのは我々ではなくて遊牧民ですよ」
メニア人がそう言うと粗野なニーカスが黄色い歯茎を剥き出しにして怒鳴った。
「俺は許さないぜ。舐めた真似をしやがって! 犯してやろうか、ゴラァ!」
すると、メニア人がニースカの憤怒の表情に呆れたように言い放ったのである。
「ニースカ。仕方あるまい。少しだけなら手を出してもいいぞ」
そう言うと、ディディの身柄を、あっさりとニースカに引き渡したのである。今度はニースカに腕をつかまれて引き寄せられていた。ニースカの衣服が汚れており酒臭い臭いがする。
「痛いじゃないの! やめてよ! バカ!」
「喚け、喚けよ! その顔を犬みたいにペロペロしてやるぞ」
臭い息がディディの頬に降りかかってくる。ディディはニースカの顎に噛み付いて拒否していた。
「ぐわっ! てめぇ、なにしやがる!」
背後からディディの背中を斬り付けようと、ニースカが短剣を振り上げている。殺す気だ。
「ディディ! 逃げろーーーーーっ!」
王子が叫ふ。そんな王子の腹部にメニア人が蹴りを入れて黙らせている。
夜の空気を引き裂くかのようにレイ王子の悲痛な叫び声が響いている。ディディに刃先が迫っている。ディディの細いうなじに振り下ろされようとしている。
(ああ、神様! あたしは死んじゃうのですか!)
さすがに、もう駄目かもしれない。膝の力をなくして座り込む。目が虚ろになる。
しかし、信じられないことが起きていた。ディディの斜め前から鋭利な刃物が凄まじい勢いで飛んできたのだ。ディディは思わず目を疑い口をポカンと開く。
その刹那、ニースカが振り上げた指先が真っ赤に染まっていて……。
「ひっーーーー……!」
ディディは怯えながらしゃがみ込む。恐ろしい事に、ニースカの人差し指と中指の先端が千切れてポタポタと落下しているのだ。
もしかして……。顔を上げると、岩の上に立つ凛々しい男の姿が目に飛び込んできた。
月を背中にして微笑んでいるのは兄のサリンダた。
どう見ても、ここから二十歩以上は離れていのに狙いを定めて鉈を投げて、見事に敵を射止めている。やはり、肩の強さは天下一品。
兄は、大きな岩と繁みの中から顔を出してニヤリと笑った。
ヒラリとこちらに駆け寄る兄の動きは野生の豹のように鮮やかだった。
「ふふ。遅くなっちまったぜ。すまなかったな。ディディ……」
三日月刀を握り締めたまま大股で歩いてきたかと思うと、豪快な動作で潅木の幹に刺さっている鉈をガシっと引っこ抜いて回収した後、鉈を構えて目を眇めた。
「許さないぜ。舐めたことをしやがったな」
一瞬にして利き指を奪われたニースカは止血しようとターバンを指に巻きつけている。
しかし、兄は、ニースカの頭を大胆に後ろから蹴り上げている。
「てめぇを殺してやりたいが、まだ殺さねぇよ!」
ボカッ。頬が歪むような衝撃を受けた弾みでニースカは呆気なく気絶して崩れ落ちている。残るはあと一人る。
これで安心だと思ったのだが、メニア人の男は待ちわびていたと言いたげに冷酷に微笑み続けている。
「おまえが噂のサリンダか。おまえのような男を殺すのは惜しいな。カルゴ様と取引をしないか? ペポロの地位をおまえにやるとおっしゃっている。儲かるぞ」
しかし、兄は、きっぱりと首を振った。
「生憎、俺が欲しいものはそんなもんじゃないんだよ。もう、これ以上、軍部の横暴を許す訳にはいかねぇのさ」
「そうよ! お兄ちゃん、そんな奴のことなんてやっつけちゃってよ!」
叫びながらディディは、地面に倒れているレイ王子のもとへと駆け寄っていく。
「ま、巻き込んですまなかった。オレの考えが甘かった。カルゴ、あいつは、思ったよりも頭の切れる奴だったな」
まんまと罠に嵌められたと呻いている。王子と遊牧民。それらを綺麗に抹殺するつもりなのだ。
「オレが講和という言葉で彼等を誘い出して裏切るという筋書きになっているようだ。だから、オレの護衛の兵士達を、まだ生かしているんだ。道案内の遊牧民の伝令の少年をあいつらが無残に殺してしまった。切り落とした首を馬の背に積んで遊牧民の元へと返している。彼等は決して許さない。血の報復が始まる事になる」
乾いた大地の向こう側から聞こえてくるのが分かった。家畜の足音と砂煙が押し寄せているのが分かる。王子の野営地を目指している。遊牧民達は一里か二里先に迫っているのだ。
「王子を殺した遊牧民がどんな扱いを受けるか分かるか?」
カルゴの真の狙いが見えてきた。遊牧民の家族、つまりは、無関係の遠い親戚もまとめて囚人という名の奴隷として売り飛ばすつもりでいる。
「そんなことさせないわ。王子、逃げましょう。そして王都で悪事を暴きましょう」
「無理だ。野営地の馬は死んでしまっている。おまえ達の馬も怪我をしているに違いない!」
「走って逃げましょう」
「オレは駄目だ。毒のせいでうまく歩けない」
王子の顔色は青く澱んでいて、兄に救いを求めたくとも、敵の男と剣を付き合わせている。兄が苦戦しており、ディディに向けて焦ったように怒鳴っている。
「ディディ、おまえは逃げろ! 兄ちゃん、こいつをやっつけたら、おまえのもとに行くから安心しろ。おまえだけは先に逃げろ!」
「王子も一緒じゃないと嫌だ! 早くやっつけてよ!」
「ディディ、行け。レイの為に死ぬ気なのか!」
「あたしだって死にたくないよ! そんなの嫌に決まっている!」
グッと顎に力を入れて王子の肩に腕をまわし精一杯の力を使って前に踏み出していく。
「あたしは王子の為に死んだりしません! 王子の為に生きます! だから、王子もあたしの為に生きようと必死になって足掻いて下さい!」
「ああ、そうだな……」
ハァハァ。王子の息は粗い。ディディは目の縁を真っ赤にしていた。切なさが胸を突き刺している。伝えたいことが胸に溢れている。
「あたしに、王子を攻める資格はないのに偉そうなことを言ってしまって、ごめんなさい」
「構わないさ。オレは、おまえが言うように臆病な猫のように逃げていた。役立たずの孔雀そのものだったよな」
自嘲の色を滲ませながらも王子が告白している。
「おまえに会えて良かった。いいから先に逃げろ。頼むから……。おまえは、生き抜いてくれ」
「いいえ、王子を置いていけません」
誤解したまま、遊牧民が王子を殺そうとするだろう。
背後では兄と刺客の壮絶な闘いが繰り広げられていた。
前方に起伏の激しい奇岩が乱立している。どこかの岩の窪みに潜り込んで隠れよう。何とかしてみせる。
(王子のことはあたしが守ると心に誓ったんだもの……)
もう少し待っていれば援軍も来るかもしれない。
「あなたを愛している人のためにも、あなたは生きるべきなんです。どうか生き続けて下さい」
王子の背中を懸命に支えながら叫ぶと、苦しそうに痛みをこらえながら王子が弱々しく聞き返した。
「愛している? ああ、また、書記長のことを言っているのか?」
言いながら微かに目元を霞ませている。ディディはポロポロ泣きながら首を振っていく。
「いいえ、書記長様じゃありません……。もっと他にいるんです」
ヒリヒリと疼く気持ちを、どう表現したらいいのだろう。お風呂で突き放された時、すごく悲しかった。心が引き裂かれそうだった。ギュッと王子の手を握り締めた。
言葉にならない思いが喉に張り付いて声が掠れる。
「あなたは独りで苦しんでいましたね。自分が必要とされていないと思っていましたね。でも、そんなことはないのです! 誰よりも、あなたを必要としている人がいます」
孤独な王子の心を癒してあげたい。
「王子は誤解されています。その人は、あなたを心から思っているのです。なぜ、そのことに気付いてくださらないんですか?」
王子の額から首筋にかけて細かい汗が吹き出している。毒素によって起きた炎症のために発熱しているのかもしれない。
「そ、その人は熱い想いを心に秘めています。あなたを想う気持ちは誰よりも強いのです」
「本当か……?」
はぁはぁ。ディディの手を握りしめながら、ゆっくりと顎先を上げようとしている。王子は、ディディの手を握りしめている。かろうじて目を開いてる状態だった。そんな中、震える声で最後の力を振り絞るようにして尋ねた。
「それは? もしかして……」
すがるような眼差しがディディの心を突き動かしている。王子は、ただひとつの答えを切ない気持ちで求めている。祈りを込めたような瞳で微笑んでいる王子の手を握り締めたディディが愛らしく澄んだ瞳で告げた。
「……はい、それはアルバ王子です」
「えっ? ア、アルバなのか……?」
王子が手をハラリと手放したかと思うとカクンと目を閉じた。
「……お、王子?」
元気になると思ったのに、なぜか一気に脱力してしまった。
「いいから、は、はや……く、に……げろ」
王子の声が掠れている。何か響くようなことを言って意識を引き戻したい。
「聞いて下さい。正直に言いますね! ジゼルです。あたしが本物のジゼルなんですよ!」
王子が死ぬなんて絶対にイヤなのだ。震えながら抱きしめていく。
「あたしは、王子が好きなんです! 誰よりも好きなんです。愛しているんです」
だが、王子は、目を伏せた状態で力なくズルリと崩れ落ちている。失神しているのか返答はなかった。
「王子! しっかりしてください!」
心が押し潰されそうになるけれども諦めたくない! 怒り狂った遊牧民が王子を取り囲んで殺そうとしたならば王子の盾になってみせる。
(どうしよう。誰か来る……)
パーンと感情が最大限に張り詰めて呼吸するのも怖くなる。すると、物音が止まった。
「おい、どこにいる。オレだ! ディディ、返事しろ!」
兄が声だと気付いて心が晴れた。
兄は、デンと聳える岩棚の前で探しあぐねいてるらしい。デイディは岩の窪みから飛び出して立ち上がると大きく両手を振った。
「あたし、ここにいるわ。お兄ちゃんはあいつに勝ったのね!」
「ああ、多少は手間取ったけどな。殺してやったぜ。ところでレイはどうなった?」
ゴツゴツとした岩場を器用に踏み超えながら、こちらにやって来た。
「蠍の毒にやられたの。手当てすれば助かると思う。だけど、遊牧民達に捕まったらおしまいよ。向こうは王子が裏切ったと勘違いしている。誤解を解かなくちゃいけないのよ」
「しかしなぁ、気の荒い奴等を相手に話し合いをするのは大変だ。あいつらも、頭にきている。罪の無い伝令役の子供を殺したんだぜ。まったく、カルゴの手下どもは惨い事しやがるぜ」
命は命で贖うという掟がある。きっと、彼等は王子を許さない。
色々と考え込んでいた兄が、ふと耳をそばだてて目を瞬かせたのだった。
「おおっ、口笛だ。セルディーが仲間を連れて来たようだぜ」
兄も巧みな口笛で、『ここにいる』と仲間に伝えている。それを合図に援軍の群れが少しずつ移動して断崖の際に集結していったのだ。
屈強な男どもが一斉に手を振っている。二百歩ほど向こうにある崖の先端に明かりが集まっている。
目を凝らしてみると馬に跨るセルディーが先頭にいた。その勇敢な姿が目に入った途端にディディの心が飛び跳ねるように躍った。
セルディーの真っ赤なベールが夜風にたなびいている。その隣りに兄の盟友がいる。
「へいへい、隊長! おいらの美声が聞こえますか? 御無事ですか!」
「おおっ、こっちは無事だぞ! おまえらこそ大丈夫か!」
すると、先頭に立つセルディーが大声で叫び返す。
「あたいは平気だよ! でも、こいつらは泣きそうな顔をしているだろう! どいつもこいつも弱虫揃いなんだよ!」
「隊長! 勘弁してくださいよぉーーー! この女、獣でも通らないようなところばかり走らせるんですぜ! 戦をするよりも、こえーですぜ!」
疲労困憊。想像を絶する道のりだったらしい。彼等は月明かりの沙漠を駆け抜けたのである。百人くらいの若者が兄の為に集結しているが、彼等の衣服も顔も砂埃と泥にまみれている。セルディーが知っている近道というのは、果たしてどのようなものだったのだろう。
「隊長、さすがに、そこに降りるのは無理ですぜぇ。回り道させてもらえますかね」
「おう、分かってるよ。ゆっくりでいいぜ。おまえ等は、南側の篝火の方角に行ってくれ。王子達が天幕を張ってるところに向かってくれ」
兄が腰に手を当てたまま裾野から大きな声で指示を出している。
「いいかー、カルゴの手下のニースカって奴を生け捕りにしているからな。殺すなよ。まずは、そいつに、全部、吐かせることにする。遊牧民と交渉するぜ! オレ達の心意気で何とかしようぜ。それと、王子の護衛は眠っているから、そのまま寝かしといてやれ」
「へーい、分かりました!」
兄の声を聞いた彼等は安全に崖を降りる為に後方に向けて旋回している。兄は、王子の顔を見つめながら言う。
「お兄ちゃんが、そいつをおんぶしてやろう」
「うん、お願いするね。王子は歩けそうにないのよ」
そして。その数分後。何とか意識を取り戻した王子が呻くように呟いた。
「……サリンダ、すまない」
「いいさ。あんたには借りがある。兵站を送ってもらった時はマジで嬉しかったぜ。今、その礼を返しているんだよ」
しばらくすると、王子の天幕の前に傭兵部隊の全員が集結していたのである。兄が皆に向けて告げている。
「よく聞けよ。反乱軍は頭に血が昇っているぞ。一発触発にならないように、こっちから丁寧に説明する必要がある。みんなも、和やかに接してくれ」
星空を背に勇敢に指揮する兄の頼もしい声が響いている。セルディーは、再会したディディを強く抱きしめながら言つた。
「あんたが無事で良かったよ」
「セルディー、ここまで大変だったよね」
「あたいは平気さ。でも、あいつ等、男の癖によわっちぃんだよ。崖から落ちても死なないって言っても信じないんだ。柔な奴等だよ。あとはサリンダ達に任せようよ。あたいと一緒に戻ろうよ」
「やだ。あたしもここにいたいよ」
「我侭を言うな。王子の体調が悪い。蠍に噛まれても滅多に死なないが、なかなか回復しないんだよ。指の先まで変色ちまってる。すぐに優秀な医師をここに連れてこいよ。解毒剤が必要だ」
「あっ、そうか。うん。そういう事なのね。分かったわ」
「セルディー、ディディのことは任せたぜ。おまえなら泥棒が来てもやっつけられるよな」
「もちろんさ。やっつけられるさ。旅の間、いつも護身用の毒蛇を持っているからね」
言いながら腰の巾着袋を掲げている。よく見ると袋の中で細長いものが何やらモゾモゾしている。
「やだー、それ本物の毒蛇?」
「そうさ、袋の中ではいい子にしてるよ」
さすが、セルディー。
兄のサリンダは意識が朦朧としている王子を抱きかかえながら励ましている。煎じ薬が入った器を王子に握らせながら言った。
「ほらよ、王子、飲んでくれ。これからどうなるかは、あんた次第なんだぜ。あんたが未来を変えるんだ。あんたの言葉にこの国の未来がかかってるんだぜ」




