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18 いざ反撃

 王子の逆鱗に触れたディディは書記の資格を失っている。夕飯も食べずにションボリとうなだれながら説明すると、セルディーが声を荒らげた。


「なんだってぇーーー! アルバ王子が一枚噛んでいるってのかい。どういうことなんだろうね。気になるじゃないか!」


 ディディ以上に真相を知りたがっている。本来は、セルディーが殺されるはずだったのだから、キリキリするのは当然のことだろう。


「でもねぇー、アルバ王子はあたいに悪意を抱いてないよ。ハレムで挨拶した時も普通に接してくれていたさ。感じのいい人だった。賭けてもいいけど、アルバ王子はレイ王子のことを慕っているよ。アルバ王子が、兄のレイ王子に害をもたらすとは考えにくいよ」


「でも、アルバ様がイーダを殺したのは確かなの。それに、昔、王子の馬も殺したことがあるみたいなの」


「アルバ様が、そんなセコイ奴だとは思えないんだけどね……。嫁さんも感じのいい御婦人だよ。優しかったよ」


「あたしだって、アルバ王子がそんな人だと思いたくない」


 何か、深い理由があるのかもしれない……。ディディは焦れたように叫ぶ。


「あたし、本当のことが知りたい!」


「あたいも知りたいさ」


 セルディーが困ったように唸りながら頭を抱えて考え込んでいる。


「あたいは死人だから動けないよ。困ったね。ちょっと待ってよ。死人! 死んでるけど死んでない。ああっ、そっか、そうだ! ああ、そういうことか」


 何かひらめいたかのように指をパチンと鳴らしている。


「いつまでも隠れて住むなんて嫌なこった。あたいの性に合わないね。反撃するよ」


 何か良い事を思いついたらしい。切れ長の瞳が生き生きと奔放に躍動して輝き出している。


「あたいに任せな! あたいは生き返ることにしたよ!」

     

 その翌日。人々の好奇の眼差しを一身に惹き寄せながら、セルディーは胸を張り意気揚々と宮殿の正門を括った。


 さぁ、見やがれとばかりに、深紅の金の刺繍入りの豪華な衣服に身を包んでいる。ちなみに、それはセルディーの娼婦時代の一張羅だ。


 ドスドスと、大地を踏み鳴らすようにして突き進むと宮殿の内部へと続く第二の門に入った。事件直後は、リスのように怯えていたセルディーだったが腹をくくっている。

 

 もはや、闘牛士に頭突きをくらわす牛のようだった。


 ベールで隠すことなく髪と顔を世間に丸出しにしたまま、豪快に周囲の者達を怒鳴り散らしている。


「ちょっと! あんた等、あたいの顔をよく見るがいい。ジゼルだよ。死んでないよ! そこのヘボイ書記ども邪魔だ。どきな! 死んだのは、あたいじゃなくて侍女のイーダなのさ! そこの衛兵、何をそんなに驚いてんのさ! 幽霊を見るような目で見るんじゃないよ! おどき! そこを通せって言ってんだよ」


 セルディーは、大声で喋りながら衛兵を怒鳴りちらして歩いている。いつも以上に鼻息が荒かった。ドスドスッ。これみよがしに髪を振り乱して叫ぶ。


「葬式なんて迷惑な話だよ! ほとぼりも冷めたことだ。あたいは、お屋敷に帰らせてもらうよーーー」


 死んでいると思われていた姫が宮殿に帰ってきたのである。その衝撃に誰もが唖然としていた。チョコマカとジゼルの後ろを歩く華奢な侍女のことなど誰一人として注目していない。いゃ、一人だけ、侍女に目をつけた男がいる。ババスだ。


『うーむ。姫の後ろの娘の後姿に見覚えがあるんだよなぁ。どこかで見た顔なんだよな。どこだったかなぁ。見覚えがあるんだよなぁ』


 ババスの独り言はディディの耳にはしっかりと届いていた。


(んふふ、でも、あたしだって事には気付いていないのね)


 まんまとハレムに潜り込むことに成功している。 


『なんだとーーー。ジゼル様が生きているだとぉーーーーー』


 とりあえず、ハレムの宦官長官であるヘラルから事情聴取を受けることになった。


「あたいは、気付いたら外に連れ出されてたんだよ」


 セルディーは、そんな嘘繰り返して主張している。


「あたいは怖くなって街に潜んでいたんだよ。はぁーーー。犯人は誰なのかってーー。こっちが聞きたいねぇ。こうなったのは、てめぇらの警備がへっぽこなせいだよ! あたいが死んでなかった事に感謝しろってんだ。おまえ等みんな処刑されても文句は言えないんだよ。つーか、詫び入れろってんだ」


 セルディーに注目が集まっているのを幸いに、デイディはそっと、そこから離れた。ハレムの敷地に入る事が出来た。ここからは、ディディとセルディーは別行動だ。


 さぁ、どうしよう。早くアルバ王子に接触しなければならないのだか、私室、浴室、すべての場所を探し回る時間は無い。ハラハラしたまま周囲を見回す。


 だが、その時、その人が現れた。


 高価な絹の衣服の若者が、ハレムの中庭の繁みの奥に佇んでいた。


(アルバ王子!)


 アルバの目元からは柔らかな笑みがこぼれている。ちょうど、その瞬間、礼拝を促す声が響いた。ハレムの女達と宦官が丸天井の聖堂の中へと吸い込まれている。


 しかし、彼は声は出さないまま、ここにおいでとディディを誘導している。


(あたしに話があるのね……)


 夏の羽虫が明かりに燻られているかのような状態だった。危険と感じながらも、ディディはアルバ王子のもとへと向かう。


 アルバのことは、数ヶ月前に何かの式典で見かけたことがある。


(アルバ様と王妃って、性格はまるで違うのに、皮肉な事に唇の形や鼻筋は王妃に酷似しているのよね)


 しかも、王妃と黒子の位置まで同じ。涙黒子が特徴的だ。 

 

 あずおずと会釈して近寄ると、アルバは陽だまりのような微笑を浮かべた。


「やっと会えたね。嬉しいよ。君が、兄さんのお気に入りの書記のディディだね。大切な話がある。一緒に来てくれるね」


 糸杉に囲まれた庭園の遊歩道の脇にはジャスミン花が植えられている。物語の挿絵の世界に舞い込んだような不思議な感覚になっていると、アルバは背後に聳える高い塔をチラり見つめた。


 もしかして、あの塔に入るのかと思っていると、自分達が暮らしている『水仙の館』に招いたのだ。ここは、彼の書斎のようだ。


「この棚は隠し扉になっているんだよ」


 そう告げると、本棚の後ろにある秘密の通路へと誘った。


「初代の王と王妃が祭られているのは知っているよね。その塔には出入り口はないことになっているけれど、僕の部屋から入れるんだよ。このことを知っているのは僕と兄さんと王様だけだよ」


 そう言いながら、アルバは真っ暗な通路を先導している。手には小さなオイルランプが掲げられていた。通路の幅は狭い。二人で並んで進むのは無理だ。


 彼は、早足に進みながら呟いている。


「実は、この塔は緊急時の王族の避難場所になっているのだよ」 


 地下通路の行き止まり。天井の蓋を開けると、縄梯子がスルスルと下りてきた。


「ほら、もう、ここは円塔の中だよ」


 窓がないので真っ暗だった。霊病の中というより、大きな棺桶の中にいるようで居心地が悪い。


「明かりのある最上階に行こう……。ついておいで」


 螺旋階段を上っていくと、いつしか円塔のてっぺんに辿り着いていた。建物で例えると五階の屋根の上ぐらいの高さである。


 途中、部屋の様なものがあったので何かと尋ねると、王と王妃が生前に使っていた衣服や装身具も一緒に副葬品として置かれている部屋だと教えてくれた。


(泥棒が侵入しないように、この塔には入り口がないってことなのね)


 ここは、最上階。三百六十度見回すと、等間隔に六つの高窓がり、採光はバツチリで視界は良好だ。


 アルバは聖なる空間まで来ると安堵したように告げた。


「天空の霊廟だよ。ここなら、盗み聞きする奴もいないね」


 こうして、二人切りになるとディディはまごついてしまう。何しろ、この人は殺人の容疑者なのだ。おずおずと見上げていると、彼が微笑んだ。


「君は、僕に聞きたいことがあるのだろう?」


 視線も口調も柔らかい。この人が誰かを殺すなんて信じられないけれども……。


「アルバ様がジゼル姫を殺したのですよね?」


 すると、アルバ王子は小さく微笑み首を振った。


「僕が殺したのはジゼルじゃないよ。君も、それを分かっているはずだよね?」


 なぜなら、君がジゼルじゃないか……。そう続くのかと思い身構えていると予想外の言葉を言ったのである。

 

「僕が殺したのはイーダだよ。彼女はこれを持っていたんだよ」


 金色の帯に挟んでいたものをスッと取り出している。四つ折りにされた安価な紙を覗き込むと、汚い文字で走り書きされていた。


『うるせー、うるせー。ばばぁ! おめぇも愛人を作っているって、もっぱらの噂じゃねぇか! 強欲ばばぁ。あたいに説教する資格なんてねぇんだよ! アルバ王子は愛人の子だろ!』


 王妃と会食した時にセルディーが書き散らしたものである。その紙屑をアルバ王子が持っている事に驚いた。


「他にも色々あるんだよ。イーダは、ずっと君達を見張っていたんだ」


 アルバは穏やかな声音で真実を告げている。


「イーダは僕の母の密偵だよ。イーダは、シゼルは偽者だと母に報告するつもりたった。どんなことも母に話す前に、この僕に告げるように言い聞かせていたんだよ」


 王妃とアルバ王子。どちらも、セルディーの動向を監視していたということなのか? 


 何という恐ろしい世界なんだ……。


「妻は子供を産めない。だから、母は妻を亡き者にしようと狙っている。妻と僕は、いつも怯えながら用心していた」


 なるほど、王妃ならばお世継ぎを作る為にやりかねない……。


「なぜ、あなたは子飼いのイーダを殺してしまったのですか?」


「あの子は秘密を守らない。気付いてしまったんだよ。君が女の子だってことにね。まぁ、それはいいとして、軍部が警戒しているサリンダの妹だということも知ってしまったのだよ。僕は、兄さんを破滅させたくない。兄が愛している君を何としても守りたかった」


 腹違いの兄と実母の間に立ちながら悲劇を回避しようとしていたみたいだ。苦悩に満ちた表情を滲ませている。


「レイ王子の味方なんですよね! 王子は、あなたが彼の馬を殺したと思い込んで悲しんでおられましたよ。でも、それは誤解だったんですね! ああ、良かった!」


「あれは僕が殺したんだ。あいつらに逆らうと、兄さんもいずれこうなるということを分かって欲しかったんだ。当時の兄さんは軍部の不正行為に疑問を抱いて色々と嗅ぎまわっていた。僕は、警告するつもりで馬に手をかけた」


 どういうことなのだろう。何とも話がややこしい。


 アルバの痛ましいほどに澄んだ瞳が涙で濡れていた。


「軍部は、ある時、兄の暗殺を企てた……」


 あの事件のことだ。


「それに気付いた僕は先手を打ったんだ。毒を半分の量に調整しておいた。おかげで兄さんは死なずに済んだ」


「何を言っているんですか! 全部、捨てるべきでしょう!」


「僕が全面的に助けていることを悟られては駄目なんだよ。正面切って救おうなんて考えてはいけない。あいつらに必要なのは都合のいい王子なのだ。兄さんも毒を飲んで以来、軍部のやることに口を出さなくなった。それなのに、君が兄さんを窮地に立たせんだ」


 ディディが、あの日、王子に何気なく言った台詞……。


(傭兵に食料を送ってくださいって言ったけど……)


 それこそがカルゴの神経を逆撫でる行為だったらしい。


「おまけに、君は毒姫をカルゴの腹心の部下に送るようにと告げたね。しかも、反乱軍との争いをやめるように進言しているよね」


「あの時、書庫で立ち聞きしていたのはアルバ様ですか!」


「僕じゃないよ。カルゴの部下だよ。でもね、どちらにしても同じことなのさ。ここでは、どんなことも筒抜けになる……。君がサリンダの妹だということにペポロは気付いた……。あいつは毒で死ぬ前にカルゴに報告している」


 そうか。ナーラに執着していたペポロに対して書記だと名乗っている。あの店がサリンダの家だということは軍部も知っている。


 アルバ王子は嘆くように目を歪ませながら訴えてきた。

 

「どうして君達は帰ってきたんだい! イーダが行方不明になったことで事件は解決した筈だった! 母はこう思っている。イーダが邪魔な女を暗殺したから僕がイーダを国外に逃がしてやったとね。うまく誤魔化したのに、君はジゼルを連れて舞い戻ってきた!」


 怯えている。喉仏が細かく震えている。この人も苦悩していたのだと分かった。


「ジゼル遺書を書いた人物が誰なのか分からなかった。訳が分からなくて不安だったよ……」


「書記長様です。あたしが犯人だと疑われないように配慮をして下さったのです」


「そうか。僕がイーダを殺す瞬間を見たのだね」


「……あっ」


 書記長様は、真犯人の存在を隠そうと思い遺書を書いたのだ。そうしないと本物の犯人であるアルバが窮地に立たされてしまうから。


 そういうことなのだ。これで、事件の骨格は分かったけれど、この後、どうすればいいのだろう。


「なぜ、みんな、そんなにもカルゴを恐れるのですか? あなた達が協力すればカルゴなんて潰せるのではありませんか……」


「あいつは私欲を増やすことに夢中だ。だけど、敵軍の襲撃から国を守る能力に長けているんだよ。あいつ以上の指揮官は今のところ誰も考えられはしない。相手の裏をかく卑劣な作戦を幾つも成功させてきた奴なのだよ」


「だから、あなたは、あんな奴に従うとおっしゃるのですか?」


「依存するしかない。彼等に逆らって生きてはいけない。仮に、軍部を沈静化させたとしても他国からの脅威が押し寄せてくることが目に見えている。僕は、妻との生活を失いたくない。愛する者を危険な目に合わせたくない」


 ディディも愛する者を守りたい。


「あたしは、今すぐレイ王子に会いたいんです。どこにおられるのですか?」


「諦めなさい。もう手遅れだよ。君は、何も分かっていないようだね」


 柱によりかかったままアルバ王子はうなだれている。痛ましげに眉を寄せながら弱々しく首を振っている。


「今朝、近衛兵達と共に出発した。軍部は、赤の砂漠の反抗勢力を壊滅させると決めている。それなのに、兄さんは、昨日の会議の場でガザ民族の遊牧民の首長の若者と話し合うべきだと強く主張したんだよ」


 廷臣達の前に立ち毅然とした口調で宣言したというのである。


「反乱軍の条件を呑んで講和に持ち込むと言い張った。自殺行為だ。どうかしている! 軍部は、そういうことが一番嫌いなんだ! カルゴは刺客を使って兄の行動を阻止するつもりでいる!」


 アルバ王子は急に感情的になっていた。不吉な予感に追い詰められたように声を震わせている。


「兄は、移動途中、砂漠の野営地でカルゴの部下に殺されることになっている。ディディ、どうして君は兄さんを変えたんだ!」


「何を言っているんですか! 事前に分かっているなら、なぜ、助けようとしないのですか!」


「もう限界なんだよ」


 心許なげに眉を引き絞りながら悲痛な声で訴えている。


「カルゴは母の愛人だ。カルゴは僕を息子だと思い込んでいる。母は、僕を守る為にカルゴと関係を結び、カルゴさえも手玉にとっている。母もカルゴも、ずっと前から兄さんを殺したがっていた。誰にもこの流れは止められないんだよ……」


 洞のように虚ろな顔つきだった。彼は戦う前から諦めているものだから猛烈に腹が立ってきた。


「いいえ、あたしは王子を助けに行きます! 諦めるのは早いじゃないですか」


「間に合わないよ! 殺される」


 殺されてしまうと聞いてゾッとなる。アルバの怯える声が更に大きく響く。


「いずれ、サリンダも殺される。でも、君のことだけは必ず守る。兄へのせめてもの償いだ。逃げようとしても無駄だよ。地下室扉に鍵をかけておくからね。また、僕が来るまでこにいなさい」


 それだけ言うとディディに背を向けた。


「少し寝苦しいだろうが、棺の脇に敷物を置いておいたから、今夜は、そこで眠るといい」


 バタンと扉を閉じると、そのまま帰っていった。


「そんな……」


 王様と王妃の棺桶は横並びで置されていた。簡易トイレのような壷と、飲み水と干した果物も置かれている。


(ここを牢屋代わりにするなんて、とんでもないことだわ。罰が当たるわよ)


 アルバにしてみれば善意なのかもしれない。しかし、こんなとろに閉じ込められて焦っていた。


 どう頑張っても、高窓まで手は届きそうにない。ここは円錐形の塔の上。どうやって降りたらいいのだろう。 


(いざとなると、あたしは無力だわ。王子に偉そうな事を言ってしまったわ)


 馬鹿だった。王子に謝りたい。


 ディディを看病してくれた夜の眼差しや優しい声が心に残っている。


 王子! 切なさに薙ぎ倒されてギュッと下唇を噛み締めた時だった。不意に、背後から話しかけられた。


「ちょいと! 話はすべて聞かせてもらったよ! あたいは、お嬢様育ちのディディと違って、いつだって用意周到なんだよ!」


「セルディー」


 大きな大理石の柱の影からセルディーが出てきたのである。


「うそっ、いつの間に」


 どうやって尾行していたのだろう。


 少しも気付かなかった。


「飯の食い過ぎで腹が痛いから厠に行くって言って、あんたを追いかけてきてやったのさ。ブリブリの下痢だって言ってやったらどん引きしていたよ。さぁ、逃げようよ!」


「ずっと隠れていたなら、なんで、アルバ王子を殴って鍵を奪わないの?」


「馬鹿だね……。そんなことしたら、大騒ぎになっちまうよ。コッソリとここから出るのが得策ってもんだよ」


 しかし、どうやって逃げるつもりなのだろう。


「ほーら、みてごらんよ」


 得意気に、セルディーが右手を上げて天井を指差している。天窓に、へばりつくようにしてサリンダが潜んでいた。


「うそっ! えっーー、いつのまに……」


 大胆にガシャンと硝子を蹴り破ると、片手で荒縄にぶら下がったまま垂直に下りて床に着地した。兄は、いつもの貫禄充分の微笑みを炸裂させている。


「よう、ディディ。行こうぜ」


「ほらほら、サリンダにしがみつけばいいんだよ」


 セルディーがディディの背中を押し出している。だけど……。


「なんで、ここが分かったの!」


「アルバ王子が、おまえと歩いていた時、わざわざ塔を見上げていただろう。それで、ピンと来たのさ」


 サリンダは縄を掴んだまま、もう片方の腕でディディを抱きかかえようとしている。ディディは夢中になってしがみついた。


「いいな、兄ちゃんの背中に掴まってろよ。いったん、屋根に上がるぞ」


 以前にも兄は、ハレムの敷地に勝手に入っている。予行演習はバッチリである。


「この塔の西側なら人目につかない。兄ちゃんにしがみついていれば何も心配ないからな。よし、行くぞ」


「えっ」


 そんなことを言われても相当な高さだ。


(きゃーーー。やだぁーーー。怖いよう)


 屋根のてっぺんの真鍮の支柱に設置した滑車を使って滑らかに垂直に壁を降りていくことになったのだが……。うわーー。さすがに、いきなりの急降下に顔が引き攣ってしまう。シュルルーーーーー。

 

 兄の身体にくっついたまま、ディディはストンと静かに茂みへと辿り着いていた。

 

 ふと見上げると、続いて、セルディーが滑車と繋がっている綱を握り締めたまま器用に着地してみせた。たいしたものだ。

 

「セルディーは怖くないの?」


「平気さ。あたい、こういうのは昔から得意なんだよ。ワクワクするねぇ。ガキの頃、父ちゃんや驢馬と一緒に崖から滑り落ちたことを思い出すよ。あの時は、驢馬が気絶してウンコを漏らしていたっけ。あはは」


「おまえはすごい女だな」 


「いやいや、あたいにも苦手なものはあるよ。泳げないよ」


「それなら心配ないさ。海や河を渡る必要は無いからな」


 そのまま三人は繁みを伝いながらハレムの外側へ向かう。警備が手薄な観賞用の孔雀の小屋と垣根の隙間を進むと木製の園芸用の柵が見えてきた。何とも大胆不敵な逃走だった。兄が鉈を片手に乱暴にバキバキと柵を破壊して薬草園の向こう突破している。こうして、あっという間に検閲が厳しいハレムの外の敷地に出たのだ。


(でも、ここは、まだ内廷なのよね……。ババスがうろついているかもしれない)

 

 しかし、夕刻なので宮殿に通う役人は帰宅していた。よし、これなら行ける。


 走って突っ切るしかない。宮殿の外廷の門限が迫っている。


 三人ともハァハァと息を切らして西門を走り抜けていくと市場が広がっていた。安堵と爽快感が胸に蘇った。


 ああ、ここまで来れば安心だ。いつものように、市場は買い物客でごった返している。

 

「よし、ここまで来れば安心だな」


 兄は、そのまま馬商の館へ向かうと、丈夫な馬を市場の脇にある広場の片隅に連れてきた。


「ディディ、ほらよ。夜は冷える。これも持って行くといいよ」


 そう言いながらセルディーガ分厚い外套をよこした。そして、ティディに果物や食べ物を包んだ袋を手渡してきたので鞍に積み込む。


 買い物を済ませた兄は真新しい剣と鉈を背中に背負っている。王子を追跡する準備は整った。急かすように、セルディーがディディの背中を押し出している。


「ディディ、王子を助けるんだよ! あとのことはあたいに任せな!」


 西区にいる傭兵部隊を掻き集めて野営地に連れて行くという大役を、セルディーが買って出てくれた。みんなが集まるまで、ここで待っている訳にもいかないので、ディディ達は先に行く。


「あたい達もすぐに追いつくからね。王子を助けてやりな」


 カルゴの魔の手が伸びている。恐ろしい予感が野火のように広がっている。どうか、間に合いますようにと、デイディは祈りを込めて手綱を握り締める。


「いいな。夜道は暗いけど、今夜は満月だ。篝火は持たずに進むぞ。遅れずについてくるんだぞ」


「うん。分かってる」


 二人は馬に跨り、そのまま郊外へと続く乾いた街道を颯爽と走り出していたのだった。


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